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Insult

「――ああ」

 僕はそう返事していた。理由は――強いて言うのなら、こうして千鳥足を踏んでよろける女性が自分に何かを求めたのに、それを無視するのが忍びなかったからだろうか。

 どこまでも甘いな、僕は。

「後部座席に乗ってくれ」

 助手席は既にリュートが待機しているから、僕は女に後部座席に乗るよう促した。

 女はそれを訊いて、後部座席のドアを開ける。それを見て僕も運転席に入り、シートベルトを締めながら、運転席のドアの横の隙間に仕込んである機械のあるボタンを押した。

「で? 家はどのあたりなんだ?」

 そう僕がステアリングを握ったまま、女に声をかける。

 しかし、女の声はない。

「……」

 僕はフロントミラーに目をやって、後部座席を確認する。

 それを見ると、女はもう後部座席に崩れ落ちていて、目も閉じていた。

「おい……」

 僕はもう一度呼んでみるが、女は、うーん、と、少し苦しそうな呻きを小さく上げただけだった。

「――はぁ」

 溜息。

 僕は構わず車を発進させる。

 何だかたまには高速にでも出て、この無駄な馬力を積んだ車を思い切り暴れさせてやりたいと思った。



 僕はそのまま環八通りを走って、家から程近い一流ホテルへと向かった。

 これでも僕はハリウッド御用達のデザイナーだ。海外から映画スターや、ファッション界の重鎮を招くこともあるから、その度にホテルのスイートを用意しなければならない。だから、都内にある一流ホテルには割と顔が利くのだ。

 僕は女を駐車場において、フロントで空いているそこそこの部屋を取る。もう時間は夜の8時を過ぎているし、さすがに突然のことに、フロントも戸惑っていたが、上客である僕の頼みを邪険には出来ず、部屋を用意してくれた。

 部屋が取れると、僕はホテルの従業員に頼んで、駐車場にいる女を部屋に運ぶように指示をした。女性従業員は二人がかりで担架に女を乗せて、女を部屋に運んでくれた。

 僕は担架からベッドに寝かしつけた女性従業員に、少しのチップを払って、部屋を出て行ってもらった。部屋に僕と女が残される。

 部屋はそこそこいい部屋で、日本でいうスーペリアルームというやつだろう。ベッドはツインベッドで、この部屋を一人で使えるならなかなか贅沢だ。おまけに翌朝ホテルのビュッフェレストランで朝食付きと来ている。

 別にここまでする必要もなかったか、と思う。とは言っても、上客である分、ホテルのポイントも溜まっていて、この部屋も無料で取れた。こんな機会でもないとポイントも使えないし、まあいいか。

