Toast
――10月29日 PM6:30
ユータがイタリアにいるということで、日本でイタリアンを食べても現地には劣るだろうと思い、僕は今日、フランス料理をチョイスしていた。ミシュランガイドに載る都内の最高級三ツ星レストランだ。
「はぁー、ケースケ、おごったなぁ」
ジュンイチがまた舌を巻いた。風貌が随分ワイルドに変身してしまっているけれど、ジュンイチは高校時代のままの陽気さとおおらかさを持っていて、何だかそのギャップが少し面白かった。
ユータも日本円で換算すると、今でも十億以上の金を稼いでいる。サッカーの収入だけでなく、国内トップアスリートゆえ、CMの契約料やら、その他も含まれれば、どのくらい稼いでいるのだろう。移籍をすれば、将来倍額くらいになるかもしれない。
世間では、そのユータよりも金持ちだと思われている僕だが、僕の収入が激務の割に少ないのは、以前説明したとおりだ。それでも都内でほとんど生活する僕が、今日のホストをする予定。
「二人とも、今は煙草を吸うのか?」
「まさか。肺機能がものをいうサッカーやってて、煙草なんか吸わないよ」
「俺も撮影で山の中とか、海外とかによく行くからなぁ。そういう場所で日本人がゴミとか残していってるのとか、山ほど見てるから。そういうの見てると、煙草なんて吸う気起きないよ」
「ケースケも吸わないだろ?」
「――あぁ」
二人とも、今でも煙草を吸わないらしい。ちょっとほっとした。
あらかじめ静かな席を予約していた。3人とも煙草は吸わない。レストランには、同じようにフォーマルな装いの客が何組かいたが、いずれの席もかなり離れているし、満席とは程遠く、静かだ。窓側の席からは、ユータに用意したホテルの部屋から臨む夜景と負けず劣らずの夜景が広がっている。
まずソムリエがやってきて、食前酒のオーダーを聞かれた。ジュンイチは戸惑っているけれど、とりあえず僕は乾杯用に、上等なシャンパンを頼むことにした。後の酒関係は、イタリア在住歴が長く、ワインにも造詣があるだろうユータに任せることにする。
シャンパンフルートに黄金色のシャンパンが、微細な泡を立てながら注がれる。
「じゃあ――とりあえず乾杯だけど……何に乾杯しようか?」
僕がフルートを手に持ちながら、言った。
「ま、とりあえず、お前との再会を祝して、だな」
ユータが僕に向かってはにかむ。
「ついでに、ジュンの結婚にも――だ」
「ついでかよ」
「はは、もう半年経ってるしさ。今更って感じだけど――って意味さ。悪かったな。俺も今年は日本に帰れなかったから、結婚の報告の時も、手紙をよこすだけになっちまって」
どうやらユータも、ジュンイチが結婚してから、初めてジュンイチと顔を合わせるらしかった。
「――なぁ、ひとついいか?」
3人ともフルートを手に持つと、ジュンイチが提案した。
「俺達、ここで義兄弟の杯といかないか?」
「は? 義兄弟?」
文学に造詣の浅いユータは、その意味がよくわかっていないようだ。
「三国志のオープニングさ。劉備、関羽、張飛の三人は、桃の木の下で、乱世に旗揚げする誓いを立てて、宴会したんだ。我等生まれた時は違えど、死す時は同じ日、同じ時を願わん、ってな。そうして兄弟としての誓いを立てた。そういうのを義兄弟の杯っていうのさ」
僕が説明した。
「兄弟に会うのを遠慮する兄弟はいないだろ? ケースケがもう二度と意地張って会いに来るのをためらわないように、義兄弟になっちゃおうってわけ」
「いいなそれ。いわば保険だな、ケースケへの」
「……」
――まぁ、いいか。それも悪くない。他の連中とじゃ、恥ずかしくてとても出来たものではないけれど、この3人なら、昔のノリでそんなことも出来ちゃうのだろう。
僕はすっとフルートを高く挙げた。それがOKのサインだった。二人もにっと笑い、フルートを高く上げる。
「我等ここに誓おう。我等7年の歳月流れるも、生涯決して袂を分かたんことを」
大袈裟なジュンイチの音頭。まるで歌舞伎か何かのワンフレーズだ。こんなフォーマルなレストランで、こんな暑苦しい事をしているのも僕らくらいのものだけど、他の客は自分達のことに夢中で、こちらのことなど見ていないのが、少し救いだった。
そんな思いをはらみながらも、僕達はフルートに泡を浮かべるシャンパンを飲み干し、改めて義兄弟となったわけだ。
料理は前菜が運ばれてきた。ジュンイチはこのシャンパンの味が気に入ったようで、おかわりを注文した。ユータもそうしていた。
「マイさん、綺麗になったんだろうな」
オードブル、スープとコースは進み、魚料理が運ばれてくる頃、ユータとジュンイチはワインが入って、さっきよりも舌が滑らかになり始めていた。
「お前こそ、色々な女の噂を訊いているが、まだ結婚しないのかよ」
