Sacrifice
僕は雑誌のページを開いた。
『グランローズマリーCEO、サクライ・ケースケ氏(25)に、初めての淫行疑惑が浮上した。同窓会に参加した際、同級生の女性を酔い潰してホテルに連れ込み、女性の体を触るなどの、淫らな行為に及んだという訴えが……』
「ちょっと、これって……」
トモミが狼狽した声を上げる。
「……」
その記事を読んで、その訴えを出した人間が、名前も写真もないのにすぐに分かった。
「ふ、ふふふふふふ……」
――最高だ。怒りや呆れを通り越して、もはや笑えて来る。感情が地平線の彼方まで突き抜けたような笑いに、肩が震えた。
こんなに感情が突き抜けたのは、いつ以来だ?
「心当たり、あるのか?」
不安そうな面持ちで、エイジは訊いた。
「あぁ――確かに酔い潰れた女に、ホテルの部屋をあてがってやったんだが――」
僕は記事に目を落としながら、エイジに答えた。
『今までサクライ氏の誠実なイメージが、大衆に絶大な支持を受け、急成長を遂げたグランローズマリーだが、今回の件で、企業のイメージダウンになれば、今後のグランローズマリーの成長に陰りが見える可能性もある』
頭の悪い文章が、こじ付けを大盛りに乗せて、延々と続いていた。僕をよく知る関係者の、僕の乱れた女性関係を証言するコメントも載っているが、ほとんど表に出ない最近の僕を知っている人間など、財界にほとんど存在しないのだから、本当に存在するのかも怪しい。雑誌が用意した架空の人物かもしれない。
かつて悲劇の英雄として祀り上げられた僕が、こんなスキャンダルを起こしたなんて記事を載せれば、売れるに決まっている。センセーショナルに、面白おかしい記事を書いてやろうという、雑誌の魂胆が浮き彫りになっていた。
「ケースケ」
エイジが僕に声をかけた。
「これって、飛天グループの姦計ってことはないよな?」
「……」
「今飛天グループは、お前に完全に悪者に仕立て上げられて、社員がどんどん離れて、お前につこうとしている――ここでお前のイメージダウンを誘って、それに歯止めをかけつつ、うちに打撃を与えようって、前以って同窓会に参加する女にけしかけてたんじゃ……」
「――いや、それはないな」
僕は小さくかぶりを振った。
「女の目的は、単純に、金だな。飛天グループは無関係だよ」
「何でそう言いきれる?」
「あの頭の染色体の足りないような女を、自分達の作戦に組み込むほど、飛天グループも見る目がない馬鹿じゃないだろう。ヤキが回ったとは言っても、危急存亡の時だ。起死回生の策なら、もっと状況判断のできる女を選ぶだろう」
あの女は、同窓会で皆の食事代を出した、甘い僕を見て、上手くやれば金をいくらか搾り取れるかと期待して、僕に近づいた。酔い潰れた振りをして、僕が女に手を出したら、それを武器に口止め料として僕から金品を要求し、断っても、ホテルの監視カメラなどに、酔い潰れた女を連れ込む僕の映像が残る――個室で何をされたかなんて、言ってしまえば証明はできないし、電車の痴漢と同じで、訴えられたらまず男は降参するしかない。
酔い潰れた振りをして、僕をおびき出すところまでは成功したが、あの時僕は女を怒鳴りつけた。それに怒った女は、腹いせに僕を困らせようと、大袈裟な訴えに出た――僕のような権力者は、愛人がいるというのが一般的なイメージだろうし、訴えに出れば簡単に金を出すというイメージもあるだろうし――あの女の考えたのは、そんなところだろう。
だが――そんな思惑はないとは言え、結果的にこの記事が、今飛天グループの社員を迎え入れようとする今のグランローズマリーにとって、多かれ少なかれの楔になる可能性はある。記事が出るにしても、タイミングは最悪だ。
この女は、学生時代に、満員電車で痴漢だと騒いで、気弱なサラリーマンとかから金を受け取っていた経験があったのかもしれない。痴漢の狂言なんて、最も女にとってリスクが少なく儲けられる手口だからな。そういう味をしめていて、今度は僕に仕掛けた。僕なら数百、数千万の金を出すかもしれないと期待して……
「……」
僕の人生のお決まりのパターンだ。気が滅入っている時に、くだらない奴がくだらないことをして、僕を更に不愉快にさせてくれる。
かつては僕もそれをある程度寛大な目で見ていたつもりだし、そいつらを良い方向へと導いてやろうと率先して努めていた。7年前のあの頃、僕は世界もそんな捨てたものじゃない、人間もそんな悪いものじゃないと思っていたから、それを信じることがで来た。