「さて、と……」

 僕は軽く伸びをする。

 丁度部屋のドレッサーのような小さな机に、ペンとメモ用紙があったので、適当な書置きをしておこうと思い、僕は近くの椅子に座り、ペンを取った。

「う……ん」

 そんな折、女がベッドからゆっくりと体を起こして、髪を触りながら、空ろな目を開けた。僕もその音に、ペンを止めて、顔を上げる。

「――あれ? ここ、どこ?」

 ボーっとした声を作って、女は目をしばたたかせ、ベッドに座ったまま、部屋を見渡した。

「――君を車に乗せたけど、寝てしまって、向かう場所が分からなかったんで、部屋を取ったんだ」

 僕はそう言いながら立ち上がって、女の方を見る。

 すると女は僕の方を見て、遠慮ない笑顔を浮かべた。

「――へぇ、天才少年も、結構エッチなんだ。酔い潰れた女を、ホテルに連れ込むなんて」

「……」

「でも、あなたくらいになると、女を連れ込むのに、スイートだと思ったのに……私だからこれくらいの部屋で十分だって?」

「……」

 僕はその、目の前の女の言動に静かにキレた。ここに来る前の出来事も我慢していたが、僕の心のダムが決壊したように、女のその言葉に、怒りがあふれ出していた。

 この馬鹿とのやり取りに、早々に片をつけてやる。

「君が今まで寝た男を、僕と一緒にするな。君のものさしで僕を定義付けるな」

 僕は静かに、だけど荒れた声で女を怒鳴りつけた。

「君が起きない。君の家を僕は知らない。だけど夜の街に放り出すわけにも行かない。だから部屋を用意した。自分の背負った荷物は自分で処理した。それだけのことだ」

 僕は部屋を見回す。

「この部屋は同窓のよしみだ。朝まで好きに使うがいい。僕はそれ以上のことを君にする気はない」

 そう言って僕は、自分が書きかけたメモ用紙を一枚破って、それを手で丸めてゴミ箱に捨てると、そのまま鞄を持って部屋の出口に向かった。

「――帰っちゃうの?」

 女はベッドに座ったまま、僕にそう訊いた。

「元々君が送ってくれと言わなければ、君と今晩一緒にいる気なんかなかった。当然だろう」

 そう言い残して、僕は部屋を出て行った。

 ホテルに着いて、僅か10分弱。僕は駐車場に戻って、リュートの待つ自分の車の運転席に乗り込んだ。

「くそっ、どいつもこいつも……」

 僕は駐車場でステアリングを握ったまま、額をそのままそこへ預けた。

 気分が更に悪くなった。

 別に小学校時代の同級生に、感謝なんて求めていたわけじゃない。

 だが、僕だってそれなりに善意で行動してきたつもりだった。自分のことをそっちのけにしてでも、僕は誰かを守りたかった。誰かを笑顔にできる自分を追い求めてきたつもりだったのだ。

 それに対するお返しがこれだ。自分のしてきたことの全てを侮辱された気分だった。

 僕があいつらに何をしたって言うんだ……何で誰も僕のことを分かってくれないんだ。

 だが、こんなことで腹を立てる僕の方がどうかしている。

 力では、もうあんな連中、僕の足元にも及ばないのだ。

 だったら、もう放っておけばいいじゃないか……

 頭では分かっているのに、僕にはそれが出来ない。

 僕はこの7年、ずっとそうだった。

 家族のために、僕のささやかな幸せが全て壊されて……

 僕はそれからずっと、その憎しみに囚われて生きてきた。それからというもの、自分が何かに――誰かに対して怒りを覚えると、それを抑えきれなくなってしまう。

 なるべく理性で抑えようと、蓋をしていた憎しみが、怒りによって堰を破って――その度に僕は、目に映る全てのもの――自分自身にさえ憎しみを飛び火させてきた。

「……」

 それが、家族を叩き潰した今でも、消えていない……

 それが分かった。

 今での僕の胸の奥には、憎しみが、棘のようになって残っている。

 それが僕の怒りに反応して、心を黒く染めてしまう……

「……」

 僕は根っからの戦好きだと、帝国グループの爺さんに言われたことを思い出す。

 そうかも知れない。怒りに苛まれた僕は、きっと、自分のその棘に触れた人間を叩き潰してやろうと思うだろう。

 でも――そんな僕でも。

「ゴホッ、ゴホッ……」

 また僕は、『あの言葉』を欲しがっている。

 あの時も、僕を知る人によく言われた。最近目元がすごく柔らかくなった。あなたの棘をあの娘が抜いてくれたのね、と。

 一人ではその棘の抜き方が分からない。昔のように、もう一度僕の棘を抜いてくれる人――僕を肯定してくれる人を求めている。

 ――甘ったれてるんじゃない。

 きっと今の僕は、前と同じ、険しい目をしているんだろうな……そんな自分も、今更そんな救いを誰かに求める自分の弱さも。

 みんなみんな、消えてしまえばいい。




 ガシッ! バシッ!

「――ゴホッ、ゴホッ……はぁ、はぁ……」

 僕は咳き込んだ呼吸を整えながら、構え直す。

 目の前の巨人の現役投手のモーションを映すグラフィックが、投球モーションを開始すると、次の球が飛んでくる。

 僕は130キロのストレートを、完璧にバットで捉えて、ライナーのセンター返しを飛ばす。

「――くそっ……」

 僕はあれから車で10分ほどの所にある、大型アミューズメント施設のバッティングセンターに来ていた。中は学生やカップル、親子連れなど、この時間でもかなり人がいる。

 バッティングセンターは、僕の数少ないストレス解消法の一つだ。会社からも程近いこのバッティングセンターは、創業当時から、体を動かしたい時に、たまに利用しに来る。

 だけど――今日は全然駄目だ。

「――うっ」

 僕は飛んできた球にバットを出すが、それはあえなく空を切る。

「……」

 ――ここまで体が弱っているとはな……100回もスイングしていないのに、もう僕の息は上がっているし、体のキレも悪くて、ボールを捉えても、イメージのような鋭い打球が全然飛ばない。おまけに目がかすんで、ボールを上手く捉えられず、ミスショットも多い。

