Touch
「え……」
「――もう、トモミさんをこれ以上、連れて行けないですよ。僕といて、そんなにやつれてしまって――でも、この先も僕はこうして生きるしかないから一緒にいても、トモミさんにもっと辛い思いをさせることになる」
「……」
「退職金も用意します。再就職の当てがないなら、僕もトモミさんにできる限りのことはしますから。すぐじゃなくていいから、身の回りの整理をした方がいい。もうこれ以上、僕のことでトモミさんに心配はかけたくないから」
「……」
僕はトモミの返事を待ったけれど、椅子に座って、膝の上に置いた握り拳を見つめて、俯いていて、何も答えない。
――こんな時、こんなことしかしてやれない。
7年間、がむしゃらに体を痛めつけて、もう自分で何でもできるようになったと思っても、こうして悲しんでいる一人の女性にさえ、満足に優しくしてやれない。手を伸ばすことも、不安を和らげることもできない。
僕は、誰かを幸せになんて出来ない。笑顔にも出来ない。何も出来ない。
何でこうなっちゃったんだろう……こんなはずじゃなかったのに。
「――っく……」
沈黙の末に、トモミは自分の両手で顔を隠して、嗚咽を漏らした。
「……」
どうしよう、と思う。慰めてやりたい。何かしてやりたい、と思う。
でも、こんな時、声ひとつまともにかけられない。優しい言葉の一つも出てきやしない。
――困った。
「トモミさんだって、見たところすごく疲れているみたいですし――もう帰って休んだ方がいいですよ」
何とか声をかけようとして、こんな言葉が漏れる。その言葉を発して5秒後に、何で、心配してくれてありがとうとか、ごめんなさいとか、そういう言葉を言えなかったのかと、少し後悔する。
「……」
沈黙。
「私じゃ……」
泥のように重苦しい思考が、トモミの声でせき止められる、
「私じゃ、シオリさんの代わりには、なれませんか?」
「え?」
唐突にその名前が出て、僕の心臓がどきんと鳴った。
「社長、この3日間、ずっとうなされてたから。その名前、ずっと呼んで……」
「……」
――醜態だ。僕はがっくりうなだれる。
「……」
「本当は、社長、シオリさんにすごく会いたいんでしょ? シオリさんに、自分を好きでいて欲しいし……シオリさんに、忘れてほしくないんでしょ?」
激しくトモミが僕に問いただす。
さっきの状況を何とか乗り越えたのに、またまた困った――どう言えばいいんだ。こんな時。
でも――今の彼女には、僕に何かを問う権利があるよな。僕の勝手な事情だけで、転職するかもしれない状況だもんな……
「今は――もう、分かりません」
僕は、そう言った。
「ただ、彼女は僕を救ってくれた。親父を殺しかけた時も、シオリが僕を止めてくれた。だから僕は警察に捕まらずに、今もこうしていられている――だから僕は、あの時のシオリの想いに報いなきゃいけないって。シオリが自分の体を張ってでも守った甲斐のある男にならなくちゃ、シオリに申し訳が……」
「バカ!」
トモミに怒鳴られた。僕は言葉が止まる。
「そんなの――シオリさんは望んでない! きっと、ヒラヤマさんや、エンドウさんだって、そんなの望んでないですよ!」
「え……」
「シオリさんも、ヒラヤマさん達も、自分達との約束を、そこまでして守って欲しいなんて、思ってない――みんな願っているのは、社長に幸せになってほしいって……それだけ……何でそんなことが分からないんですかっ?」
「……」
僕の――幸せ?