だがこうなってしまえば、僕も容赦しない。所詮馬鹿は馬鹿――淘汰されなきゃ分からないんだ。
僕が不愉快な時に、更に不愉快にしてくれたこともそうだが、それ以上に、ゴミ同然の命とは言え、今まで友や恋人に報いようと、ここまで必死にやってきたことを、こんな醜聞で汚したことが許せなかった。あぶく銭のために、僕だけでなく、僕を信じてくれたかつての仲間達まで踏みにじったことが許せなかった。
僕はそのまま持っていた雑誌を二つに引き裂いて、ゴミ箱に叩き込んだ。
「社長……」
「久し振りに、昔のあだ名を使うか」
「昔のあだ名?」
「トモミさん。仕事をすぐに頼めますか?」
「は、はい」
トモミは自分のデスクに戻って、メモ帳を取り出す。
「まずうちの顧問弁護士に連絡。それから僕とトモミさんがたまに朝食を食べるホテルの、10日前の監視カメラのビデオを借りてきてください。それからついでに、そのホテルで会見に使えそうな大部屋を取って、会見の準備を。それを、あと5時間でできますか?」
「えっと――会場のセッティングに、人を何人か割ければ、十分可能です」
「そうですか――じゃあ総務の人間をそちらに何人か回してもらって。すぐに取り掛かってもらえますか? こんなの、今日中に片をつけたいですからね」
「は、はい……分かりました」
トモミは頷いて、すぐに自分の荷物をまとめ始めた。
「エイジ、お前は何も心配しないでいい。すぐに仕事に戻れ――ゴホッ、ゴホッ……」
僕は咳き込みながら、デスクから以前の同窓会の招待状を取り出した。幹事の名前を見て、電話を取る。
「勝算は――あるのか?」
エイジが訊いた。
「僕を誰だと思っているんだよ」
僕は受話器を耳に当てながら、酷薄に笑った。
――10月20日 PM5:00
トモミの用意してくれたホテルの大部屋は、100人以上の報道陣で埋め尽くされていた。最近僕が表に出て何かを発言する機会なんてほとんどないから、その注目度の高さが上乗せされているのだろう。
僕も久し振りに表に出てみて実感する。サッカーで有名になった僕が、サッカーを辞めて久しいのに、まだ僕の注目度は高いみたいだ。
ということは、日本にいる限りは、かつての僕を知る人間が、この記事を見た可能性も高いということだ。
僕は会場の壇上に、顧問弁護士と一緒に座っていた。記者会見と言っても、司会はいない。二人だけで臨んでいた。弁護士とは打ち合わせも交わしていない。
「さて――本日は急なお呼び出しにもご足労いただき、非常に恐縮です」
僕は頭を下げる。さっきから僕は報道陣のフラッシュを浴び続けている。こういう場でのフラッシュを久々に浴びることが、僕の不快感を更に煽った。
「さて――この会見はまずは私の主導で勝手にはじめさせていただきます。私も忙しい身――その方が早く終わると判断しましたので」
それを聞いて報道陣はどよめく。呼びつけておいて僕のあまりの不遜な態度に顔をしかめる者もいた。お前がシロかクロか決めるのは俺達なんだぜ、と言わんばかりの顔をしている。
「じゃあ、まずはこれをご覧ください」
そう言って、僕は自分の後ろに用意されたプロジェクターを指差した。部屋の照明が落とされる。
プロジェクターに、車の中の映像が映し出された。運転席に僕、助手席にリュート。そして後部座席に女性が横たわっているのが見える。顔のところは一応プライバシー保護を考え、ボカシが入っている。映像の右下には、時刻が刻まれ、1秒ごとに刻まれている。
『で? 家はどのあたりなんだ?』
僕の声。
そう――これはあの日、僕の車の中で起こった映像だ。
その後の映像は、何も起こらないので、早送りする。そして車が停車し、僕が車から出ると、映像が切り替わる。
次の映像は、ホテルのフロント――時間は、僕が車を降りてから、約2分後の映像。ホテルの駐車場からフロントに上がる時間を考えたら、妥当な時間。
そこに僕が登場し、ホテルのフロントと会話をする映像が流れる。こちらのビデオも音声が流れる。部屋を用意すると共に、女性が酔い潰れているので、女性スタッフに運ぶのを手伝って欲しいと僕が頼む音声。
そして次の映像に切り替わる。今度はホテルのフロントの映像の時間から、約8分が経過した映像。ホテルの廊下を、荷物を持った僕と、女性スタッフに運ばれる女の映像になる。カメラのすぐ手前のある部屋に入ると、しばらくして、女性スタッフが部屋を出て行く。ドアの閉まる音がした。
