Hospital
――今までのは、全部夢だったのか?
夢にしては、妙にリアルな感覚があったせいか、僕はこの時、今が夢か現実なのかも上手く捉えきれていなかった。寝ぼけているのか、情報が頭の中で錯綜して、頭の中にちゃんと定着しない――そんな感じ。
ただ、ひとつ分かっているのは、自分の横たわっている体が鉛のように重く、体中に鈍痛が走っているということだった。
そして――そんな僕は、目の前のトモミが流す涙が、自分の寝ている布団の真っ白なシーツに落ちて、染み込んでいくのを見つめていた。
「トモミさん――」
彼女の疲労した顔が、何となく心配で、僕はそんな声が漏れた。
「もう――社長……あまり心配させないでください……」
涙声で、つっかえつっかえになりながら、それでも笑顔でトモミは言った。
「……」
何が起こったのか、まだ情報が足りない。
「――ここは?」
僕はまず、情報の整理に努めた。トモミが少し落ち着くのを待って、そう訊いた。
「病院です。社長、会社でいきなり倒れて……ここは個別病棟です」
「病院……」
あぁ――そうか。僕、血を吐いたんだっけ。
最後の最後、怒りに囚われて、人前で随分とみっともなく荒れ狂ってしまった。相当見苦しいところを、彼女にも見せてしまったな……
だが――何だか、昔にもこんなことがあった気がする。
「僕はどのくらい寝ていたんですか?」
次の質問をする。
「1年ですよ!」
少し怒ったような、トモミの大きな声。
「え?」
「嘘です。72時間ですよ」
「3日も?」
それを訊いて、僕は痛みが走りながらも、ベッドから体を起こした。そして自分の右手に左手を伸ばして、手首に刺さっている点滴針を引き抜いた。
「ちょ――ちょっと! 何してるんですか!」
「だって、会社に戻らないと――今大変な時期だし、僕のアクセサリーの予約だって詰まっているのに、3日なんて……」
「バカッ!」
起き上がろうとする僕は、トモミの怒声に金縛りにあった。トモミに『バカ』と言われるのは慣れているが、ここまで声を上げるのを見るのは初めてだった。
「社長、自分の体が今どうなっているのか、分からないんですか!」
トモミの目には、再び涙が溢れ始めた。僕はその涙を見て、体の力が一気に抜ける感覚に襲われる。
「社長が寝ている間に、病院で社長の体の精密検査をしたんです――前々から変な咳していたし、あまり体調はよくないのかと思ってましたけど、検査したら、社長の体は私が思っているよりもずっと悪かった……」
「……」
「後でお医者さんから、詳しく説明があると思いますけれど……無理のし過ぎとケア不足で、社長の体はボロボロで――最低限の栄養しか摂っていないから、疲れと合わさって体の衰弱が酷いそうです――その上、10代の頃の生活が影響しているのか、詳しく調べないと分からないけれど、社長は骨や内臓が、普通の成人男性に比べて、あまり発達していない上に、誰かに日常的に体を痛めつけられているようなダメージが、内蔵のいくつかに蓄積されていて――それがホルモン障害を引き起こしている可能性もあるそうです……お医者さんは、20代の若い体が、1年2年程度の無理でここまでにはならない。小さな頃からの小さなダメージが色々積み重なって、こんな体で動けただけでも信じられない、って」
「……」
「血を吐いた原因は、過労とストレスが合わさっての胃潰瘍だそうです。だけど、胃だけじゃない……ストレスによって、神経が圧迫されて痛みを走らせている箇所や、胃のように機能を鈍らせている場所が、無数にある……特に脳はほとんど休息を取れていないから、三叉神経が圧迫されて、常に強い痛みを感じていただろうって」
「……」
――普通、こんな事実を訊かされたら、沈痛な思いでそれを受け止めるだろう。
だが、僕は違った。あぁ、やっぱり、というような、単なる自己の確認を明確にしただけだった。
無理――その形容は少し違う。
トモミには悪いけれど、僕はずっと前から、自分の体がそうなることを望んでいたから。
むしろ、医者が『こんな体で動けるなんて、信じられない』というくらい体を痛めつけても死なないんだから、因果なものだと笑えて来る。痛みに耐えることを、小さい頃から日常的にやってきた僕の体は、勝手に丈夫になっていった。親父のパンチも、はじめは一撃で骨がバラバラになったと思う程痛かったけど、段々堪えられるようになっていった。
まったく――何で僕、あのまま死ねなかったんだろう。
あの三途の川の橋渡しは、僕に「もう一度考えろ」とか、無責任な一言を残していったが――
今の僕が生きていても、また同じことの繰り返し――戦うこと、力を振りかざすことだけが僕に残り、それを振りかざす度に、誰かの泣き叫ぶ様を見て、ますます皆に怖がられて……
生きていて、何をしろと言うんだ。
「会社は、あいつを中心にして、みんなで頑張ってます。あいつを信じて、社長はちゃんと養生しないと……」
「……」
あいつ――エイジのことか。
それを確認して、僕の思考は先程の錯綜状態から、いくらか整理されて――
