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1st-person(3)

 マイが淹れてくれたコーヒーと、僕の買ってきたケーキがテーブルに並ぶ。

「ん? このコーヒー、香りがいいな」

 鈴蘭のプリントが入った、薄桃色のカップを持ったまま、僕は声を上げる。

「現地で買ってきたキリマンジャロを、真空パックしたやつを今空けたからね。最初の一杯は、大切なお客様が来た時のとっておきに取っといたの」

 ジュンイチの隣に座るマイがにっこり笑った。

「マイさんは、今はジュンイチの通訳をしているんだっけ」

 今やエンドウ・マイとなった彼女は、高校時代の志望通り、東京外語大に合格して、語学を勉強し、卒業後は出版社で翻訳関連の仕事をしていたらしいが、ジュンイチの仕事が軌道に乗って、独立したことで結婚を決め、会社を寿退社。今ではジュンイチの仕事のサポートを行っていると聞いている。

「そう。この人、海外の撮影もあるから、その時、現地のガイドとかと話をしなきゃいけない場合は、私もついていくの」

 そう言って、マイは隣の席に座っているジュンイチの、髭の生えた頬を指でつついた。

「この人、こんな仕事しているのに、英語も挨拶くらいしか出来ないのよ。全然勉強しないの」

「いいんだよ。言葉が通じない方が、かえって分かる表情とかがあるんだよ。それに、言葉が分からないと、お互いに人間、自分のことを伝えようって努力するだろ。そういうことで、下手な言葉持っているよりも、分かり合えることってあるんだよ」

「あ、またいつもの言い訳した!」

「本当だって! ケースケ、お前だって旅をしてきたならそういうの、ちょっと分かるだろ?」

「――ああ、そうだな」

 含蓄のある言葉だ。

 僕なんて6ヶ国語を操れるのに、この7年、誰一人として上手く分かり合えた人間の心当たりがない。

「でも、マイさん。こいつの撮影じゃ、いわゆるアメリカとかヨーロッパとか、観光向きの国じゃない国も多いんだろ。大変じゃないのか」

 これは東南アジアや中東を旅した僕にはよく分かる。女性でも外から丸見えのところで用を足さなくてはいけない国や、女性が肌を露出して外を歩けない国、ムカデやらの虫が寝ている間に体の周りに這い寄ってきたりする宿泊施設しかない国を、僕も旅で経験した。

「確かにね。辛い時もあるけれど、私がついていく機会は、半年に一回くらいだし、それくらいならいい経験だと捉えられるわ。色んな国に行けるのは楽しいし」

「……」

「それに、ジュンくんの手伝いとは言っても、普段していることはそこらの主婦と変わらないわ。基本はパートだから――普段は大学時代にバイトしてたアイスクリーム屋で、朝働いてるの。パートで貯めたお金で、駅前留学して――フランス語は大学で専攻したから、今はドイツ語とポルトガル語を勉強してるの。それで将来、もっとジュンくんの手伝いが出来たら、って感じかな」

「――成程」

いいお嫁さんしてるんだな。旦那を公私で支えるなんて。

 マイは7年振りに会った時、びっくりするくらい綺麗になっていて、内心僕はちょっと驚いていた。元々チアをやっていて、スタイルもよかったけれど、何だか当時よりも、更に女っぽさが増した感じだ。エプロンなんかして、所帯じみた感じがあるのも、何だか落ち着いた大人の女って感じがする。

 ――僕って、人妻フェチだったのかな。なんて馬鹿な事を一瞬考えた。

「――幸せなんだな。二人とも」

 僕は誰に頷くでもなく、ゆっくり首を縦に振った。

「それよりお前だよ、ケースケ」

 ジュンイチの声が、そんな僕の感傷を止めた。

「今更だが――すげぇよ、お前」

 そう声を発したジュンイチの目は、まるで英雄を見る子供の目のようだった。

「日本に帰って、創業2年で日本第2位の企業を作り上げるなんて」

 そう言って、ジュンイチは目の前のカップに手を伸ばした。

「このカップも、実はグランローズマリーのマーケットで買ったんだぜ。かみさんが一目惚れしてな」

「あぁ……そうなのか」

 道理でこのカップ、見覚えがあると思ったんだ。

「貧乏人から金を取らずに、金持ちから金をもらって、それを商売って形で、貧しい人達に再分配する――しかも商品がいいからなぁ。俺達の収入でも、こんないいティーセットが手に入るわけだ。今じゃお前、庶民の英雄だぜ」

「英雄か……」

 その英雄が、逆らうものには容赦なく暴力を振るい、助けを求める女に「死ね」と言ったり、老婆に泣きじゃくられたりしていることを、ジュンイチは知らない。

「そんなカッコいいものじゃない」

「謙遜するなって」

 ジュンイチが笑顔を向けた。

「グランローズマリーが日本に出来て2年で、消費が増えて、日本は少しずつだけど、確実に今景気が上がってる。アメリカ、ユーロ圏の経済が落ち込んでいる今、このままグランローズマリーが日本の経済を引っ張るようになれば、日本は世界の経済の手綱を取る国になれるって、知識人は言ってる。今グランローズマリーがなくなったら、日本のGDPは5%、失業率は2%以上悪化するなんて言われてるんだぜ」

