Despire
「二人とも――悪いがどっちか下に行って、客人をここに案内してくれ」
「あ――じゃあ、私が」
トモミはその言葉を訊いて、この場から逃げるように、下へと降りていった。
「――ケースケ」
残されたエイジが俺の名を呼んだが、俺は答えなかった。
「ゴホッ……ゴホッ……」
――3分程で、トモミが客人を連れて戻ってきた。
俺の母親と恐らく同世代――歳は60に近い、きっとこれ位の歳に、人は急速に老いるのだろうという頃を迎えた女性。急いで余所行きの準備をしたのか、小奇麗な格好をしているが、化粧の節々に、動揺の跡が残っているように思えた。顔に刻まれたしわは、女性の今の心情を現しているように深く刻まれ、顔中に疲労が覆い尽くされているのが一目で分かる。それ程に憔悴しきった表情をしていた。
俺とエイジを前に、女性は入り口のドアのところで立ち止まる。
「……」
俺は何も言うことができなかった。
「あ、あの、もしよろしければ、応接室でお話を――お茶を淹れますから」
何とかこの重苦しい雰囲気を変えようと、トモミが優しい声でそう提案した。
しかし――
「こ、この度は社長様に、うちの娘が取り返しのつかないことをしまして……」
老いた女性は、その小さな体を震わせ、消えるようなか細い声を必死に絞り出していた。
そして、女性は声を絞り出しながら、そのまま崩れ落ちるように膝を突いて、そのまま深々と、社長室の絨毯に頭をこすり付けた。
「な、なんとお詫びしていいのか……申し訳ありません……申し訳――ありません……っ」
下げた頭から、そんな必死の謝罪の言葉が、くぐもって聞こえた。
そして……
「ああっあっあっあっ……ああああっあっあっ……」
女性はそのまま、声を上げて号泣し始めた。顔を上げず、絨毯に顔をこすり付けて、感情が崩壊したように、ただ泣き続けていた。
「……」「……」「……」
自分の倍以上年上の、年老いた女性が土下座して、ここまで外聞もなく泣いている状況の圧迫感に、俺もトモミもエイジも、何も言う事ができなかった。哀れとも、可哀想とも感じることは出来るが、そのどれもが、女性にかける言葉として出てこない。
「ああああああっ……」
老婆は、俺達がそうしている中、どうしようもない程に、泣き続けた。
「――くそっ……」
もう俺は堪らなくなって、崩れ落ちる老婆の下へ駆け寄って、そこに膝を突いて、肩を支えた。
「お、落ち着いて――顔を上げてください。そんな……」
俺はそんな陳腐な言葉をかけることで、精一杯だった。
すると。
老婆は顔を上げると、すぐ隣に膝を突いていた俺にすがりつくように両手を伸ばして、滝のように流れる涙でぐしゃぐしゃになった顔で俺を見上げた。
「社長様! どうかあの娘にお慈悲を! 何卒お許しを! 社長様ぁぁぁぁーっ!」
そんな老婆の叫びが、静寂な社長室に空しくこだました。
「……」
俺の体を掴む老婆の手は、もはや力もないが、まるで鎖に全身を縛られたような気分だった。
俺に言ったところで、もうマスコミや警察も動いている。もうあの女に下る裁きを止めることは、俺にも出来ないのだ。
「……」
それでも老婆は俺に言い続ける。娘を助けてくれ。何卒お許しを、と。
「――トモミさん。この女性に見舞金を出す手続きをしてください。それでそのまま、お引き取りを」
「ちょっと待てよケースケ。見舞金って、お前だって被害者じゃねぇかよ。お前がそんな金を出す理由なんて」
「いいからそうしてくれ……」
エイジの言葉を俺が遮った。
「――はい」
トモミは力ない返事をした。そうして老婆の横にしゃがみ込んで、肩を支えた。
「出口までお送りします。こちらへ……」
そう優しく声をかけた。老婆はまだ泣いていたけれど、トモミがもう抜け殻のようになった体を支え、手を取って、何とかエレベーターまで運んで、降りていった。
老婆とトモミがいなくなり、社長室はまた静寂に包まれた。
この時の俺は、自分の馬鹿さ加減に途方もなく怒りを感じていた。
何をやっているんだ俺は。結局は金を払うんじゃないか。慰謝料が見舞金と名を変えただけだ。それなら、何故俺は同級生を一人、ブタ箱送りにする必要があったんだ?
