Oldwoman
女は、ようやく事の重大さ――僕の恐ろしさが掴み掛けたようだった。目がさっきまでの、安全な場所から石を投げつけるような安心しきった表情ではなくなっている。
「ショックを受けるのは、まだ早いぜ」
そう言って、僕は自分の着ているスーツの内ポケットから、掌サイズの機械を取り出して、スイッチを押した。
『アンタなら大人しく金を出すと思ってたのに、当てが外れたわ。でも、まあいいわ。私はただ、寝ている間にアンタに変なことをされたと、お酒に酔って勘違いしたって言えば、私が罪に問われることはないわけだし……』
機械から、声が漏れた。
「!」
「この発言を警察に提出したら、少なくとも故意があったって有力な証明になるわけだ。詐欺罪、名誉毀損、恐喝罪――罪状はいくつも挙がる。あとはこれを持って、警察に届けるだけ……」
「……」
それを訊いて、女の顔が一気に血色を失い、真っ青になった。脚が震え、紫色になった唇が、まるで何かを探すように小さく蠢いていた。
「ちょっと、いらっしゃいませんか?」
「サクライ社長から、あなたがここにいるということを聞いたんです。お話を伺いたいんですが」
部屋の外から女を呼びかける声は、どんどん大きくなる。追い詰めている僕の耳にも、そうしてドアを遠慮なくノックするその音は、気が狂いそうなほどだった。
僕は持っているボイスレコーダーを、スーツのポケットにしまう。
「さて――お前はもうこの部屋を一歩でも出たら、しばらく娑婆とはお別れだ。このスイートルームは、お前に娑婆の最後の思い出としてくれてやる。僕からの餞別だ。お前、スイートルームに来たがっていたようだからな。いい思い出になったろ?」
僕は少し前かがみになって、女の目を覗き込んだ。
「ひ……」
僕が顔を近づけただけで、女はさっきまでの勢いはどこへやら、後ろへ後ずさった。
「う――きゃっ」
あまりに僕から離れようと反射的に後ずさったが、震える脚がもつれて、女はスイートルームの絨毯の上にしりもちをついた。
「……」
僕は無言で、しりもちをついた女を見下ろす。
「あ……あ……」
女は泳いだような目で、僕の視線を避けながら、紫色になった唇が、必死に何か言葉を探しているようだったが、もう顔も、唇の筋肉も上手く動いていないようで、声にならない声が漏れているだけだった。
「――少しおいたが過ぎたな。マスコミも、お前も」
俺はそんな女を見下ろして、そう吐き捨てた。
「塀の向こうで反省したら、もう俺の前に、二度とその面見せるなよ」
そう言って、俺は踵を返す。そして、女にとって、娑婆での生活の終わりを意味するドアへと向かって、歩を進めた。
しかし、俺の足は、急にがくりと重くなり、体が少し前につんのめった。
後ろを振り向くと、しりもちをついていた女が、まるでコアラのように、俺の左足にしがみついていた。
「ま、待って! い、今までのはほんの冗談だったのよ! 昔のクラスメイトにあって、つい子供心にやっちゃった冗談だったの。そういうことってあるじゃない。童心に戻っちゃう、っていうか……」
「……」
「ひ……」
もう女は、俺への恐怖で完全に混乱している。俺の視線を浴びるだけで、瞳孔を開かせ、今にも泣き出しそうな顔になっていた。
「そ、そうだ! わ、私、あなたにこれから一生従う! あなたに絶対服従するわよ! 奴隷になってもいい、体だって、いつでもあなたの好きなようにしていいし……」
「……」
「もちろんお金なんていらない! あなたのためにこれからは、ずっと……」
「そんなことより、まず謝れないのか、お前は」
俺は厳しい口調で、女の軽口を止めた。
「あ……う……」
俺の神経を更に逆撫でしたと思ったのか、女はもう、額に脂汗を浮かべて、目の焦点も定まらなくなっている。目の前に広がる更なる絶望に、もう完全に魂の抜け切ったような表情をしている。
「……」
部屋にはまだ、外からマスコミが女を呼ぶ声が響き渡っている。
俺は力の消失した女の腕から脚をすり抜けさせると、その場にしゃがみこみ、左手で女の顎に手をやって、無理に顔を上げさせた。
「あ……うう……あ……」
俺に触れられたことで、恐怖が触覚を通じて全身に回ったのか、まるで毒にのたうつような苦しそうな声を女は上げた。
「――一生なんて必要ない。ひとつだけ俺のいうことに従ってくれれば、俺はお前を許してやるよ」
俺はにこりと笑った。
「え?」
女はその言葉に、ぱっと表情を明るくさせる。
「う――うん、それは何? 何だってやるよ?」
女はその言葉に、必死に俺に尻尾を振った。
「死ね」
「――え?」
女は、笑顔を取り戻した顔を、再び笑顔のまま凍りつかせた。
「死ね。俺のために」
俺は再び言った。
「……」
「お前だけじゃない。世間じゃ甘い男って言われている俺から、せいぜい金をくすねてやろうって考える馬鹿は跡を絶たないんだ。だからここらで見せしめの処刑をして、二度とそういう奴等が俺の前に来ないようにしたかったところなんだ。お前の利用価値もそれで十分お釣りが来る」
「……」
「だから――俺のために死ね。せいぜいいい声で悲鳴を上げてな」
そう言って俺は踵を返し、ドアを開けた。
「あ――サクライ社長」
外に待ち構えていたマスコミ達、その数およそ20人。出てきた俺の顔を見て、皆急に背筋を伸ばす。さっき会見で与えた恐怖が、こうした畏まった態度にさせるのだろう。
「もう終わりました。あの女をどうするかは、あなた方のご自由に」
ご自由に――恐怖を感じているマスコミにとって、俺のその言葉は『殺せ』の意味に等しい。
「――ゴホッ、ゴホッ……」
どやどやと部屋に入り込むマスコミを尻目に、俺は一人、マスコミとは逆方向のエレベーターへと歩く。
「いやああああああああっ!」
開け放たれたドアから、女の断末魔の叫びがしたが、もう俺は振り返ることもしなかった。
――10月20日 PM6:00
ホテルのフロントで、待たせていた弁護士に今日の謝礼を小切手で払うと、俺は運転手の車に乗って、グランローズマリーの社長室へと帰ってきた。
社長室のドアを開けると、目の前、俺達3人のデスクの後ろの摩天楼は、既に夕暮れも過ぎて、まだ完全に真っ暗にはなっていないものの、ビルの各フロアからの明かりが煌々と摩天楼を照らしていた。
リュートが俺の足元に駆け寄ってくる。
「ご苦労さん」
「お疲れ様です」
目の前には、エイジとトモミがいた。トモミは畏まったような顔で、デスクから立ち上がって、俺ににこやかに微笑みかけた。
「……」
俺は黙って、自分のデスクに歩を進める。鞄をデスクにおいて、そのままデスクの後ろ――摩天楼の見下ろせる大窓の前に立って、二人に背を向けた。
「ネットでお前の会見、生中継やっていたから、見てたぜ」
エイジが俺に声をかける。
「正直うろたえていた俺がバカみたいだったぜ。淫行疑惑の否定としては完璧だ。ちゃんと手を打っていたんだな」
「本当。社長をそんな手ではめるなんて、いくらなんでも調子乗りすぎ……」
――ガツッ!
