Firstaid
――10月20日 AM10:00
「はっはっは!」
爺さんが高笑いをあげる。
「本当にその若さでやってのけるとは――儂の思っているやり方ではないのが若干不満じゃが……」
「……」
――あの同窓会のあった日から、十日余りが過ぎた。
10月も半ばを過ぎ、商店街のショーウインドウは冬服が飾り始め、ハロウィンが近いこともあって、特徴的なイルミネーションや、コミカルな悪魔をモチーフにした飾り付けをよく目にするようになった。
そして、今の僕は、財閥を切り崩して、その資本をほぼ手中に収めたことが大々的に報道され、英雄扱いをされている。会社を一歩出れば、待ち構えているマスコミにフラッシュを焚かれ、マイクを向けられ、雑音を耳に入れさせられる。僕の今までの実績を見て、一般大衆は僕に更なる期待を寄せているのだ。
また僕は、喧騒の中に足を踏み入れてしまったようだった。本当は静かにひっそりと生きていきたいというのに。
――そして、僕は今、かつてない疲労の只中にいた。
飛天グループの社員の8割以上が、グランローズマリーでの勤務を希望しているし、僕達もそれに合わせて新事業を展開しなければならない。僕達は年明けには、新体制を固めることを目標として、今は新社員の面談から、社員を迎えるための設備の拡張など、七方八方に駆けずり回っていた。
会社のトップである僕は、毎日何百枚と報告書に目を通し、会議では皆の意見に耳を傾け、一方でデザイナーの仕事もこなし、昼も夜もなく働き続けていた。睡眠時間もほとんど取れず、慢性的に吐き気や偏頭痛を感じ出すようになり、食事もあまり喉を通らなくなった。
そんな折に、僕は帝国グループの爺さんに邸宅へと招かれ、爺さんの立てた茶を飲みながら、上機嫌の爺さんと対峙していた。
「――会長、今日私を呼び出したご用件をお伺いしたいのですが」
しかしそれでも僕は時間がない。用件を単刀直入に訊いた。
「はは、せっかちじゃなぁ」
爺さんは苦笑いを浮かべる。
「君にまた、アクセサリーを注文したいんじゃよ」
爺さんは言った。
「……」
この爺さんは、過去に2度、僕の作ったアクセサリーを注文したことがある。一度は孫娘のレナのために、総額200億にのぼるアクセサリーの一式。そしてもうひとつは、妾の女のために注文したものだ。
「――また女ですか」
僕は苦笑いを浮かべた。客に贈り主を訊くようなことは普段しないのだが、この爺さんの場合、自分からそういうことを僕に話したがる。
「ふふ、以前君のアクセサリーを贈った女とは、また別の女じゃがな」
「……」
元気な爺さんだ。
「――しかし、随分君も消耗しておるようじゃな」
爺さんは僕の顔色を見て、首を傾げる。
「肉体的な疲労もそうじゃが、精神的な疲労もかなりあるようじゃな。飛天グループの連中が、いまだに抵抗を続けているようじゃが」
「――ええ。これから飛天グループの本社ビルに乗り込んで、再度通告です。もう勝負はついているっていうのに……」
「ははは、儂も何度も他の会社をM&Aしてきた経験があるから分かる。こっちとしても、別に死体弄りをするつもりはないんじゃがな……無駄だと分かっている抵抗を繰り返すバカは、本当に手に負えんよなぁ」
「……」
「儂ならそんな時は、力の差を嫌というほど見せ付けるし、場合によっては、場合によっては、相手の息の根を止めることも辞さんが……君は甘い男じゃからなぁ。すぐ相手のことを考えて、手を緩めてしまう。だから余計な気苦労を背負い込む。今回のこともそうなのじゃろう?」
「……」
この爺さんの、力のある者は絶対、力のない者は、力のある自分達に服従し、支配され、奉仕するべきという考え方は、あまり好きじゃなかった。
それは7年前、友や恋人から学び、僕の信じた価値観とはまるで違うものだったから。
でも――今更、この爺さんの言うことが正しく思えるなんて。
僕は甘い。7年前、自分の甘さ――家族に止めを刺しておかずに情けをかけたことで、大切なものを失った経験から、何も学んでいない。
馬鹿は死ななきゃ治らないのに。
なまじ綺麗なものを見てしまって、人を信じようなんて無駄なことを、いつまでも夢見ている。