考えたこともなかった。望んではいけないのだと思っていたもの。
「社長が今、そんな気持ちでいたって、7年前の社長の周りにいた人は浮かばれたりしない――シオリさんも、ヒラヤマさん達だって、社長をそこまでして救ってくれたのは、何のためですか! 社長が幸せになってほしいからでしょう!」
「……」
そのトモミの言葉は、まるで頭をがーんと殴られたような衝撃だった――KOパンチを喰らったボクサーは、気を失う瞬間、天に昇るような気持ちよさを味わうというが、そんな浮遊感を味わうような衝撃で、頭がふらふらしてしまう。それくらいのクリティカルヒットだった。
そしてその後、強い酒を一気飲みしたような、焼け付くような痛みが、胸の奥をひりひりと疼かせる。
「なのに……」
トモミの声は、感情が昂ぶりすぎたのか、次第に声が震えて、そこで止まってしまった。目が充血している。怒り、悲しみ、憤り――色んな感情がごちゃごちゃになっている目。彼女もきっと今、自分の感情が昂ぶりすぎて、わけのわからない状態になっているのかもしれない。
何故こんなに感情を昂ぶらせて、僕にこんなことを言うのだろう。
それに――そんなことを、7年前のことを知らない人間に言われて、はいそうですか、とはなかなか言えない。
「――何でそんな、会ったこともない奴のことが分かるんですか」
沈黙の後に、僕はそう訊いていた。
ちょっと皮肉っぽい物言いかもしれないし、トモミの言っていることが正論だということも、頭では分かっている。
でも、それをすんなり認められるほど、僕の7年間でした決断は、軽いものじゃなかった。当時のことを知らない人間に言われても、自分の人生なんて、なかなか変えられるものじゃない。
「……」
トモミはその、涙に濡れた目をもう一度俯けた。
でも。
「――分かるよ。そんなの……」
か細い声が漏れる。
「……」
トモミの体が震えているのが、目に見えて分かる。顔が真っ赤になっている。握り拳は、見えている掌が白くなっているくらい強く握り締めて。
「――トモミさん?」
僕はそんなトモミの様子が心配になって、彼女の名前を呼ぶ。
だけど。
「私も――大好きだから……」
俯いたトモミの口から、そんな言葉がかすかに聞こえた。
「社長のこと――私も大好きだから……」
トモミの絞り出すような声が、最後は嗚咽でかすれた。
「……」
頭の中が、真っ白になった。
エイジが言っていた。彼女は僕に惚れていると。それはきっと、エイジの思い違いだと思っていたのに。
嬉しいとか、困ったとか、驚きとか、そんな感情より先に、僕の頭の中を白い閃光で覆ってしまったようだった。何も見えない、何も感じられない……
「――っく……」
そして目の前にいるトモミは、その言葉を絞り出すと、嗚咽をこらえるようにして、大粒の涙をこぼしていた。
「……」
「ずっと――ずっと社長のこと、好きだったんです……」
俯いたまま、トモミはかすれた声を絞り出す。
「不器用で、ちょっと抜けているけれど、いつも一生懸命で、仲間想いで、ガラスみたいに繊細で、綺麗な目をしてて……そんな社長が、ずっと……」
その声はゆっくりとして、とても静かだけれど、どこか力強さを感じる声だった。
「だから、分かるんですよ――大好きな人が、ひとりぼっちでどんどん傷付いて、疲れ果てていく――それを、ただ見ることしか出来ない辛さが……」
「……」
「少なくとも私は、もう耐えられない……社長がこの先も、どんどん自分を責めて、弱って、喜んで死んでいくなんて……」
「……」
僕は馬鹿で、女心に疎い朴念仁だけど。
それでもトモミのその告白は、中途半端な気持ちは微塵もない、本当の気持ちであることくらいは分かった。
前々から、トモミは綺麗だし、性格もいいし、こんな女性に惚れてもらえたら、その男は幸せ者だろうなと思っていた。僕も実際告白されてみて、やっぱり嬉しかった。
嬉しかったけれど――
「トモミさん、あなたはきっと、昔の僕と今の僕がごちゃごちゃになっているんですよ」
僕はそう言った。
