Beer
「でも、サクライ社長の恋バナって、私、興味あるなぁ」
女の子の一人が僕達の顔をそれぞれ一瞥した。
「あるある! さっきの話じゃないけれど、サクライ社長を落とせるのがどんな女の子かっていうのは、こういう仕事をしているからっていうのもあるけれど、単純に女として興味あるわ」
他の女の子達も、その言葉に頷く。
「特に高校時代の、サクライ社長の恋愛に、興味あるなぁ。あの頃はアイドルとか芸能人も、社長のファンだって宣言する娘もいたし、そういう娘達と付き合っているんじゃないかって、色々噂も飛び交ったもんね。果ては皆さんがあんまり仲がいいから、三人でボーイズラブの関係だとか……」
女の子達はそう言いかけて、くすくすと笑いをこらえる。
「……」
そうだったのか? 僕がオランダでサッカーをして、日本中に名を売っていた頃は、家族が僕を中東に売り飛ばすことが判明していて、周りの反響を気にする暇もなかったからな……、
「あぁ、ありゃ参ったなぁ……なんでも同人誌で、俺達が裸でくんずほぐれつやる本が大量に生産されたとか。一冊そういう本が俺の手元に回ってきたが――思い出すだけでもおぞましい内容だったぜ……」
ジュンイチが酒で赤ら顔になった顔から、わずかに血の気が引いた。
「――そんな本が。どんな内容だったんだ?」
ユータが訊いた。
「ありのまま書いてあったことを話すぜ――冬薔薇の咲き乱れる園で、俺とお前がケースケに全裸にされて鎖で繋がれた後、ケースケがそんな俺達に交互にキスをしながら、ケースケの手は俺とお前の……」
「やめろ、もういい」
ユータがあまりの内容の酷さに、話の冒頭で遮った。僕の喉もあと1秒後には同じ言葉を発する準備をしていた。
「俺もあの本を読んだ時、何が起こっているのかわからなかった……頭がどうにかなりそうだったぜ。この世の最も恐ろしいものの片鱗を……」
「そんなもの、早く忘却の彼方に飛ばしちまえ」
僕はあまりの酷さにそう言うのだった。
「ふふふ」
女の子達はそんな僕達の様子を見て、とりあえず僕達にそういう関係はなかったのだと思ったようで、変にニコニコしていた。
「でもサクライ社長って、秘密主義だからそういうこと、全然教えてくれないんですよ。でも、ヒラヤマさんとエンドウさんなら、サクライ社長が高校時代、どんな娘と付き合ってたかとか、知ってるんでしょう?」
「……」
僕はもう一杯、グラスに注がれたドンペリのロゼを、口に含んだ。
「教えてくださいよぉ」
女の子達は舌足らずな声で二人に甘えている。さすがにプロだ。男の誘導が上手い。
「その話か――してあげたいのは山々なんだけどね。残念だけどもうここを出る時間になっちゃったんでね」
ユータがそう言った瞬間、僕は口に含んでいたドンペリを吐き出しそうになった。
「な、何……」
「えーっ、もう帰っちゃうんですか? まだここに来て、30分も経っていないのに」
そう、女の子達の言う通り。今は午後8時50分。レストランを出たのが8時で、そこからタクシーでこの店に移動して、まだ30分程度しか経っていないのだ。ユータがあれだけ行きたいと言うから、もっと――下手したらこの店のラストまでいると思っていた僕は、不覚にも面食らった。
「――そうだな、そろそろいいな」
ジュンイチもそのユータの言葉を聞いて、ゆっくりと席を立つのだった。
「……」
「私達のこと、気に入りませんでした?」
女の子達はそれを心配する。まあ、上客が30分で帰るのだから、女の子だけじゃなく、店の経営者だってそれを心配する。当然の反応だ。
「いや、そういうわけじゃないよ。ただ、ここに来た目的は果たせたし」
「目的?」
そう言ってから、あぁ、高級キャバクラのVIPルームに行きたい、って言っていたやつか、と思い直す。
「それに今日は、7年ぶりの再会だしね。そろそろまた3人水入らずで飲みたいって思って」
ジュンイチがそう言った。
「……」