少しクリアになった分、自分のことを感じ始める。
今までも体は重いし、節々に痛みが走ったり、痺れたり、眩暈がしたりしていたけれど、今はその時以上に体がだるい……ボロボロの体とは言え、3日も眠ったし、点滴が打たれていたことから、ある程度の投薬等の処置はされたはずなのに、体の状態は前よりずっと悪化しているように思えた。
だけど――それ以上に、僕は目の前のトモミの様子が気になっていた。トモミのショートボブ風の髪は、いつもさらさらで、綺麗にセットしてあるのに、少しもつれていたし、目の下にはメイクで薄くしてはいるが、隈ができている痕跡がある。
「まさかトモミさん、3日間、ほとんど休んでないんじゃ……」
僕は彼女に訊いた。彼女は答えなかった。
「……」
彼女は黙って、自分の座っている椅子の近くに置いていた鞄から、水の入ったペットボトルを取って、プルタブを開けて、僕に差し出した。
「喉、乾いてませんか? 体がまだ弱っているから、冷たい水はダメだって、お医者さんが言っていたんで、ぬるいですけど……」
トモミが優しい声でそう言った。確かに3日寝ていたせいか、喉が乾いていた。
「――ありがとうございます」
そう言って、僕はトモミの手から、ペットボトルを受け取った。ペットボトルの水は確かにぬるくて、普段だったら不味いだろうけれど、今は体が水分を欲しがっているようで、美味かった。
そして、渇きがある程度満たされると、僕はちょっと自己嫌悪する。
今の僕に、トモミの優しさに寄りかかる権利があるのだろうか。
こんなにやつれて――可哀想に。って、僕が言うことじゃないか……
「社長」
そんなことを考えている時に、トモミが追い討ちをかけるように、僕に声をかける。
「今、気分とか――どうですか?」
「……」
気分か――今の気持ちを、端的に一言で言えば、一番近いのは、がっかりしている――かな。
ようやく死に場所に巡り合ったと思ったら、幸か不幸か命を拾ってしまって。この先の茫漠とした未来を思うと、酷い疲労感があった。
死にたいような気分だ。
「別に――普通ですよ。何でそんなことを」
とは言え、トモミにそんな正直なことを言うわけにはいかない。僕は逆質問でお茶を濁した。
「お医者さんが言っていたんです。社長みたいに長年精力的に活動してきた人が、こうして一度体調を崩して立ち止まったりすると、張り詰めていた糸が切れて、今までの疲労が反動で一気に出てしまって、酷い脱力感に襲われたり、回復が遅くなることがあるって。ただでさえ社長は、小さな頃から辛いこと、いっぱいあったでしょうから、目が覚めた時、ほぼ25年間溜め込んだ疲労が一気に襲い掛かることになるかもしれない――そうしたら……」
「……」
そうか――丁度今感じている、前以上の体のだるさや、脱力感の原因は、その説明なら合点がいく。
「――でも、私、今は社長は、そうなった方がいいって、思っちゃって……」
申し訳なさそうな顔をして、トモミは俯いて、僕から視線を外した。
「え?」
「だって社長、そうすればもう無茶なことができなくなるから――正直今、社長が心も体も、すごく辛いだろうなって、頭では分かっているんですけど――もう無茶をしないでくれるかもと思うと、ほっとしちゃってて……」
「……」
「でも――さっき点滴を引き抜いて、仕事に行こうとした社長を見て――あぁ、やっぱり社長、また行っちゃうんだ、って……」
「……」
沈黙。
「――何でそこまでするんですか?」
トモミが僕の目を、悲しげな目で捉える。
「こんなに体も心もボロボロで――社長だって分かっていたはずです。それなのに、まるで喜んで死にに行くみたいな無理ばかりして――何でそこまでするんですか?」
「……」
トモミの悲しげな顔を、僕はどのように扱えばいいのか分からなかった。酷い疲労と脱力感が体を支配していて、彼女を慮る心の余裕も上手く持てなかった。
ただ――トモミの言う通り、僕はこのまま喜んで死にに行くだろう。
命を拾っても、今更生き方を変えられない。
数え切れないほどの過ちを犯したし、かつての仲間達の思いも沢山裏切ってしまった。何もしないと、そんな罪悪感と、昔の楽しかった思い出に潰されてしまいそうで。
だからせめて苦しくても、僕なりに何かを償わなくてはいけないんだ。そうして体に刻まれる痛みが、僕から楽しかった過去をその時だけでも忘れさせてくれる……そう思って、僕は全てを捨てて、7年前、日本を出たのだ。
自分のことを痛めつけて、自分も傷みを負わなければ、気が済まない。僕が殴ってしまった、あの娘はもっと痛い思いをしたのだ。そう思うと、どんなに苦しくても、寝てなどいられない……
生きている以上は、僕の命は全てそれに費やすことで、少しは楽になれる。
別に無理をしているわけじゃない。何もしないでいるよりも、その方がずっと楽なくらいだ。
でも。
「トモミさん。あなたはもう僕の秘書なんて、辞めた方がいい」
僕はベッドから、俯くトモミにそう宣告した。