Grumble
「あの女、泣いてなかったか?」
エイジは部屋に入るなり、自分の入ったドアを見つめた。
「今日の『バカ』は、効いたなぁ……」
「は?」
「いや――何でもない」
僕はふっと息をついて、ベッドの縁に寄りかかった。
体には、まだトモミのつけていた香水の香りが、かすかに残っている。
いまだに頭が上手く働いてない。トモミが立て続けに重いパンチを決めてくるから。
だけど――
普段、女性からあんなことをされたら、いつもは僕の左腕が、痺れるような疼きに苛まれるはずなのに。
今日は不思議と、それがなかった。それが意外だった。
それどころか――
僕――少しどきどきしている?
この数年間になかった胸の疼きが、ほんの僅かだけれど、さっきから消えずに残っている。
――何だこれは。
「しかしよかった。お前、3日も目を覚まさないから心配したぞ」
エイジが僕のベッドの横へ来て、言った。
「俺達が数人掛かりでボコボコにしたって、すぐに起きたお前が、随分弱ってたんだな」
「――懐かしい話だな」
「あの女、お前が目覚めたら連絡よこせって言っておいたんだが」
「――それは仕方ないよ。僕が起きてから、まだ10分位しか経ってないから」
自分で言っていて、まだそれくらいしか時間が経っていないのか、と思った。この10分が、感覚的には数時間くらい時間が経過しているように思っていたから。
「――そうか」
エイジはさっきまでトモミが座っていた椅子に座る。小さな椅子だから、大きなエイジが座ると、ぎしっと音がした。
「――お前がここに来たってことは、外はもう夜か」
「ああ、俺は毎日、仕事帰りにここに顔を出してた。今は夜の8時過ぎだ」
「そうか……ああ、そういえば」
「お前の相棒は、悪いがあのまま会社で寝泊りさせてる。あの女が散歩に連れて行ったり、面倒見ているから、心配ないよ」
「――会社の方は?」
「お前にとっちゃ不本意だろうが、お前のアクセサリーの予約のこともあるし、お前が倒れたことは、マスコミに公表した。この病院の場所は悟られないようにしているが、結構世間じゃ騒ぎになってる」
「……」
「そんで、お前が倒れる前の騒ぎは、こんな感じだ」
そう言って、エイジは僕のベッドの横にあるチェストの引き出しを開けて、そこから何冊かの週刊誌を取り出して見せた。
『天才に死角なし』『臥龍の逆鱗に触れた女の哀れな末路』……
あれだけ面白おかしく僕の秋分を取り上げたマスコミが、まだ3日しか経っていないっていうのに、早くも僕をヨイショする記事を全国にばら撒いている。
僕をべた褒めする内容の傍らで、あの女は名前の後ろに『容疑者』って肩書きをつけられている。
「……」
「お前よ、あの女と、その母親にも情けをかけようとしちまったみたいだけどよ、あの女は、責められて当然、お前が怒って当然のことをしたんだ。あんま気にすんなよ」
「……」
「ああ、そうそう。お前が倒れている間に、帝国グループのザイゼン会長から電話があったぜ。目が覚めたら、顔を出せ、ってさ」
「……」
爺さんの用件は、もう察しがつく。
あれだけ自分を犠牲にして、力弱い人間が少しでも豊かな暮らしができるようにと粉骨砕身してきた僕が、今回の件で、そんな人間に手を噛まれた。
それ見たことか、と、爺さんは言いたいんだろう。庶民なんて、僕を利用し、すぐに不平を言い始める。僕がそこまでして守る価値などない人間達だ。早く自分の中の非情さを受け入れて、薄甘い理想を捨てろ。王としての覇道を、帝国グループと共に歩もうじゃないか……そんなところだろう。