30分で帰る――ジュンイチの言葉を借りるなら、7年振りの再会でこんな場所に来ること自体が普通ではない。それで30分で帰るなんて――だったら初めから来なくてもよかったじゃないか。また行く機会はいくらでもあるんだから。
出口ではユータがカードで支払いをした。自分で頼んで来たのだから、僕に払わせるわけにはいかないそうだ。
ユータとジュンイチは女の子達から沢山名刺を渡されていた。ジュンイチはこの名刺をどうする気だろう。よく名刺とかが見つかると、夫婦喧嘩になるっていうけど……
僕も預けていたコートを羽織らされながら、女の子達に、また来てね、と、何度も言われた。多分これからも一人で来ることはないと思う。女性にお金を払って奉仕を得るやり方が、僕はあまり好きじゃない。僕は金を持っていても、金で人を飼い馴らしたい願望がないからだ。
「ははは、結構楽しかったな」
ユータが店の外に出ると、そう言って笑った。10月の夜空に、ユータの酒で熱くなった息が白く立ち上った。
「そうか? ほとんど僕の話ばかりだったじゃないか。面白い話なんて……」
「いやいや、お前が相変わらずの天然だって思ってよ。特に接待ぶち壊した話は、お前ならやりそうだって納得しちまった」
「……」
僕は時計を見ると、もうすぐ9時を回るところだった。
「もう9時だが――次はどうする?」
僕は一人わけもわからず帰らされた身で、今後の予定など何も分からない。二人にそう訊くしかなかった。
「そうだな、最初がケースケの用意してくれたレストラン、次が俺の希望したキャバクラじゃ、次はジュンが行きたいところに行くのが妥当じゃないか?」
ユータが妥当な案を出した。
「そうか?」
ジュンイチはどんぐり眼をきょろきょろさせて、一度僕を見る。
「ケースケの体調がよければ、俺の夢もかなうんだがな……」
横のジュンイチが、今まで窮屈そうに締めていたネクタイを緩めた。
「よく考えると、俺達3人でやったことって、少ないよな。3人でラーメン食ったり、居酒屋に行ったり、ゲーセンもカラオケもファミレスも行かなかったよな」
「あぁ……俺とジュンの二人ならあるが、ケースケはな……携帯も持ってなかったし、お金もな……」
「……」
僕は二人を見る。
「お前が日本を出た後、俺達はよく二人で、安い居酒屋で酒を飲みながら、よく言ってたんだ。ケースケにまた会えたら、こうして3人で安い酒を飲もうぜって。高級レストランもいいが、その方が俺達らしいじゃないか、ってな」
「……」
この時、僕は思った。
僕は財界にいることが苦痛なのに、何で金にものを言わせる再会を、二人に与えていたのだろう……
僕達は高校時代、貧富や貴賤の差などなく付き合っていたのに……いつも二人の家で、安い酒を飲んで、遅くまで語り合っていたのに。
「――確かに、日本に帰ってからも、一度も行ったことないな、居酒屋は」
僕は呟いた。
「もう僕はあまり飲めないけど……それでもいいなら、7年も待たせたんだ。付き合うよ」
僕がそう言うと、ジュンイチが小さくガッツポーズした。
「しかしケースケ、キャバクラの女の子にえらい人気だったなぁ」
歌舞伎町周りには、居酒屋はごまんとある。そこまで僕達は歩いていくことにした。その途上でジュンイチが言った。
「相変わらず知らず知らずに女を狂わせる奴だ。昔は俺の方がもててたのに、すっかりお株を奪われちまった」
ユータが苦笑いした。
「……」
さっきから居酒屋やカラオケの勧誘に沢山声をかけられる。だけど今回はジュンイチに任せているので、僕達はジュンイチについていき、勧誘は無視する。
「てか、ケースケ。トモミさんはどうなんだよ」
ジュンイチが歩きながら後ろを振り返る。
「――どう、とは?」
僕は聞き返す。
「いや、手紙を読んだだけだが、あの娘、間違いなくお前に惚れてると思ってな。告白とか、されてないかと思って」
「……」
ジュンイチの読みに、心臓を突かれたように胸が痛んだ。
「うわ――されてるのかよ。そりゃまた……」