「あなたが好きになったのは、昔の僕で、今の僕は、さっきトモミさんが言ったような奴じゃない――もしくは、どうしようもない駄目な僕に同情しているんですよ。トモミさん、優しいから……」
そうだ。この娘は僕が高校時代の姿を追っていたんだ。彼女は出会った時から、サクライ・ケースケという人間を、あの頃の姿でとどめていた感があった。あの頃の僕の事を、楽しそうに喋る姿も何度か見たことがある。
残念だけど、今の僕と、あの高校生の僕はまったくの別人だ。姿かたちが同じだから、それを彼女は錯覚しているのだと、僕はそう思った。
錯覚であるならば、僕がそれを解いてやる、彼女の抱く想いを否定することが、僕の責任――そして、こんな僕を想ってくれた彼女への、精一杯の礼だと思ったんだ。
「だから、トモミさんの気持ちは……」
そう言いかけた時。
トモミは急に椅子から立ち上がって、そのまま体を少し前かがみにして、ベッドで上半身だけを起こしている僕の体を、ぎゅっと抱きしめ、僕の胸板に、自分の顔を押し付けた。
「……」
思わず体が硬直した。今まで指一本触れたこともなかったけれど、トモミは何だかいい匂いがして、何だか妙な気持ちになった。
胸板に押し付けられた顔や、触れる体から、トモミの体がすごく熱く、そして、震えているのが伝わってくる……
「あ、あの――トモミさん……な、何で……」
うわ――女性にあまり免疫がないせいか、僕の声も少し震え気味だ。カッコ悪い……
「――分かんない……」
「え?」
「好きとか嫌いとか、同情とか愛情とか――もうそんなの分かんない。でも――今、あなたをこうして抱きしめたいと思った……触れたいって思ったの!」
最後の方、語気が少し強くなった。
「……」
言っている事が滅茶苦茶だ。
だけど――トモミが初めて僕のことを『あなた』と呼んだ。その呼び方は、社長と部下としての関係ではなく、一人の人間としての想いと、一人の女性としての想いの深さが詰まっているのだと、僕に感じさせた。
「お願い――もうやめて――もうみんな、あなたひとりが自分を責め続けるの、見ていられないの……だから……」
僕の腕の中で、トモミは子供のように泣きじゃくり、そう訴えた。声は嗚咽でほとんど聞き取れなくなったけれど……
「……」
僕の胸の中で感じるトモミの息遣い、震える体、こうして触れてみて初めて分かる、トモミの華奢な体つき。
その全てが、言葉と合わさって、ずっしりと堪える。
もう、7年間頑張ってきたことを否定されたような気持ちなんて、どこかへいってしまうくらい、トモミの訴えには説得力があった。きっと告白したのだって、僕を止めようと、精一杯勇気を振り絞ったのだろう。
そうか――僕、何も分かってなかったのかな。
あの三途の川の橋渡しが言っていた、『考えろ』って、こういうことか。
僕は今まで、ずっとひとりで心の袋小路に迷い込んで――そこから出られないまま、自分のことを見捨ててしまった。なかったことにしようとして。
それを、かつての仲間達を言い訳にして、誤魔化していただけなのかもしれない。
トモミが、それを気付かせてくれた……
僕はふと、トモミの両肩に手を乗せて、軽く体から引き離した。
僕の顔を見上げるトモミの顔は、涙の跡で赤くなっていて。
「あ――ああ……」
僕の顔を見ると、トモミは自分のそんな顔を近くで見られたくないのか、ばっと僕の両手から逃れて、椅子から立ち上がって、荷物を適当に自分のバッグの中にぶち込んでいった。
その時、ゴンゴン、という、野太いノックの音が、病室のドアから聞こえた。
そのノックの跡、病室の扉が開くと、小さなドアからのっそりと、大柄の坊主頭の男が入ってきた。エイジだった。
「お? ケースケ、目が覚め……」
エイジはそう言いかけたけれど、その時トモミは自分の鞄を持って、エイジの横をすり抜ける一陣の風のような速さで、病室の外に出て行ってしまった。
いきなりのことに、エイジは入るなり、ぽかーんとそこにしばらく立ち尽くしていた。
「えっと――俺、何かタイミング悪かったのか?」
エイジは首を傾げた。
「いや――何でもないよ」