Forget
エイジから、その名が出るとは思ってなかった。僕が知る限り、エイジはジュンイチやユータとはそれなりに上手くやっていたが、女性、とりわけシオリのような大人しめで、暴力や罵倒をするのも気が引けるような雰囲気をも華奢な女の子は最も苦手な部類だっただろうから。
「俺の仲間内から、あの娘、すげぇ人気あったんだぜ。女はみんな、可愛い、って言うし、まだ小さかった奴等は、優しくて話しやすいって。また会いたいって言う奴がいっぱいいた。俺も、俺のこんないかつい姿に、怖がらずに笑顔を向けてくれた女の子なんて、いなかったからな――それが何だか嬉しかった。当時はそういうのを自分で消化できないガキだったから、あの娘とどう接していいかわからなかったが……」
「……」
僕は料理が並んでいるテーブルに置かれた花瓶に生けられた、竜胆の花に目を向けた。
そう――彼女はそういう雰囲気を持っていた。華奢で可愛らしい風貌をしていて、それでいて頑張り屋。だからこそ、皆が彼女を放っておけない。
そして、いつだって花の蕾がほころぶように笑う彼女がいなくなると、何となく皆の心に、郷愁にも似た移ろいが心に残る。
7年前の僕も、シオリと一緒にいて、帰って一人になった時はよくそんな気分になった。柄でもないが、妙に彼女のことが気にかかり、ふと、声が聞きたくなるような気持ち。
「さっきのお前の言葉じゃねぇけどよ――あの娘なら、お前が惚れるのも無理はねぇよな。そして、アイドルとか、上っ面だけ綺麗な女に見向きもしないお前は、恋愛偏差値はゼロだが、女を見る目だけは確かだと思うぜ」
「――それは、僕を褒めているのか? 彼女を褒めているのか?」
「両方だよ」
「――ありがたいことだ」
僕は自嘲を浮かべた。
「で、どうなんだよ」
エイジが大きな体を少し乗り出すようにして、僕の目を再び覗き込んだ。
「どうって?」
「あのシオリって娘のことだよ」
そう言って、エイジもテーブルに置かれた花瓶に目をやる。
「また会いたいとは思わないのか? この前あの女に、あの娘のこと訊かれてたけど、あの時のお前の様子を見る限りじゃ、結構未練たらたらとお見受けするが」
「……」
僕は息をつきながら、ソファーにどさりと寄りかかり、エイジから目を逸らして、部屋の天井をぼんやりと見た。
「――エイジ。僕はもう恋愛なんて忘れたよ」
「ん?」
「ここ7年、僕はリュートと何とか生きていくことと、仕事で必死だったから……」
「何だよ、寂しいこと言うなよ」
エイジがその太い声を、小さく優しく響かせる。
「俺からしたらよ、お前とあの娘、すげぇいいカップルに見えたけどな――それが、何かもう完全に赤の他人みたいになっているのは、見ていて寂しいぜ。多分、エンドウ達もそうじゃないかね」
「……」
僕は疲れているからか、まだ今日1本目のジーマがなくなっていないのに、既に頭がくらくらしていた。
「――エイジ。お前には、話しておいてもいいかもしれないな……」
だから僕は、当時の僕とシオリのことを知るエイジを前に、不意に気が緩んでいたのか、それとも、ずっと前から誰かにそれを聞いてほしかったのか。僕とユータ達以外、誰も知らないあの時のことが、つい口から漏れてしまった。
「……」
――エイジは、僕がシオリを殴ったという話を訊いて、何も言えずに、薄く目を閉じてしまった。
「――分かっただろ。僕とシオリは、もう終わったんだよ」
僕はソファーにぐったりと寄りかかり、酒のまどろみで重くなった目を細めた。
「あの時の僕も、もういない――シオリを殴って、酷い手紙を送りつけて――あれで僕、壊れちゃったんだ。だから……もう会ったところで、元には戻らないんだよ」
――そう。もう終わったことだ。
とは言え、僕だって男としての肉体の作用があるし、心の痛みに鈍いとは言え、時々寂しさを感じることもある。
たまに、無理をしてでも誰かを求めたい、飽きるまで誰かと求め合いたいと思うこともある。何かに溺れたい――それ以外の感情を捨て去れるくらい、滅茶苦茶に誰かを求めたいと思う衝動。