何も言っていないが、僕は相変わらず嘘が下手なようで、すぐユータに見破られた。
「……」
「その話も聞きたいものだな、ジュン」
「あぁ、酒の肴にしながらな」
「……」
――10月29日 PM9:00
僕達は新宿の雑居ビルの4階にある、大手チェーンの居酒屋にやってきた。クーポンを使うとコースが500円くらい値下がっちゃうような店――普通のサラリーマンでも、いい歳してこんな店で飲みたくない、とか言う人種もいるだろう。
給料日を過ぎているせいか、サラリーマンはお金があるのだろう。客席にほとんど見受けられず、大学生らしき私服の若い連中ばかりが目立っていた。ほとんど同性だけで固まっている。つまりカップルが進んで来るような店ではないということ。
威勢のいい声を上げて、店員が近づく。入り口にはハイボールを薦めるポスターが貼られている。
ほとんどの席は、背の低い敷居で区切られただけの4人掛けの席だったが、座敷席があるというので、僕達はそこに移動した。店の奥の方の席で、他の席に比べると多少隔離してある。
ジュンイチは久々の革靴が苦痛だったようで、靴を脱いで座布団に腰を下ろすと、ふーっと息を漏らした。僕はコートを脱いで、座敷の欄間の下の隙間にかけてあったハンガーに吊るし、席に着くと、初めて来た居酒屋をキョロキョロと見回す。
「はは、そんなに珍しいか?」
向かい合うジュンイチが訊いた。
「あぁ……だけど、少し落ち着くな。僕も高級レストランよりも、こういう方が肌に合うみたいだ」
「そうか。また来たくなったらいつでも言えよ。一人じゃなかなか来にくいだろ?」
少しジュンイチは嬉しそうだ。
「俺もこういうところ、来るのは久しぶりだな。昔はよく来たもんだが」
しばらくして店員に御通しを出される。
「とりあえず生3つ」
ジュンイチが勝手に注文する。
「俺はナンコツ唐揚げとネギマとカシラ。あとシーザーサラダ」
「じゃあ俺は――ホッケもらおうかな。あと刺身盛り合わせ――もずくももらおうかな」
二人は料理を注文する。
「ケースケも何か頼めよ」
ジュンイチにメニューを渡される。しかしメニューが多過ぎて、慣れていない僕はすぐには決められない。そもそも僕はいっぱいは食べられない。
「じゃあ――タコワサビとぬか漬けと冷奴――あと水をコップ一杯」
それだけ頼んだ。
ビールと水が運ばれると、僕は鞄から、病院で出された薬とサプリメントを取り出し、水で一気に流し込んだ。
「随分沢山飲むんだな」
斜め前にいるユータが言った。
「ほとんど栄養剤さ。仕事してると食事摂るの忘れちゃって……軽い栄養失調らしい」
「そんな働いてるのかよ、お前」
「さぁさぁ、話の前に乾杯しようぜ」
ジュンイチが言うので、僕も一回り小さいジョッキを手に取った。
「じゃあ――ケースケの居酒屋デビューに乾杯!」
ジュンイチがそう音頭を取り、僕達はジョッキを鳴らした。僕はジョッキを持つのも生まれて初めてだ。何だか自分が普通のサラリーマンになったような気がして、ちょっと嬉しかった。
ジュンイチは勢い良くビールを喉に流し込む。まるでコマーシャルのように喉を鳴らし、あっという間に中ジョッキに並々と注がれたビールが空になった。
「プハーッ! ワインもいいがやっぱこれだぜぇ」
染み渡るような歓喜の声を上げるジュンイチ。
「お前――飲み過ぎじゃないのか?」
僕はジョッキのビールをちびりと飲んだ。家で缶ビールを少し煽ることはあったが、ジョッキで飲むと一味違う。冷たくて、喉を通る後味の良さは快かった。
「お前、一人で今日、ワインボトル2本近く飲んでるぞ」
「今のジュンの最高の楽しみなのさ、ビールは」
ユータが言った。
「最高の楽しみ?」
僕は言った。
「安上がりだろ? ビール一杯で幸せになれちゃうなんて」
ジュンイチは得意げに言った。