「さて、とりあえずお前が目を覚ましたこと、病院にも知らせなきゃな。とりあえずナースコールするから」
そう言って、エイジは僕のベッドの横にあるボタンを押した。
――10月23日 PM9:00
ナースコールをしてすぐに、看護婦は医者を連れて、僕のところへとやってきた。
それから脈や体温を測られたり、血を取られたり、体調について簡単な質問をされたりと、簡単な検査がその場で行われた。
その間に、エイジは部屋を出て行ってしまった。
検査の跡、僕は医者に、今までの生活をこっぴどく叱られ、明日から5日間は、最低でも入院してもらうと宣告されてしまった。正確には、早く仕事に戻らなくちゃ、と僕がごねたので、本来なら最低2週間は入院して、体調を整えるところを、5日間いい子にしていたら、退院を検討してあげる、ということなのだけど。
明日から、朝7時半に朝食が来て、夜10時の消灯……そんな生活、生まれてこの方、一日だって経験したことがない。しかも明日から、僕の胃が非常に弱っているから、食事は流動食のみ――
「もっとお体を大事にしてくださいね」
隣の若い看護婦が、僕に笑いかける。
「私も高校時代から、サクライさんのファンですから。今も応援していますから」
「……」
応援、か……
これ以上、僕は何を頑張ればいいのだろう。
――その後、栄養剤を注射され、医者と看護婦が出て行った。
僕はひとり、病室でため息をついた。
そして、自分の左手を見て、拳を握ったり、開いたりという作業を繰り返す。
――力が入らない。握力が随分落ちている。
いや、単純に体の不調よりも……
自分の中の、今までぴんと張り詰めていた糸が切れている感覚がある……
疲れや、今まで積み上げたものが、一気に崩れ落ちて、僕の両肩にのしかかっている。
今は何もしたくない……このまま体が何もしないで朽ち果てていってもいい。
深層心理がそう訴えると、僕の体からは、力がどうしようもなく抜けていく……
まあ、何もしないでいるのは性に合わないから、じきに飽きてしまうだろう。適当に外に出てみたくはなるかもしれないけれど、そこまで頑張って生きていたくもない……
そんな時に、皆勝手なことを言ってくれる……体を治したって、やりたいことなんてないのに。ここで5日も入院だなんて。
おまけにトモミは、それどころじゃない僕に愛を叫ぶし……
目が覚めて1時間しか経っていないのに……
何だか疲れた。食欲はないが、喉が渇いた。どこかで新鮮な空気が吸いたい。トイレにも行きたい。
そう思った僕は、医者の忠告糞喰らえとばかりに一人、病室を出たのだった。
夜9時を過ぎた病棟は、非常灯がついているくらいの明かりが、廊下を緑色に照らしていて、薄暗く、人の気配がしない。
個室の病室があるくらいだから、割とでかい病院だとは思っていたけれど、確かに廊下は広く、随分長く続いていて、この暗さでは、どこまで続いているのか、先が見えない。
廊下の途中でトイレがあったので、まずそこで用を足してから、次は喉が渇いていたので、自動販売機を探す。これくらいの病院なら、各フロアに自販機くらいあるだろう。
また歩き始めると、廊下の向こうが左に折れているところを発見。建物の構造からすると、あそこにあるのはエレベーターだろうと推測する。
しかし、その曲がり角に近付くと、何か耳に不審な音が届き始める。
かすかに、う、うう、という、女性の泣き声だ。ホラー映画で使われるような音声。
「……」
僕は思わず足を止める。
はは――三途の川の次は、冥界の入り口か?