ジュンイチは、自分の女房の話に照れたのか、ユータに逆質問した。
ユータは僕が日本を出て数年は、ストイックなまでにサッカーに打ち込んでいたというが、ここ数年――そう、多分僕が日本に帰ってきた頃あたりからは、様々な女性との噂が、ゴシップで流れるようになっていた。イタリアのオペラ歌手だったり、モデルだったり、日本の女優なんかとも浮名を流していたという報道が流れていた。
そりゃ、185センチ、78キロの鍛え抜かれた体があって、ミランのエースフォワードで金持ちと来れば、もてないわけがないよな。
「スポーツ選手なんて、嫁さんもらって、食事とかの管理とかをしてもらった方が絶対いいだろう。選手寿命も延びると思うし」
「ま、その通りなんだけどな」
ユータはワイングラスを置く。
「それは、もう結婚した時点で、自分の未来を捨てて家に入って、俺の面倒を見るって覚悟がある女を嫁にした時の話さ」
「……」
「残念ながら、今の俺に寄ってくるのは、モデルや女優なんて、それなりに社会的名声のある女ばかりさ。そういう女はただ退屈を紛らわす非日常が欲しいだけでさ、嫁になって、スポーツ選手としての俺の成功を支える嫁になってくれるって未来が、まったく想像できないんだよ」
「――成程」
僕は口を開いた。
その気持ち、何となく僕には分かる。
僕もフランスで、宝石デザイナーとしての道が開け、名声を手にしてから、多くの女性が僕に言い寄ってきた。でもそれはほとんど、僕の持っている金と、一流ブランドのデザイナーという、その女性にとっての非日常に群がってきただけで。
一緒にいても先がなく、救いもない。そんなことが一瞬で分かってしまう女ばかりだった。
「だから、噂になったような女とは、みんなその場限りって言うかさ、ちょっと食事したとか、そんなもんだよ。真剣な交際ってのをしたことはない」
「そうなのか?」
ジュンイチは首を傾げた。
「あぁ。とは言っても、そういう女と先がないのが分かっていて、俺は俺のために、そういう女を利用しているんだから、人のこと言えないけどな」
「……」
ユータの言いたいことは、僕には分かる。
「ミランっていうのはすげぇチームだよ。サポーターが熱心でよ。試合に負けて、その試合でちょっとでもミスをしたら、次の日の新聞で、人もなげに叩かれるし、街を歩いていても、知らない奴に文句を言われたりするわけさ」
ユータの言っていることは本当だ。ACミランのサポーターはミラニスタといって、世界中にその愛称で知られるほど、名物的に熱い。
そしてヨーロッパのスポーツ新聞のサッカーに対する採点欄は、日本のものとは比べ物にならないくらい厳しい。ワールドカップ予選である強豪国が惨敗した時に、その国の新聞に選手名の書いた墓の絵を挿絵に載せる新聞もあるほどである。
「だから、たまに神経バラバラになりそうな時もある――そんな気持ちが荒んでいる時に、そういう刺激なりを求める女がやってきてさ、俺はそういう女でガス抜きをしてるってわけだ……」
自分の弱さを自嘲するような、ユータの笑み。
「俺もマイさんみたいな気心知れた恋人が、日本にいる時にいればよかったんだが――どうやら俺はヨーロッパにいる限り、まともな恋ができそうにないかも」
「――そうか。ミランのエースってのは、そうでもしなきゃやってられないかもなぁ。なまじ奥さんがいるよりも、そういう行きずりの恋みたいな関係の女が何人かいる方が、精神の健康にはいいのかもな」
ジュンイチが納得したように頷く。
「……」
ジュンイチはそれをある程度理解したようだが、こんな話をして、自分は悪くない、なんてことを言う気はない。それも受け入れて、ユータはそんな生き方をしている。それがその表情をみて、分かった。
確かに、一晩明けたら街中が自分の敵になって、罵声を浴びせることもある、そんな場所で生きていくことは、並の精神力では生きていけないだろう。
「別に弁護を求めるわけじゃないが、ケースケならそういう気持ち、少しは分かるだろ?」
「――ああ」
僕は返事をした。
僕だってこの7年間、気持ちの荒むようなことばかりだった。国を捨てて、友を捨てて、この手で家族を血に染めたことがいつまでも頭を離れなくて、狂いそうな時もあった。
そんな時、僕も声をかけてきた女と、堕ちていくような錯覚の恋に浸りたいと思ったことも何度もある。
だけど、僕がユータと違うのは、この左腕の疼き……
これがあるから、僕は女をそういうガス抜きの道具に出来なかった。
そのせいかどうかは分からないけれど、毒を含んだガスが僕の心を腐らせて、そのガスを抜くことも出来ないまま、僕の心は壊れてしまったわけだ。
「ふぅん……」
ユータは意味深な頷きを見せた。