「……」

 僕は呆気に取られてそれを聞いていた。

「なんだよ」

「いや、お前がGDPとか、特殊な用語を使ったり、景気の話をしたりするのが、違和感あって」

「ははは、7年前の俺なら、そうだろうな」

 ジュンイチは、白い歯をにっと剥き出した。

「でも、男子3日会わざれば、括目して見よ、ってな。俺もお前と会う時までにと思って、少しは勉強したってことさ。高校時代は数学とか、物理とか、嫌いなものを強制的に勉強させられてたけど、今じゃ好きなこと、興味のあることだけ勉強すりゃいいんだ。それなら勉強なんてのも、楽しいもんだぜ」

「……」

元々頭の悪い奴じゃないけれど、ジュンイチがこんなに経済や時勢に精通した言動を取るのはちょっと意外だった。僕の知っているエンドウ・ジュンイチは、小難しい会話をするよりも、ひたすら能天気で、場を盛り上げる会話をすることに精通した男だったから。

 ジュンイチはカメラマンの他に雑誌のコラムをいくつか担当したり、テレビ番組で、週に1度くらいのペースでコメンテーターをしたりしている。奴の喋りは学者や専門家の上から目線がなく、言っていることもかなり的を得ていて、初心者にも分かりやすい軽妙な喋りが視聴者に好評らしい。僕も仕事でテレビ業界人に会って話を聞いたが、ジュンイチには、もっとコメンテーターとしてテレビに出て欲しい、という視聴者の声が殺到しており、テレビ局や芸能プロダクションも、ジュンイチにタレントとしての仕事を勧めているらしいが、「若造が恥を晒せるのは週1くらいが限界。20代のうちは、本業で成功を収めたい」と、あくまでカメラマンとしての仕事を優先している。必要以上にちゃらちゃらしていないその佇まいも、多くの人に好評を得ている。

 そんなジュンイチをテレビや雑誌で見るたびに、どうしてこんなに成長しちまったのかと思ったけれど……

「楽しそうだな、お前」

 僕はふっと笑みを漏らした。

「楽しいぜ? 好きなことをやって、それが仕事になっているからな。贅沢なもんだよ」

 胸を張るでもなく、謙遜するでもなく、心からのジュンイチの言葉。

「ま、俺はカメラマンとして、もっと史跡とか、自然とかをテーマにした写真を撮りたいんだが、なかなかそういう写真を題材にさせてくれるスポンサーがいないんだけどな。それが悩みと言えば悩みだが、概ね幸せだと思うよ。綺麗なかみさんも持てたしな」

 ジュンイチの言葉に、マイは少し頬を赤くして、苦笑いを浮かべた。

「……」

 ――シンプルだな。そういうところはあの頃と全然変わらない。

 そんなジュンイチを見ながら、僕は今更ここに来たことを、少し後悔していた。

 好きなことをやって、正直に生きているジュンイチに比べて、僕はいらないものばかりをかき集めて、ごてごてと重苦しい武装にして。

 7年前、あれだけ軽く感じた体が、今では重鎧を着たように重く、鈍い。自分の中の何が真実で、何をしたかったかも、もう分からなくなりかけている。

 そんな自分が、ジュンイチとは違い過ぎて……今の自分に対して、酷く惨めな思いを噛み締めた。

「……」

 だけど、そんな考えの後に、脳裏にトモミの涙や、抱きしめてくれた時の体温。

 そして、彼女の言葉が去来する。

 彼女がああまでして――自分の想いを殺してしまおうとしてでも僕に伝えたかったこと。

 それを裏切ることも、出来なかった。何故かあれから、トモミのことが頭から離れようとしない。

 ――もしかしたら、僕は、トモミのことを……

「しかし、ちょっと安心したぜ」

 トモミのことを想っている脳は、ジュンイチの言葉にせき止められる。

「え?」

「あんなことがあったんだ。もっと荒んじまっても仕方ない――性根の底までこの世界を憎んで、ぶっ壊しちまおうって思っても無理はないと思ってた」

「……」

「だけどよ、お前、あの頃と全然変わってねぇ。澄んだ目をしてるよ。少なくとも、誰かを叩き落してでも、自分がいい思いが出来ればそれでいいって考えで、人を叩き潰してきたり、一心不乱に金儲けして、私腹を肥やしてウハウハやってる男の目じゃない」