『さて……』
映像が廊下の写真のまま、僕の声が流れる。
『あれ? ここ、どこ?』
しばらくして、女の声。
『君を車に乗せたけど、寝てしまって、向かう場所が分からなかったんで、部屋を取ったんだ』
『へぇ。天才少年も、結構エッチなんだ。酔い潰れた女を、ホテルに連れ込むなんて』
『君が今まで寝た男を、僕と一緒にするな。君のものさしで僕を定義付けるな。君が起きない。君の家を僕は知らない。だけど夜の街に放り出すわけにも行かない。だから部屋を用意した。自分の背負った荷物は自分で処理した。それだけのことだ。この部屋は同窓のよしみだ。朝まで好きに使うがいい。僕はそれ以上のことを君にする気はない』
『――帰っちゃうの?』
『元々君が送ってくれと言わなければ、君と今晩一緒にいる気なんかなかった。当然だろう』
そう言って、かちゃ、という音が流れたのと同時に、プロジェクターの映像でもドアが開いて、僕が出て行く映像になった。
そして映像はまた車のものに変わる。僕が部屋を出て約2分後、運転席に僕は座って、車を発進させた。ホテルの駐車場の昇降機のカメラの画面に切り替わり、僕が駐車券を機械に入れるところが撮影されていた。
そこで映像が途切れ、プロジェクターは真っ暗になった。その3秒後に、会場の照明が点灯する。
「これは、私が持っていたボイスレコーダーの音声と、各所の監視カメラの映像を重ねて作ったものですが……私の返答としては、これで十分でしょう」
「……」
今までこのスキャンダルを面白可笑しく煽ってやろうという醜い魂胆をむき出しにしていた、目の前のマスコミの顔が凍りつき始める。さっきまで無遠慮に浴びせられていたフラッシュもぴたりと止まる。
「さて――何かご質問は?」
僕は目を軽く細める。
「……」
マスコミは質問が仕事なのに、誰一人質問を投げかけようとはしなかった。部屋の中は真空状態になったように、何の音もしなくなった。
今の映像と音声は、それだけ完璧な証拠だったのだ。目的を一瞬にして水の泡にするだけの、強烈なほどの事実を突きつけられ、マスコミは意気消沈せざるをえない。
そして――ここに集まっている人間は、今この時、全員がほぼ同時に悟っている。
物腰柔らかく、とても静かな装いをしていても、僕が目の前の人間に対して、激しい怒りを抱いていることを。
女のような顔に、華奢な体つき、財界からも甘いと称され、薄甘い正義を掲げている僕を、誰もが『優しい青年』だと思っていた。
だが、そうではない。今自分達が面白おかしく取り上げてやろうとしていた人間は、かつて『臥龍』と称された、龍の化身――一度逆鱗に触れれば激しく怒り狂い、そこに触れた人間を裁きの炎と雷、牙と爪が自分達を引き裂く――そんな気性を持つ龍なのだと悟った。
今、僕に何か下手な質問をすれば、自分は勿論のこと、出版社ごと切り裂かれる……
そう、下手に今僕に声をかけたら、その瞬間に僕に殺されるのだと、会場にいる全員が、僕の静かな語勢と視線から、悟っているのだ。
「……」
会見の壇上から、僕を見て怯えきったような表情を見せる多くの人々を、暗鬱とした気分で見つめていた。
まったく、無駄な時間と金を使ったと思う。こうやってどうしようもない奴に、金や時間を浪費するのが、僕は一番嫌いだ。
僕は会見場を出て、一人エレベーターに乗り、ホテルの最上階のフロアへと向かった。
一般客室のフロアと違い、エレベーターに部屋の鍵でもあるカードキーを挿さなければ、フロアまで行くことも出来ない厳重なセキュリティー。エレベーターを降りた先には、高級な調度品や、大仰な照明で飾られた空間が広がっている。
そう、このフロアにあるのは、このホテルで一番いい部屋――スイートルームだ。
僕はそのスイートルームのドアの前に来て、軽くノックをすると、中の応答もないままにカードキーを挿して、部屋の扉を開けた。
部屋に入ると、そこには女が一人、テレビの前で椅子に座って、煙草をふかしていた。僕の姿を見て、煙草の煙を吐く。
「急な呼び出しにも、来てくれたんだな。君がこの前希望していた、スイートルームの居心地はどうだ?」
僕は女にそう呼びかけた。
そう――この女こそ、先日同窓会の帰りに僕をはめようとした女。
