Airport
「あいつ?」
ジュンイチは首を傾げた。
「そうか――あいつ、もう帰ってくるのか。相当無理したな」
「多分、そうだな。今のあいつの状況で、簡単に日本に帰ることは許されないからな」
「……」
ジュンイチはおもむろに立ち上がる。
「俺も行っていいか?」
そして僕にそう訊いた。
「そう言うと思って、今夜行くレストラン、3人分の予約を入れてある」
僕はそう言ってから、マイの方を見る。
「そういうわけで、マイさん。悪いけど、今夜ジュンイチを借りてもいいかな? 多分帰りは遅くなるし、新婚早々で申し訳ないんだが」
「いいわよ、何なら今日は帰ってこなくてもいいから」
僕は心配していたのに、マイは即答でそう答えた。
「……」
その答えの速さに、僕は少し面食らった。
「私だって、旦那が朝帰りとかしたら、そりゃ、嫌なもんだよ?」
そんな僕の表情を見て、マイが何かを察したのか、口を開いた。
「だけど、あなたと一緒なら――そして、今夜は例外。さっきも言ったでしょ? この人、この7年ずーっとあなたのこと心配して、会いたそうにしてたんだから。さすがにそれを見ていると、今日は止められないわ」
「……」
それを横で聞いているジュンイチは、気恥ずかしそうに自分の髭をさすった。
「だから、今日は思いっきり3人で遊んできて。7年分」
マイはにっこり微笑んだ。
「すまない。ありがとう」
僕はマイに会釈した。
「あ、そうだ、サクライくん。今日のことを許す代わりというわけじゃないんだけど――2日後に、今度は私も一緒に、どこか遊びに行けないかな」
「え?」
「実はね、その日に私、サプライズを用意してるの」
「さぷらいず?」
僕とジュンイチ、同時に声を出す。
「何だよそれ。俺も聞いてないぞ」
ジュンイチはどんぐり眼をぱちくりさせる。
「それは2日後のお楽しみ。でもきっと、驚くことは保障するわ」
マイはいたずらっぽく笑いながら、胸を張った。
「それは気になるな……」
僕は言った。社交辞令ではない。マイの驚かせる自信に満ち溢れた素振りを見ると、相当すごいことが起こるのだろう。
「ああ、分かった。2日後に。だけどその日は仕事にも出なくちゃいけないから、その後だな」
そう言ってから、僕はジュンイチの方を見る。
「ジュンイチ。悪いが出発する前に、スーツを着てきてくれないか。そうじゃないとレストランには入れないからな」
言いながら僕はジュンイチの格好を一瞥する。
「その無精髭は――まあいいか」
「へ? スーツ?」
ジュンイチが声を上げた。
「スーツじゃなきゃ入れないレストランって……俺、マイにプロポーズした時しか行ったことないぞ」
「あの時、ジュンくんわざわざスーツをおろしたのよね。高校の頃のは着られなくなっちゃって……」
マイがそれを聞いて、くすくす笑いだした。
「プロポーズか――その話、今夜じっくり訊きたいところだな」
僕はジュンイチに笑みを向けた。
「あぁ、いくらでも聞かせてやるぜ。と言うかお前、今日は俺達と会ったことを後悔するぜ。朝まで話に付き合ってもらうから覚悟しやがれ!」
ジュンイチは喜びをあらわにしながら、僕にそう返した。
「――あぁ、今日の勘定を全部僕が持つことも、もう覚悟してるよ」
元々はタクシーで羽田まで行く予定だったのだが、ジュンイチが車を出してくれると言ったので、僕達は駐車場へ向かった。
ジュンイチの家のガレージには、玄関から見えたファミリーワゴンの陰に、もう一台、でかいジープが止まっていた。どんな悪路にも対応できるよう、タイヤの爪が深く、自動ブレーキシステムまで付いている型だ。おそらく仕事用だろう。後部座席の後ろのスペースは、三脚やらレフ盤、小さな照明器具や暗幕が押し込まれていた。
「これ、すごい車だな」
「乗ってみるか?」
ジュンイチの誘いに乗って、僕はジープの助手席に乗り込む。
「こんな車に帰国早々押し込まれるあいつも気の毒だな」
ジープはタイヤが高いので、普段僕が乗っている車より目線が高い。だから目の前の車などを、気を抜いたら踏み潰してしまいそうな錯覚を感じた。
「サクライくん、またいつでも遊びに来てね」
玄関の前までマイが見送りに出て、車に乗った僕に手を振った。
ジープがガレージを発進する。大通りに出るとすぐに首都高に入る。やたらと揺れる車だ。
「マイさん、何だか綺麗になってたな」