「……」

「報告の通りだな」

「報告?」

 僕はその言葉に、首を傾げる。

「あ、いや、こっちの話だ」

 ジュンイチはかぶりを振った。

「正直、俺、今でもちょっと緊張してるんだよ。何年か前からずっとニュースでお前の名前は出てたんだけど、お前自身は全然メディアに顔を出さなくて。その間にお前は、俺には想像もできないくらいの大成功を収めて。随分とお前が遠くなっちまったなぁって感じがしちまって。改めてお前がとんでもない奴だって認識深めちまって――何て言うの? 距離感がつかめない、って言うか」

「それは僕も同じさ。お前がカメラマンになるなんて思っていなかったし、髭も生やしちまって、正直今のお前の風貌にも、ちょっと戸惑ってる。お前の仕事とか、コラムとか見ていると、随分勉強したんだな、って感じがして、とても僕が知っている7年前のジュンイチとは思えなかった。何かどうも……」

 僕にとっては、自分のしてきたことの後ろめたさが、どうにも態度をぎこちなくしているのもあるけれど。

「ははは、お前が俺なんかをそう思うって感覚が、俺には上手く捉えられないがなぁ」

「……」

「ただ、ひとつだけ言えることがあるぜ」

「……」

「俺はお前のこと、今でもダチだと思っている。またあの頃みたいに、みんなでバカやれたらって、ずっと思っているからな」

「そうそう」

 ジュンイチの隣にいるマイが頷いた。

「サクライくん、この人ね、この7年間、ずっと会えば必ず1度はサクライくんの話をしてたのよ」

 マイがいたずらっぽく笑いながら、隣にいるジュンイチの顔を指差した。

「お、おい、その話は……」

「二人でデートしている時に喫茶店とかに行くと、私とかそっちのけで、あの頃のサクライくんの話をすると、もう止まらなくて――あなた達が本当は同性愛に目覚めていたんじゃないかってくらいの顔で嬉しそうに喋るから、いつも心配……」

「わあぁぁ! もうやめ!」

 ジュンイチがもう限界とばかりに、僕とマイの視線の中心にカットインした。

「……」

 ジュンイチの顔が僕に向く。

「……」

 ジュンイチは次の反応を、赤面しながら必死に考えていた。

 こういう時、七年前のこいつなら、どう返したかな……

 多分、火傷覚悟で悪ふざけして、強引に笑いに持っていく……そんなところか。

 そんなことを懐かしみながら、考えていた。

 そして……

「あぁそうさ! この7年、俺は気が付けば俺はお前のことばかり考えてた。俺は今でもお前が好きだ! 大好きだ! お前と死ぬまで添い遂げる! 文句あるかこのチェリーボーイ野郎め!」

 ジュンイチはまるで、異論は認めぬとばかりに、すごい勢いでそう言い放った。

 だけど目が笑っていた。ジュンイチがこんな目をするのは、得てして僕のツッコミを待っているんだ。

「ごめんな、実は僕、女が大好きなんだ」

 僕は口調を平然と保ちながら言った。

「お、お前……俺の七年越しの愛を……」

 ジュンイチが狼狽する様を装うと、周りにいた三人がくすくす笑いはじめる。

「……」

 僕達もそのまま、見つめ合っていた。

 だけどジュンイチが、ぷっと吹き出すと、もう堪えきれなくて……

「ぷっ、くっくっくっ………わははははははは!」

「く、くくく……あははははははは!」

 二人で周りの三人の笑い声がかき消える程、声を上げて大笑いした。

「さ、最高だ! そんな大真面目なツラで、何が女が大好きなんだ、だ! ぎゃははは!」

 ジュンイチは広い家の床に転がり込み、悶えるように腹を押さえていた。

「そ、そっちこそ! 寂しい思いはさせないとか、僕も必死で笑いを堪えちゃったじゃないか」

 そうして僕も腹筋が震えているのがわかるほど大笑いしていたけれど……

 本当は、こんなに腹の底から大笑いしたのは、日本を出てから初めてで……

 あの頃の思いを忘れかけている僕が、まだこうして笑えるのだと思わせてくれた。

 もしかしたらジュンイチは、それを僕にわからせたかったのかもしれない。復讐に生き、笑顔を封じたあの頃の僕を気遣って。

「ふふ――懐かしいなぁ。さっきまでちょっとぎこちなかったけど、そういう二人の空気が、久し振りに戻ったわね」

 傍でそれを見ていたマイも、7年前と同じように、僕達の横でくすくす笑っていた。

「あー……こんなに笑ったのは、久し振りだぜ」

 呼吸を整えながら、ジュンイチが漏らした。

「サクライくん、今日はまだうちにいられるんでしょう? だったら食事でもしていく?」

 マイが呼吸を整える僕に声をかけた。

「久し振りにジュンくんと会ったんだし、話したいこともあるでしょう?」

「あぁ、ごめん。そう言ってもらえるのはありがたいんだけど……」

 僕は自分の右腕のロレックスを確認する。

「これから羽田に行って、あいつを迎えに行かなきゃいけないんだ。だから、行かなくちゃ」


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