「その割にお前、俺と同類の臭いがしないんだけどな。お前なんか、今の会社の噂を聞く限りじゃ、俺以上に並大抵のメンタルじゃ乗り越えられない世界にいるはずだが……」
「そうかな……」
「――成程、報告の通りか」
「報告?」
「ユータ、お前」
ジュンイチがどんぐり眼を大きく見開く。
「さっきジュンイチも言ってたな。報告がどうとか」
「あ、覚えてた?」
ジュンイチは舌を出す。
「仕方ない――白状してやるよ」
ジュンイチは肩をいからせ、溜め息をついた。
「ケースケ、お前、いい秘書さんを持っているんだな」
「え?」
「俺達、この7年間に、お前に宛てて手紙をかなり出したけどよ、お前、一通もそれには返事をくれなかっただろ」
「――ああ、すまない……」
その話をされて、僕は思わず謝ってしまう。
「でも、実は俺達、その手紙の返信は、毎回もらってたんだぜ。お前の秘書の、トモミさんからな」
「な、何……」
ジュンイチのそのカミングアウトに、思わず裏返りそうな声が、僕の喉から漏れる。
「彼女、お前が俺達に返事を書かないんで、いつか俺達が愛想を尽かしてお前を見捨てると思ったんだろうな。最初、俺達の住所に手紙くれてさ。『社長は今、お二人に恥じない男になりたいって、その一心で一生懸命働いて、自分を見つめ直しているみたいです。女の人と遊んだり、羽目を外すような遊びなんか全然目に入らないくらい、頑張っていて。手紙の返事がないのは、決してお二人のことを嫌いになったわけではありません。だから、お返事がなくても、気を悪くなさらないでください』って」
「……」
まさか、トモミがそんなことを……
だが、トモミはこの二人と会ったこともないのに、二人と僕の関係をよく知っているようだった。二人に会った方がいいと僕に勧めたこともあるくらいで。
――トモミが、この二人とコンタクトを取っていただなんて……
「あまりトモミさんを怒らないでやれよ。彼女、お前と俺達の関係を心配して、そうしてくれたんだから。それにお前のプライバシーに関わることまで、彼女は喋ってないし、俺達も訊いてない」
ユータが言う。
「ま、結果的に俺もジュンも、トモミさんからそんな丁寧な返事が届いてさ、それ以来、手紙のやり取りをしてたんだ。お前が元気かどうか、それくらいの簡単なお前の近況を訊いたりな。俺達としては助かったよ。トモミさんが少しでもお前の近況を訊けるおかげで、安心してお前を待つことができたからな。さすがに返事のない手紙を何年も書いていたら、お前はもう俺達のことを忘れちまったんじゃないかって、心が折れてしまったかも知れん。そういう意味じゃ、俺達が今日こうしてめでたく会えたのは、トモミさんのおかげかもしれないな」
「……」
――そんなことが。
でも、普通7年も手紙を出し続けて、1通も返事が来なければ、普通もう手紙など送ってきはしないだろう。疎遠になったことを悟って、自分から身を引く。そうして遠距離恋愛のように、関係は次第に風化していってしまうだろう。
僕達もそうなってもおかしくなかった。
でも、トモミは僕達をそうさせたくなかったんだ。
僕にはこの二人が必要だと思っていたから。僕にまた、7年前のように、この二人と笑って欲しいと願っていたから。
トモミはずっと前から、僕の知らないところで、僕の幸せを願ってくれたんだ。僕がまた笑えるように、いつか僕がこいつらと会う時のことも考えて、そのために自分に何が出来るか、一生懸命考えて。
それなのに彼女は、そうして僕のために骨を折ってくれた事に対して、僕に恩を着せるようなことを一言だって言わずに……
僕は、そんな女の想いに気付きもしないで……
「お前、あんまりトモミさんに心配かけるなよ」
ジュンイチが言った。
「社長は仕事はいつも一生懸命だけど、無茶も多くて、時々見ていられないことも多い。もっと体をいたわって欲しいって、よく言ってたぞ。それに、手紙の返事がなくても、社長を冷たい人だと思わないでください、って、健気過ぎてこっちが泣けてくるくらい、俺達とお前のことを心配してたんだぜ。色々気苦労があったはずだぞ。次に会ったら、どんな形でもいいから、労ってやれよ」
「……」
知っているさ。トモミに先日同じことを言われたからな。
――そして、今のジュンイチの言葉を聞いて、分かった。
トモミはずっと、そうして傷付き疲れ果てる僕を見るのが辛くて……
この二人に、それを止めて欲しかったんだ。この二人なら、僕を止められると思って。
それを見るのが苦しくて、その苦しさが一人では抱えきれなくて。
口には出さなかったけれど、ずっと辛い思いをしていたんだ。
そこから自分のことも救って欲しくて。誰かにその気持ちを分かって欲しいと思って、二人にその想いを吐き出していたんだ。
彼女はそんなにも辛い思いをしていたのだということが、痛いほど分かった。