あの半年の時間なんて、僕は知らなければよかったのだ。あんなのは餓鬼のおままごと。大人になっても、あんな生き方がずっと出来るわけがない。
そう、あの時間で僕が見てきたものこそが間違いだったんじゃないのか。
ここ最近、自分の守ろうとしてきたものさえくだらなく思いはじめてきた僕は、かつての志さえも、正しいと、自信を持って言えなくなっている……
「――ご馳走様です」
僕は手の甲で小さく口元を拭って、抹茶の入っている茶碗を小さく爺さんの方へ通し、立ち上がった。
「ほほう、目の色が少し変わったの」
座したまま、僕の顔を見上げる爺さんが、小さく頷いた。
「覚悟は出来たのか」
「……」
僕は黙って踵を返し、茶室の障子を開けた。
「ふふ、今回の件が一段落したら、君とは今後のことをゆっくり話したい。また会う時までに、君が面白いニュースを聞かせてくれることを、期待しておる」
「――ええ、ご期待にお応えしますよ。たまには」
そう言って、僕は一人茶室を出た。
どうやら爺さんは、僕を賓客として扱ってくれているようで、玄関先まで多くの屋敷の使用人が僕を見送ってくれた。
屋敷の門をひとつくぐると、白砂の敷き詰められただだっ広い庭に、黒塗りのセダンが一台止めてあり、そこにリュートと、秘書のトモミ、そして会社の雇っている運転手が立って待っていた。
「お疲れ様です」
トモミは僕にひとつ頭を下げた。隣にいた運転手も頭を下げる。
「ありがとうございます。運転手さん、次は飛天グループの本社へお願いします」
そう指示をすると、僕はトモミが開けてくれたセダンの後部座席に乗り込む。
全員が乗り込むと、セダンは滑らかに発進する。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」
僕は口元を抑えて、咳をする。
「社長……何度も言いますけれど、もういくらなんでも無茶です。ここ最近は特に働きすぎで……そんなに急がなくても、少し休まないと」
トモミが僕の座席の横で言った。
「――そうしたいのは山々ですが、今僕は、飛天グループの社員全員を宙ぶらりんの状態にさせてしまっていますから。皆、多かれ少なかれ不安を抱えているはずですし、一日も早くそれを取り除いてやるのは、僕の責任ですから」
「……」
トモミが悲しそうな顔で、僕を見ている。
「……」
僕は目を閉じて、トモミからの干渉を遮るジェスチャーを取る。
あのエイジと飲んだ夜――トモミが僕のことを好きだというエイジの言葉を聞いてから、僕は今の自分の立場が奇妙なものになってしまい、途方に暮れていた。それを知ったとは言っても、長いこと女になんて目もくれずに生きてきた僕は、トモミが僕のことを好きかなんて分からない。僕達の早とちりかもしれないし……
だから、それをエイジから聞いたところで、現時点で僕がトモミにできることなんて、何もないのだ。
「トモミさんこそ」
僕は目を閉じたまま、口を開いた。
「ここ最近、僕に合わせて出勤続きですね――僕に合わせて働くことないですよ。適当なところで休んで構わないのに」
そう――できることと言えば、少しでも距離を取ること。
彼女が僕を好いているなんて状況は、決して望ましいものではない。身の破滅のレールに乗っている僕に、彼女を付き合わせるのも忍びないし、彼女の想いを勝手に想像しながら、彼女と接するような器用なことをすると、疲れてしまう。
「でも――社長が今、飛天グループの社員さんを安心させるために、無理しているの、分かっていますから。そういう、誰かの暮らしのために働くの、私も嫌いじゃないですし、大丈夫です。私も今は社長と働いていたいんです」
「――そうですか」
目を閉じたまま、僕は呟くように返事をした。
――何だか、妙にドツボにはまっている気がする……
――10月20日 AM11:00
「――何度も同じことを言わせないで欲しいんですがね」
僕は腕組みをする。
椅子に座った僕の視線の先には、僕を以前池に叩き落した飛天グループのボンボン達に加え、その父親に当たる世代の一族、果ては飛天グループの会長なんて爺さんも勢ぞろいして、僕と対峙している。