だが――それはとても退廃的な感情で、先がないことも分かっている。
そして――そんな衝動が、7年前、シオリに対して僕が抱いた感情でないことも。
この7年、シオリと別れてみて、数々の女と出会ったが、抱く感情はせいぜいそこまで。
誰もあの時、シオリが寄り添ってくれた時のような安らぎを、僕に与えてくれないし、それを感じる僕の中の回路も壊れている。
今日の出来事があって、それにより確信を持った。今までは、何とか人を愛せるようにと努力をしてきたが――僕自身は、自分の人生をことごとく壊してきた他人を嫌い、恨み、憎んでいる。
自分がこの7年で、誰かを愛すること、安らぎを求めることから、こんなにも遠ざかっていたのかということを実感する。
「――もうやめよう。湿っぽくなるし、折角作った飯も酒も不味くなる」
そう言って僕は体を起こし、自分で作ったフリッターをひとつ手でつまんで、口に放り込んだ。
「――ケースケ」
その時、黙りこくっていたエイジが口を開いた。
「お前はバカだ。どうしようもないアホだ。頭がいいくせに、いつだって貧乏くじを引いて、そんばかりしている大バカ野郎だ」
震えるような声。
「……」
「だが――純粋な奴だ」
「……」
「他人の痛み、悲しみを自分のことみたいに感じて、混乱しちまう。今もあの娘のことを心から考えている。終わったと言いながら、お前は心の中で、彼女の幸せを心から祈っている。あんなことがあって、心が捻じ曲がっても無理はないのに」
「……」
「そんなお前だから、俺はお前を信じられる。そんなお前だから、エンドウ達だって、今もお前を信じているんだ。お前は底抜けのバカだが、男として間違ったことは絶対にしない、ってな」
「――ありがとう」
僕は言った。
「エイジ。僕にそんなことを言ってくれるお前は、きっと自分が思っているより、ずっといい男だ。いくら見た目が強面だろうと、トモミさんに不釣合いなんかじゃない。もしそれでトモミさんがお前の想いを受けてくれなかったら、そんな女は糞喰らえだ。勿論トモミさんはそんな女じゃないと思うけれど……」
「……」
「だから、お前は幸せな恋をしろよ」
――それからエイジは、めっきり口数が減り、僕の作った料理を頬張り、酒を勢いよく体に流し込むと、そのままテーブルに突っ伏して、大いびきをかいて眠ってしまった。
僕の力では、体重100キロ近いエイジを一人でベッドに運ぶのは無理で、絨毯の上に引きずって、横に寝かせると、タオルケットをかけた。
僕はエイジを寝かせてから、もう料理の乗っていない皿や、エイジが大量に開けた空き缶を片付けるのも面倒で、そのままシャワーを浴び、シャツとウェアに袖を通して、僕はエイジの寝ているリビングに戻り、ソファーに腰を下ろした。
「クゥン」
僕が戻ってきたのを見て、ずっと部屋で待っていたリュートが、僕の足に擦り寄ってくる。僕は体を屈ませるようにして、リュートの頭を撫でた。
そうすると、僕のすぐ近くで、いびきを書いて、深く眠り込むエイジの顔が見えた。
僕とユータ達――そして、シオリとのことを悲しんで、だが、自分の考えを僕に強いることも出来ずに、こうして酒で悲しみを紛らわせようとしたのだろう。
――いい奴だ、こいつも。
「……」
ジュンイチ達の事を訊いても、シオリのことを問われても、自分の中で、諦めに似た感情が広がっていくのが、自分でも意外だった。
もっと、逢いたい、と思う気持ちが広がるものだと思っていた。
――だけど、改めて考えたら、そんなこと、初めから分かっていたさ。
7年前、シオリと付き合い始め、家族に虐げられ続けるだけの僕に、ようやく青春らしきものが訪れたが、それは僕が親父を半殺しにし、シオリを殴った時点で終わった。僕の青春は、あの時死んだのだ。
それでも、あの頃の志に生きようと、必死で好きでもない人間を愛そうとしてきた。けどそんなの誤魔化しだ。満ち足りた日々が永久に手に出来ないものになった虚しさを誤魔化していただけ。
「ゴホッ、ゴホッ……」
僕は、自分の右腕を目の前にかざした。