僕はあれから、同窓会の幹事に電話をして、彼女の連絡先を突き止め、ここに呼び出した。スイートルームを用意したのは、ここに誘い込むための餌。
勿論僕が「今日ここへ来い」と言って、女が、はいそうですかと来るわけがない。それを僕は、弁護士の存在でクリアした。弁護士を介することで、これを法的権利だと勘違いし、僕と会う事を拒否する拒否権が自分にないと思わせることが出来る。弁護士が彼女の部屋に電話したことで、この女も出てこざるをえなくなったのだ。
今日弁護士を呼んだのは、会見で僕を弁護して欲しいからではなく、この女をここへおびき出すためだった。
女は僕の顔を見て、さもつまらなそうな顔をしていた。
どうやら僕の会見が自分の思い通りにならなかったようだ。あーあ、と言いながら、椅子にもたれて、大きく伸びをしているところだった。
「どうやら、記者会見の様子を見てくれていたようだな」
僕は言った。
僕はホテルに頼んで、この部屋に記者会見の様子を中継して流すように頼んでおいたのだった。
「あーつまんないの」
女は吐き捨てた。
「アンタ、自分の車にもカメラ設置してるわけ? キモッ……」
「――自分の力不足で潰されるなら納得もいくが、酒と女で足元を掬われたくないんでな」
歴史上、名前に泥を塗った人物ほど、酒か女に狂っているものだ。僕はその二つには常に細心の注意を払うよう心に決めている。その二つで身を滅ぼしたとあっては、7年前に僕を信じてくれた奴等や、社員に申し訳が立たない。
「ふーん、それはご立派ですね。でも、アンタくらい稼いでいる人が、女一人にビクビクして、警戒をそこまで厳重にしているなんて、カッコ悪いと思わない?」
不機嫌そうに女は煙草を灰皿で揉み消した。
「男なら、恥を掻かせた女に気前よく、金を払うくらいの気前を見せた方が、よっぽどカッコいいと思うけどねぇ」
「……」
僕は女を睨んだ。
「女」
僕は女に冷たい舌鋒を浴びせた。
「お前が僕にどんなイメージを抱いているかはこの際どうでもいい。だがな、働いている人間の金は、お前が使うようなあぶく銭とはわけが違う重みがあるんだ。僕はそんな働く人間を沢山背負っている――金はあっても、あぶく銭は一銭だって持ち合わせてねぇ」
久々に僕は怒りのままに、そう吐き捨てた。金に不自由をしなくなった今でも、ガキの頃からつい数年前までの、食うものにも困るような貧乏生活を、僕は忘れることはできなかった。だからこそ、必死で働いた他人の金を奪って、自分の欲を満たすあぶく銭にしようとする、目の前の女のような人間は許しておけなかった。
「あーあー、分かった分かった。アンタの説教なんて聞きたくないのよ、こっちは」
女が手を大袈裟に振って、不快感を露にした。
「まったく――アンタなら大人しく金を出すと思ってたのに、当てが外れたわ」
「……」
「でも、まあいいわ。私はただ、寝ている間にアンタに変なことをされたと、お酒に酔って勘違いしたって言えば、私が罪に問われることはないわけだし……」
女がそこまで言いかけると、突然部屋の外から騒がしい声が聞こえた。大きなノックが聞こえ、彼女の名前を大勢の人が呼ぶ声が、ドア越しに聞こえる。
「あの外に、誰が、どんな目的でいるかわかるか?」
まだ状況を把握出来ていない彼女に、僕は自分の背後にあるドアを親指で指差しながら、質問したが、彼女の答えなど、最初から相手にしていない。僕はすぐに答えを言った。
「さっきまで僕を囲んでいたマスコミだよ。さっきまで僕を吊し上げて、ネタにしようとしていたけど、それが出来なくなったから、今度はお前に目標を変えたんだ。僕から無実の罪で金をふんだくろうとした事件として、社会正義の名の下に、取り上げようとしているんだ」
口元が歪むのが、自分でもわかった。目の前の彼女が途端に彫像と化したからだ。
でもまだ、恐ろしさは感じていないらしい。
「今外にいるマスコミ達は、ただのマスコミじゃない。一度僕に無実の罪を着せたことで、僕の報復を恐れているマスコミさ。きっと僕の名誉を回復させようと、必要以上に君を面白おかしくいじり倒すだろうね」
その言葉が、この女をぶち壊すのに、5秒とかからなかった。
「少しは状況飲み込めてきたか? お前が故意かどうかなんて、もう大した問題じゃない――マスコミは僕の怒りを鎮めるためなら何でもするし、今はそのために僕に捧げる生贄がどうしても欲しいのさ。お前はもう、その生贄に選ばれているんだよ」