エイジとトモミの声が、そんな鈍い大きな音で遮られた。
俺の右拳が、目の前の大窓の強化ガラスに思い切り叩き込まれていた。
俺の体に、じいんと痛みが走る。強化ガラスを、赤い血の筋がいくつか、滴り落ちていく。
「な、何やってるんですか!」
トモミが俺に駆け寄ってくる。
「はあ……はあ……」
俺はただ――まともに生きたかっただけ。友に恥じない男になりたかっただけ。
家族があんな連中だった分、自分は正しい行いをしたかった。
今まで人を憎みすぎて、誰かから奪うことしかできない力を、誰かのために費やしたかった。
願っているのは、ただそれだけ。
友と過ごした7年前――俺の目に世界は優しく見えた。そんな優しい世界を、この力で作っていきたいと、そう思っていた。
それなのに――何だこれは?
自分の周りを、カメラやボイスレコーダーで固める――友との誓いを馬鹿な奴に踏みにじられないための対策と言えば、理由に筋は通る。
だが――それは俺の人間不信の裏返しだ。ここまでしなければ安心できない。人を愛することを忘れ、疑ってばかりの僕の卑屈さが、こうして武器を隠し持っていなければ眠れない体にしてしまった。
俺がかつてイメージした未来の自分は、こんなはずじゃなかった。こんな武装などしなくても、皆が幸せになれる。分かり合える。
皆が笑顔でいられれば、それだけで満ち足りた気持ちになる。
俺が皆のために汗を流して、誰かが俺に『ありがとう』と言ってくれる。そんなささやかなことで、よかったはずなのに。
なのに、今の俺はどうだ。
皆が俺に、恐怖している。
俺は恐怖で、人を抑えつけている。
そして、俺も――
目の前の人間が、俺に恐怖し、絶望、苦悩、悔恨、慙愧に満ちた表情をし、全てを奪われていく様を見て、愉しんでいる。
ちっとも優しくなんかない――財界の人間に、冷酷なまでに鉈を振り下ろし、繊維を失って、必死に阿り命乞いをした人間に、俺は怒りに苛まれた心で『死ね』と、慈悲のない言葉を浴びせた。
そんなことを言いたかったんじゃない。そんなことを言う自分になりたかったわけじゃないのに、怒りや憎しみに囚われて、どんどん思う場所とかけ離れていく自分……
そんな慈悲のない、かつての思いとかけ離れた今の自分が、酷く醜く思えて、我慢ならなかった。
「……」
トモミは今日、俺のことを、悪いことが出来ない人だと言った。そんな自分を、過去の罪の意識で、無理に否定することはない、と。
その言葉を訊いて、ふっと過去に思考が戻った。俺の辿り着きたい場所は、ここじゃない。もっと長い間、夢見たような世界があったはずだと。
でも――もう俺は、そこに辿り着けないのだと、はっきりと分かった。
武器を常に手離せず、周りに恐怖ばかりを与える自分。聖者のような顔をして、人に絶望を与え、世直しの正義漢を気取って――
そうして得た正当防衛の名の下に振るう暴力を愉しんでいる。
そんな俺が、今更7年前に夢見た場所になど、辿り着けるわけがないのだ。
「社長――手が……」
駆け寄ったトモミが、俺の手を見て、悲痛な声を上げた。俺の拳の関節から、血がまだ滴り落ちている。
その時。
プルルルルル、と、部屋の電話の電子音が鳴り響いた。
「あ……」
トモミはその音に反応するが、それよりも早く俺が電話の前に行き、まだ痛みの走る右手で、受話器を取った。
「はい。もしもし」
『あ――CEOでいらっしゃいますか? 1階受付です』
明朗な女性の声だった。
『あの――実は今、CEOを訴えた女性の母親と名乗る方が、是非CEOに会わせて頂きたいと頼み込んでおりまして――事態が事態だと思うので、連絡をさせて頂いたのですが……』
「……」
俺は目を閉じる。
「えぇ――会いましょう。出迎えをよこすので、そこで待つように伝えてください」
そう言って、俺は受話器を置いた。