そして、自分が困った時は、金を払って追い返すことしか出来ない。
今日もまた、人の人生をひとつ、台無しにした。
そして、老婆は俺に、閻魔にでもすがるような目で、僕に慈悲を乞うた。
正しいことをしている『正義の味方』が、老婆に泣き叫ばれて許しを乞われるなんて、聞いたことがない。
「……」
――こんなはずじゃなかったんだ。こんなものが見たかったんじゃないんだ。
本当に、誰かを守りたかった。そう願っていたんだ。
そんな言い訳のようなことばかり、頭に浮かんで。
その度に、数え切れない程の人を傷つけて、自分は傷付かずにいることが許せなくて……
その時、トモミが老婆の見送りを終えて、再び社長室へと戻ってくる。
「くっ……」
――ズクン。
その時、自分の中の自分への怒りが、一気にはじけた。
俺は自分のデスクに乗るパソコンや書類を、腕で払い飛ばしていた。派手な音がして、ものがどさどさと床に落ち、書類が宙を舞う。
そしてそのまま、行き場のない怒りをぶつけながら、社長室で暴れ回った。机や椅子を蹴り、壁を血が滲むほどに殴りつけた。
「くそっ! 俺は……こんな!」
自分への怒りに震えながら、言葉が漏れるけれど――
もう自分が何に対して怒りを感じているのか、自分でもわからなかった。
7年前と逆戻りした自分か、あの家族と同じ、弱い者いじめをしている自分か、愚かさ故に大切なものを失った自分か、それとも……
全てが正解で、全てが不正解な気がする。俺の過ちはもう大きくなり過ぎてしまって、自分ではもう、何もわからなかった。
「ケースケ!」
後ろからエイジに羽交い絞めにされる。
「落ち着け! ケースケ!」
エイジの丸太みたいな太い腕は、振りほどけない。
「――俺のせいだ……」
俺の声は既に震えている。声を聞いて、初めて自分が泣いているのだと気付いた。
「俺のせいでまた人が傷ついた。あの時みたいに、また俺は人を守れずに……」
「社長……」
前を向くと、間近に来ていたトモミが僕を心配するような目で見る。
「……」
もう嫌だ。もうこんな自分――嫌だ。
もう何も見たくない。感じたくない。
もう傷つけるのも、傷つけられるのも、沢山だ。
もう、生きていたくない……
――そんな自分への絶望感が、一気に胸の中を黒く染めた。
その時。
「うっ……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」
感情の昂ぶりに合わせて胸が苦しくなって、またいつもの咳が出る。
「ゴホッ、ゴホッ……」
だけど、今回はなかなか止まらなかった。俺は手で口を押さえる。
ゲホッと、喉の奥からの咳が出ると、体中に痛みが走った。
「きゃっ!」
トモミの悲鳴が耳に届く。
そして、俺は口を覆う手を見ると……
――そこには、血がべっとりとついていた。
俺は、吐血したのだ。
その瞬間、自分の視界がぐらっと螺旋状に回った。自分の平衡感覚を保つのが困難になったかと思うと……
視界が真っ暗になり、俺はどさりと床に倒れこんだ。
「社長!」「ケースケ!」
二人の声がかすかに聞こえた気がした。だけどもう、体も口も動かなかった。
二人の声が聞こえたような感覚を最後に、その後どんどん、意識は遠のいていった……