飛天グループの本社ビルの25階にある会議室。大きな机を隔てて、目の前には30人以上の一族。対して僕の方は、連れているのはトモミとリュートだけ。
だが、目の前の男達は皆、目の下に隈を作って、疲弊しきったような顔をしている。どう見ても、実質一人の男を多数で囲んで優位を保っている絵ではない。
「皆さん随分疲れた顔をしていますね。でも、僕ももう疲れているんですよ――ここに来るのも3度目。そろそろ首を縦に振ってほしいんですがね」
僕は目を細める。
「それが人に頼みごとをする態度か?」
先頭にいる壮年の男性が僕を睨む。この爺さんが飛天グループの会長だ。恰幅がよく、ブルドッグみたいにギラついた空気を持った男。社員を恐怖で縛りつける、一族独裁政治を行った男というのも頷ける。
「貴様はうちとの提携を求めているのだろう? なら、その提携相手に対して、礼を尽くすのが筋というものだろう」
「はぁ……」
僕は溜め息をつきながら、首を振る。
「まだ分かってないんですね。僕はあなた方にお願いに来ているんじゃない。命令しに来ているんですよ」
「何だと?」
「じゃあ分かりやすく言いましょうか。僕があなた方に力を貸してやるから、代わりにこの本社ビルを寄越せ、って言っているんですよ」
「ふざけるな!」「何様のつもりだ!」
目の前の連中から、不満の声が噴出する。
「……」
僕は首をゆっくり横に振って、軽くお手上げのポーズを取りながら、椅子から立ち上がり、会議室の窓の方へと向かう。そして閉まっているブラインドを、刑事のように指で少しだけ開けて、外を窺った。
「あなた方には、あれが見えていないんですか?」
僕はブラインドの外に目をやりながら言った。
僕の見る窓の外には、当然東京の摩天楼が広がっているが、ビルのほぼ真下――この飛天グループ本社ビルのエントランス前広場には、プラカードや横断幕を持った500人近い集団が、通行人にビラを配ったり、座り込んでいたりしている。
プラカードや横断幕に書かれているのは『飛天グループは退職金を払え!』『労働者の権利を冒涜する飛天グループに真の権利を!』『我々はサクライ・ケースケ社長を支持し、飛天グループを認めない!』などなどである。
僕はブラインドから手をどけて、下を見るのをやめると、もう一度飛天グループの面々――特に僕を池に突き落としたボンボンの方を見た。
「あなた方がうちの会社に乗り込んだ時の映像や音声が、あの時うちの会社に来なかった社員にもばら撒かれて、それから辞表を出す人間が続出した」
僕は自分の椅子に戻ると、やや後ろの席に座っていたトモミから、持参していた大き目のケースを受け取って、中を開けた。
その中には、ぎっしりと書類が詰まっている。
「個人を守るために、そちらにこれを詳しく見せることはしないが、これはオタクの社員がうちに来て働きたいと、採用試験に応募してきた人間の書類です。既にこの10倍は会社にストックしてある」
「……」
「つまり、あなた方は今、退職金を要求する労働者との協議に入っているけれど、それを無視し続けていて、今はあのとおり、社員達が本格的なストライキ状態に入っている。うちに来ない社員も、退職金にありつきたいと考えている人間はいっぱいいて、今では会社のほとんどの社員がストライキに参加していて、業務がほとんどストップしている――この本社ビルだって、これだけの施設なのに、中は空ビル状態なんでしょう?」
「う……」
表面上、自分達が上位。見た目に立派なことを強調していたが、それがハリボテであることはもう僕に見抜かれている。その現実が、明らかに目の前の連中にダメージを与えていた。
「それに――このビルに来た時、外にいる人達は、皆僕を歓迎してくれましたよ。サクライコールまで起こって……あなた方に社員との信頼関係があって、外敵である僕を駆逐したいのであれば、あなた方を先頭に、エントランスで僕が来るのを社員一同、雁首揃えて待って、反抗の意を示すでしょう。だけど今のあなた達にはそれもできない。一族が身を寄せ合う以外、もう味方なんかいないんですよ」