「――おい、いい加減に泣き止めって」
しかしそんな冗談めいた思考が、聞き覚えのある男の声で振り払われる。
エイジの声だった。
僕はそれから、忍び足で曲がり角に近付いて、そっと曲がり角の向こうを覗き込んだ。
曲がり角の向こうにはエレベーターと自動販売機があって、自動販売機の隣には、背もたれのない、茶色の革の長椅子があり、そこにトモミが座っている。首をがっくりと俯けて、肩を震わせている。
「ほら、飲めよ」
そしてエイジが長椅子の前に立って、手に持っている缶を差し出した。銘柄は暗くてよく見えない。
トモミはそれを受け取って、一口口をつけた。そして、ふうと息を吐いた。
「――あ、ありがとう……」
トモミも少し落ち着いたらしく、小さな声でそう言った。
そこまで覗くと、僕は首を引っ込めた。何をやっているんだ僕は。こんなのぞきをして。
「お前さ、ケースケと何かあったわけ?」
立ち去ろうと踵を返しかけたが、エイジのその声に、足が止まってしまう。
「どうした。喧嘩でもしたのか? だけど、あいつが女に対してそんな酷いことするとは思えないんだが……」
「……」
「――まさかお前、ケースケに告白したんじゃないよな?」
エイジのその質問に、僕の背筋がびくっとなる。
「――うん」
トモミの返事が聞こえた。
「マジかよ……」
エイジは落胆した声を上げた。
「……」
でも、エイジは今、どんな気持ちなんだろう。エイジはトモミのことが好きなはずなのに――惚れた女が、他の男に告白したことを問う気分は、心中穏やかではないだろう。
妙な罪悪感を感じる……
「お前、あいつがモデルやアイドルにだって見向きもしないこと、一番近くで見ていただろ? 告白して断られるのなんて、お前が一番分かっていたはずだろ」
「――私だって、告白するつもりじゃなかったの――あの人の側にいられるだけで――他の女の子よりも近くにいられるだけで、いいと思ってた」
「……」
「でも――あの人が倒れてから、ずっと苦しくて……目が覚めて、あの人がまた無茶をして、同じことを繰り返すと思ったら、もう見ていられなかった――寂しそうなあの人の側にいてあげたいって、思って……」
「はぁ……」
エイジの溜め息が聞こえる。
僕も溜め息をつきたい気分だった。
実際、この7年、女性から好意を寄せてもらうことは、何度かあった。
でも、トモミの告白は、この7年間にあったものとは一線を画した何かがある。
「――私、どうしてあんなダメな人のこと、こんなに好きなんだろう……」
そんなトモミの声が、静かな廊下に残響を残した。
「は?」
「鈍いし、女心とか全然分かってないし、ダサいし、身の回りのこと何にも出来ないし、だらしないし……」
「……」
耳が痛い……僕は影で苦笑いした。
「はは、ケースケはそんなダメな奴か?」
エイジが一笑する。
「じゃあ、せっかくだ。ケースケをこき下ろす会といくか?」
エイジは楽しそうに言った。
「この際ケースケに対する愚痴をいっさいがっさい言っちまえよ。聞いててやるから」
エイジのテンションは本気なのかギャグなのか、ここからではよくわからない。エイジが僕の考えを読んで、トモミの僕に対する想いを忘れさせる手伝いをする気か。それとも僕を嫌いになるようにして、トモミの心を一気に引き寄せるつもりか。
「――そうね。それもいいかな」
トモミも、僕がいる位置からは廊下が暗くて表情は上手くうかがえないが、両手で包み込むように持つ缶を見つめながら、さっきよりは少し明るい口調で言った。
「おう! 言え言え!ケースケの鈍感野郎! バカ! ってな」
酒も飲んでいないくせに、煽り方が飲み会のノリになっているエイジ。
「……」
僕は音を立てないように、死角の壁に体を寄りかける。二人の姿は見えなくなるけど、僕が泣かせた彼女の愚痴を聞いてやる義務が僕にはあると思ったからだ。
「まず鈍感なのよ、あの人は。私がこんなに見てるのに、見ているのはリュートくんのことばかりで……そのくせ自分の世話は全然焼かないし……生活はだらしないし、私の気持ちも知らないで、子供扱いして、からかって面白がって……なのに昔の恋人のことは、あんなに幸せそうに話して……ずるいよ……あんな幸せそうに話されたら、私……」
「……」
「それなのにいつも優しいのよね。天然ボケなところとか、何か可愛いと思っちゃうし、たまに見せる笑顔は、昔のままで純粋無垢で、目がすごい透き通ってて……いつも一生懸命で、周りのことが目に入らないくらい一直線で、仕事してる時は悔しいけどカッコいいし、中途半端なものは絶対作らないし……あんまり話してくれないけど、話すと意外とジョークとか好きで、楽しいし……」
「待て待て待て」
トモミの愚痴をエイジが遮った。
「お前、愚痴を言うはずが、いつの間にか誉めてるぞ」
「あ……」
トモミの息が漏れる。
「……」
「お前、本当にケースケのことが好きなんだな」
溜め息混じりのエイジの声。
「……」
エイジの言葉を聞いて、僕も拙いながらにトモミの心を推し量っていた。
「――うん」
トモミのしおらしい返事が聞こえた。
「悔しいけど、好きなんだよね……あの人のこと」