「なぁ、ケースケ。俺はカメラマンになってから、色んなものを見てきた。それでわかったんだが、世界はでかすぎて、ちっぽけな人間じゃ一生かかっても、この世界でちっぽけな自分に何ができるかなんてわからんよ。だから自分のちっぽけな世界で自分なりの真理や生きる理由を見つけることが、人生って言うんだと今は思ってる」
そう言った時、ジュンイチが頼んだおかわりのビールジョッキが届く。
「そんで今の俺の当面の生きる意味はこれだ」
そう言ってジュンイチはビールジョッキを差し上げた。
「ビールが――生きる意味、か?」
僕は首を傾げる。
「撮影が入ると何週間も、時には何ヵ月も家に帰れない時があるが……そうして久し振りに家に帰ってひとっ風呂浴びて、さっぱりした後に、嫁さんの手料理食いながら飲む冷えたビールの美味さは、そりゃもう最強だぜ? 俺はその時に至高の幸せを感じるんだよ」
「……」
「ま、お前と7年ぶりに飲むビールも最高に美味いがな」
「――そうか」
僕はジュンイチの話を聞きながら、少しだけ心地よさを感じた。
そして、思った。
僕は二人がそれなりの地位を手にしていて、恥ずかしい思いをさせるわけにはいかないと思って、都内の高級レストランなんかを用意した。さすがに僕の今いるようなチェーンの居酒屋になんか連れて行けないと思って。
だが、違った。二人とも、そんなことに尊いとか卑しいとか、財界の人間のような蔑みの視点とかは持っていなくて。
むしろこういう、堅苦しくなく、ざっかけない場所で安酒でも飲んで語り合っている方がよかったんだ。
7年前のように。
別に高級レストランなんかどうでもよかったんだ。二人は地位や名誉を手にしていようが、財界の人間とは違うのだ。
僕は何もわかっていなかったんだな……親友だと思っているこいつらのことさえ。
今でもこいつらと会ってよかったのか、と、僕は少し後悔している。
僕はこいつらを、何も理解できていなかったことを、さっきから思い知らされてばかりで。二人は僕の想像もつかないくらい、立派に成長していて。
こんな自分が、二人の前に姿を現して、何だか申し訳ないような思いは消えていなかった。
「俺の生きる意味は……やっぱサッカーでゴールを決めた時かな」
ユータが続いて言う。
「特にサポーターと一緒に喜べた時は最高だな。ゴールネットにボールが吸い込まれていく時とか、決められそうなボールに飛び込む時の高揚感が、俺を熱くしてくれる――そういうのにいつまでも飢えたままでいられてるのかな、俺は」
「……」
これと似た感覚を、僕は過去に味わったことがある。
7年前、二人の将来のプランを初めて聞いた時……二人が夢を語っているのに、僕には何もない……その時のことを思い出した。
「なぁ、ケースケ。今のお前は、そういう生きる意味を持っているか?」
ジュンイチが訊いた。
「俺達はお前のことをこれまで、報道なんかで動向を探っていただけだが……お前はどうにも生きることに投げ遣りになってるように感じてな……」
「……」
それをこいつらに気付かれたくなくて、僕は頑張っている様を見せようと頑張っていたのに……
全部無意味だった。僕がもう自分自身さえ見失っていることも、こいつらにはもうとっくにばれていたんだ。
「トモミさんからも、手紙で聞いてるぜ。今のお前は毎日が辛そうで、自分で自分を痛め付けているみたいだって。昔と今で、激しい落差を感じているんじゃないかって」
「……」
本当だな。今の生活は、とても満ち足りていたはずなのに――
何故だろう、海外で金がないなりに生きていた頃の方が楽しかった。僕は日本に帰り、金や権力を持ったことで、気持ちが日に日に荒れていくようだ。
「それで、さっき女の子の話を聞いていて、俺は確信したよ」
ユータが僕の目を覗き込んだ。
「お前――まだ、あの娘のことを忘れられないんじゃ……」
次回、遂に「あの娘」の空白の7年間が明らかに!…なるかも知れない…
そんな余韻をぶち壊すあとがきですが、皆さんは居酒屋で好きなおつまみとかありますか?作者は軟骨唐揚げと明太子を使ったものが好きなんですが。最後に食べるお茶漬けも好きですねぇ。