「く……」
「こんな都内の一等地に、設備も揃ったビルが、あなた達の手にあったんじゃ、ただの砂上の楼閣じゃないですか。だから――僕がそれを有効に使ってやるって言っているんですよ。勿論業務提携という形をとる以上、このビルの使用料に当たる金は払う。それであなた方は社員の退職金を払えばいい……そもそも、こんな馬鹿でかいビル、人がいなくて業務の縮小を余儀なくされているおたくに、もう必要ないでしょう」
「何だと! 我が者顔で言いたい放題言いやがって!」
ボンボンの一人――茶髪の男が椅子から立ち上がった。
「ふ――威勢だけはいいんだな。それとも、今日は頼みのパパやお祖父ちゃんがいるから、そんなに強気なのかい? お前、この前うちのビルで僕にみっともなくゲロ吐かされたのを忘れたか?」
「う……」
僕の目がすっと細まるのを見て、茶髪の男は完全にビビッてしまい、しゅんと静かに椅子に座り直した。
「――僕は言ったはずだぞ。これ以上、お前達の勝手で下にいる者達を苦しめたら、痛い目にあわせる、とな。お前達だって、このビルを維持していたって損をするだけだ。早々に誰かに譲って、退職金の工面をしなかったら、お前達、死んじゃうよ。だから僕が手を差し伸べてやろうって言っているのに……」
「うるさい!」
今度は会長の爺さんが僕を大喝した。顔が高潮している。
「小僧が! この俺に指図するのか!」
「その通りです」
「貴様のような小僧に、この飛天グループの重みが分かるか! このビルも会社も、俺達のものだ!」
「だから、その飛天グループの重みとやらは、僕が軽くしてやったんじゃないですか。今の飛天グループの重みなんて、他の人間からしたら、取るに足らないものです」
「このビルは俺のものだ! お前のような小僧に……」
そう言いかけて、目の前の爺さんの言葉はトーンダウンした。
すると、爺さんは突然、胸を押さえて苦しみだし、うぅ、と少し唸ったかと思うと、そのまま白目を剥いて、膝から崩れ落ちて倒れた。体が倒れる時、爺さんが座っていた椅子もそのまま横倒しになり、がしゃんという音が会議室に反響した。
「きゃあ!」「会長!「親父!」
爺さんの周りを囲んでいた飛天グループの一族は騒然となり、パニックに陥った。
「――くそっ」
僕は椅子から立ち上がって、倒れた爺さんに駆け寄る。
「トモミさん、救急車を呼んで!」
「はい!」
僕はトモミに指示を出して、倒れた爺さんの横に膝をつく。白目を剥いている爺さんは、苦しそうな息遣いを今も続けていて、近くにいた一族に体を揺すられている。
「な、何しやがる! お前、倒れている会長に!」
当然周りにいる一族達は、部外者の――しかも倒れる元凶である僕を怒鳴り散らした。
「触るな! 変に揺すったりするんじゃない」
僕は近くにいた一族を押し退けて、倒れた爺さんの体を静かに支えてまず仰向けにさせ、顎を上げて、呼吸の気道を確保する。
「誰か濡れタオルか何かを絞って持って来い。早くしろ!」
「あ、ああ……」
そう僕に大喝された一族達は、皆僕に対する批判の言葉を止めた。その後誰かが冷やしたタオルを持ってきてくれたので、僕はそれを受け取って、爺さんの額の汗を拭った。
「トモミさん、救急隊員がここにすぐ来れるように、下に行っていてください」
――そう指示を出していたトモミが、救急隊員を連れてきたのは、3分後のことだった。
その頃には爺さんはまだ意識は戻さないものの、気道を確保したせいか、最初の苦しそうな息遣いは少し改善しており、命の別状はないだろうことはすぐに分かった。
救急隊員の下で爺さんがストレッチャーに乗せられて、手際よく運ばれていくさまを、僕とトモミは飛天グループの一族と共に、黙って見ていた。
会議室の外に出て、エレベーターが閉まるのを見送ると、途端静かになった。
「……」
「トモミさん」
その沈黙を、僕が破った。
「帰りましょう。この状況じゃ、話し合いをしても無意味ですから」
「え――は、はい」
トモミが頷くのを確認すると、僕は踵を返して、色を失った飛天グループの一族をぐるりと一瞥した。
「また来る」