シャワーを浴び、愛用のロレックスが外れた僕の右の手首には、一筋の切り傷の跡があった。
ロレックスを人前で絶対に外さない理由の半分は、この傷を隠すため。
「ふ……」
お前は幸せな恋をしろ――か。柄でもないことを言ったものだ。
だが――これがエイジへの遺言になるかもしれないな。
僕はもう、まともな恋が出来そうにない。
この7年、失ったものの重さ、果てのない虚しさに耐えながら生きることに、もう疲れてしまった。
もうあれだけ互いに信じあったユータ達や、あれだけ愛したシオリのことでさえも、上手く受け止める心の弾力さえも、失いかけている。
この傷をつけた頃は、家族への憎しみが、まだ僕が終わることを拒んだから、生きることが出来た。今の僕には、それもない……
「クゥン……」
傷を見て、自虐的に笑う僕を見て、リュートが僕に何かを訴えた。
「……」
僕が家族への復讐を終えても、まだ生きていた理由は、このリュートだ。全てを失った僕に、ただひとつ残った相棒の存在。
だが――リュートももう十分老いた。もう長くはないだろう。
リュートが死ぬまでに、僕は自分の作った会社、グランローズマリーに責任を取らなくてはいけなかった。僕がいなくても、十分やっていけるまで、環境と設備を整えて。
そしてそれは、飛天グループを飲み込むことで、ひとつの終結を見た。僕の後継者であるエイジも、十分成長した。
それだけ出来れば、もう十分――
この7年、心身に残る痛みで必死に過去から目を背け、また振り返りそうになれば自分に痛みを課して、償いという幻想で、自己を慰めた。
そんな生き方にも、もう疲れた……
僕はふっと目を閉じた。
もうすぐ終わりだ。この虚しさに耐える日々が終わり、僕に安らぎが訪れるまで……
「な、何これ!」
そんな女の声で目が覚めた。
僕が目を開けると、僕は自分の部屋のリビングにいた。どうやら僕はまたソファーで眠っていたらしい。
僕の足元にはリュートが眠っていたが、リュートはもう目を覚ましていた。だがもう一人のエイジは、寝ている間に僕の書けたタオルケットから出てしまい、そのヤツデのような大きな手で、少し出っ張り気味の腹を掻きながら、寝返りを打っている。
そして、僕が視線を上げると、そこにはいつものように、トモミがいる。部屋はまだ、昨日の料理が乗った皿や、空き缶でいっぱいだし、キッチンの流しも、野菜の残骸をまだ片付けておらず、生活観のない僕の部屋は、久々に派手に散らかっていたのだ。
「あぁ――トモミさん」
僕は目をこすりながら、ソファーから立ち上がった。
「ほら、エイジ、もう朝だ、起きろ」
僕はエイジの横で肩を揺すった。
「うー、気持ち悪……」
どうやらエイジは二日酔いのようだ。苦悶の表情を僕に見せる。
「何でアンタがここにいるのよ……」
トモミもそんなエイジの姿に顔をしかめさせた。
「――しばらくそっとしておいてくれ……」
エイジはまるでKOされた格闘家のように、声を絞り出した。
「――まったく……」
トモミはそれを訊いて、呆れるようにそう吐いた。
「……」
そして僕は、そんなトモミをじっと見つめていた。
「――社長?」
やがてトモミがそんな僕の視線に気付き、僕の方を見た。
「――うーん……」
「な、何ですか……」
トモミは僕の視線に尻込みするように声をしぼませ、もじもじしながら視線を逸らした。
「……」
やっぱり僕は、トモミが僕のことを好きかなんて、見ただけじゃ分からない。エイジからそう訊いても、やっぱり僕にはその兆候が見て取れないのだ。
出来れば僕がいなくなった後、トモミにはエイジのサポートを頼みたい。それが仕事だけじゃなく、プライベートな関係にも発展してくれたら、最高だと思う。トモミも以前、エイジのことを認めるような発言をしていたし、脈がないこともないだろう。
僕に恋のキューピッドなんて出来る柄じゃないが、出来れば僕は、自分の体が持つ間に、二人をそういう展開にもっていきたい。
だが――もしトモミが僕のことを好きだとしたら……
「……」
これは困ったことになった。自虐的な思いが胸を突いて、苦笑いが思わず出た。