僕はハンドルを握るジュンイチに言った。
「ああ見えて、怒ると超怖いんだぜ。引っ掻いてくるし。おまけに財布を全部握られてて――俺は寂しいお小遣い制だよ」
ジュンイチは、可愛そうな感じの声を出す。
「リアルな話だな」
「まったくだよ。お小遣い制なんて、結婚は人生の墓場だねぇ」
そんな軽口を聞きながら、ジープは順調に首都高を走る。この時間は丁度帰宅ラッシュになるけれど、僕達は上り車線だから、逆に空いているくらいだった。
「――マイに心配かけたくなかったから、話題に出さなかったけどよ」
ふと、ジュンイチが僕を見ずに、ハンドルを回しながら声をかけた。
「お前、災難だったな」
その折、ジュンイチが僕に言った。
「え?」
「この前、馬鹿な女にゆすられたんだろ」
「……」
「それでお前が倒れたってニュースが流れたのは、翌日だ……」
「――ああ」
僕は返事をした。
「実は俺の所にも取材が来たんだよ。お前が酔い潰した女に手を出したって報道が流れた時、昔のお前をよく知る者としてな」
「……」
「だが、俺は答えなかった。お前の手並みを見たくて、邪魔したくなかったんだ。お前のことだし、策の一つもあるだろうと思ってな」
「……」
確かに、策はあったさ。実に小賢しい策が。
そんな小賢しい手を使って、僕は女を一人、地獄へ落としたわけだ。まるでゴミのように。
あの女にも、家族がいるというのに、それを辱めた。
そして僕は、その女の家族に泣きつかれ、拝まれた。
「お前、あの女に情けをかけようとしただろ」
「え?」
「お前、女が好きかはともかく、女に甘かったからな」
「……」
「別に理由はいい。お前に会えただけで俺は嬉しいし……ま、今夜は七年分、じっくり話そうぜ」
10月29日 PM5:00
外はもう薄グレになっていて、徐々に世も老けてくる時間。僕が着ているコートも、昼間は少し汗ばんだが、ようやく風が冷たくなってきて、コートを着るのに丁度いい温度になった。
空港には既に、多くのマスコミが集まっていた。マスコミは往々にカメラやマイクを持っていて、報道陣の肩に巻かれる、報道者を証明する肩章と、持っている大型カメラの横には、テレビの他に、スポーツ新聞の名前の書かれたものが一際多い。
「すごいな、あいつ。たかが帰国なのに、マスコミが40人はいるぜ」
「あれでも今年のヨーロッパのマーケットで、2000万ユーロの値がつくことは確実って言われてるからな」
空港を歩きながら、僕はそう言った。
「へえ、お前、結構サッカー見てたんだな」
「プロサッカーチームも持ってるし、サッカーでチャリティーもやるんだ。当然の知識さ」
イタリア、ローマから東京着の飛行機のゲートへ向かうと、僕達の姿を見つけたマスコミが駆け寄ってきた。
「やべ、見つかった」
ジュンイチは顔をしかめる。
「サクライさん! かつての親友と遂に再会ですか?」
「こりゃいい絵になるぞ! 再会シーンを絶対写真に収めろよ!」
ゲート前で僕達はマイクを向けられ、マスコミの動きも慌ただしくなる。
「勘弁してくださいよ。折角の再会なのに、風流を解さない人達だなぁ」
ジュンイチがそうしてやんわりとマスコミをかわしていると、空港の着陸場から、最寄のゲートまでゆっくりを飛行機が近付いてくるのが、空港施設のガラス越しに見えた。タラップが取り付けられる。
「あいつ、俺達の中で一番変化ないから、すぐ分かるぜ」
ジュンイチが僕の横でそう呟く。
既に一般搭乗客が降りはじめている。恐らくあいつはビジネスクラスでの帰国だろう。あいつは最後まで待っているのか、それとも緊張で深呼吸でもしているか…
お互いの想いが交錯するように、そいつは最後に出てきた。
カート式のバッグを転がすその男は足を止める。
見事な長身に端正な顔立ち、イタリア製の細身のストライプスーツをここまで着こなせる日本人はそうはいないだろう。細身だが、それが着痩せであることは一目瞭然。鍛えられた肉体が、スーツの印象をがらりと変えている。男振りが匂い立つように威風堂々とした佇まい。
高校時代ボサボサだった髪は、すっきりとショートに切り揃えられ、ワックスで整えている。額も出して、髭もない。高校時代よりすっきりしたせいか、表情は7年前よりずっと精悍な印象。
それがもう一人の親友、ヒラヤマ・ユータの現在の姿だった。