 自分の体のふがいなさに、ストレスが溜まる一方だった。

 僕は再びバットを構えるが、目の前のグラフィックはぴくりとも動かなくなる。

「……」

 僕はもう1回やろうかと、一度コイン投入口のあるゲージの外に踵を返す。

 すると――

 見るとガラス戸で仕切られたゲージの外には、30人くらいの人だかりが出来ていた。携帯を構えて写真を撮っている者もいる。

「あ、あの、サクライ・ケースケさんですよね?」

 ガラス戸越しに、最前列にいた僕と同世代くらいの男が訊いた。

「……」

 そうか――僕にとってはかなり物足りないけれど、それでもここに来るような人間の中では、僕の今のバッティングでも、十分目を引くレベルだもんな。

「違いますよ、こいつ」

 ふと、僕の隣のゲージから声がした。

 声のした方を向くと、ヘルメットを被って、スーツの上着だけを脱いで、ネクタイを緩めた、身長190センチを超える大男が、隣のゲージの中、僕とナイロン製の緑色の網を隔てて立っていた。

「エイジ……」

「こいつ、ユーイチって言うんですよ。よくサクライ・ケースケに似てるって言われるんですけどね」

 エイジは僕を指差して、ゲージの外の人に説明する。

「そ、そうですか。それは失礼しました」

 ゲージの外にいる人達は、エイジのその威圧的な体と雰囲気に気圧されて、引きつった笑みを浮かべて、退散していった。

「……」

 僕はそんなエイジをぽかんと見つめていた。

「――その様子じゃ、同窓会はイマイチだったみたいだな」

 エイジは人だかりがいなくなったのを確認してから、網越しに僕の方を向く。

「まったく、日本有数の財閥のアタマが、ストレス解消にバッセンかよ。でも、2年前はこうして仕事帰りによく来たよな」

「……」

「しかしよ、お前世界有数のデザイナーなんだぜ。素手でバット振るなよ」

 そう言って、エイジはゲージの前に回って、網の横から僕にバッティングセンターの横の売店で買ったらしい、真新しいバッティンググローブを投げて渡した。

「――さて、俺も久し振りに来たし、もうちょい遊んでいくか」

 そう言いながら、エイジは自分のゲージのコイン投入口にコインを入れて、右打席に入ってバットを構えた。

 エイジが120キロのストレートを、その大柄な体のパワーに任せて強振すると、流星のような豪快な打球が目の前のピッチャーのグラフィックの頭上の遥か上を越していった。神宮球場くらいなら、ホームランになっているような打球だ。



「――はぁ、久し振りに体動かすのも、なかなかいいもんだな」

 僕とエイジは一緒にゲージを出て、アミューズメント施設のフロントに出ていた。

「――もしかして、僕を待っていたのか?」

 僕は横にいるエイジに訊いた。

「まあな。もし同窓会での酒がまずい酒になったら、お前はここに来るだろうと思って。もし会えたら、お前と久し振りに飲みに行けたらな、と思ってさ」

「……」

 こいつ、きっと僕が今日会社で、同窓会の封筒を気にしている時の表情を見て、僕のことを心配していたのだろう。

「お前、ここにいるってことは、素面だろ? だったら飲み直しに行こうぜ。お前と飲みに行くなんて、もう1年ぶりくらいになるしさ。たまにはいいだろ?」

 エイジはその大きな顔で、豪快に笑った。

「……」

 エイジと、か……確かに、会社創業当時はお互いのこととかを、酒を飲みながらよく話したけれど、会社の規模を拡大してからは、あまりそういう話をする機会もなかったしな。

 久し振りに、それもいいか……

「――ああ、たまには悪くないな、それも」

「へへ、よし。じゃあ、行こうぜ」

 僕が承諾したことで、エイジはご機嫌そうに笑った。

 ――僕とエイジはそのままアミューズメント施設を出て、駐車場へと足を運ぶ。

「しかし、どこで飲むか。久し振りに二人で『アンタレス』に行くか」

 エイジは駐車場を歩きながら訊く。

 以前、僕が帝国グループの令嬢レナと行ったバー『アンタレス』は、会社も近いこともあり、エイジも利用しているバーだ。創業当時はたまにあそこで創業メンバーだけの壮行会をやったりした。エイジもマスターの顔馴染みだ。

「――うちに来るか?」

 僕は訊いた。

「ん?」

「お前バイクだろ? だったら飲んだ後、面倒だろうし……だったらうちで飲んでいけよ。何なら泊まっていってもいいし、明日それで会社に行けばいいしな」

「ああ、いいなそれ。確かに俺としても助かるよ。いやぁ、懐かしいな。昔川越に住んでた時は、お前がよく俺のアパートに泊まりに来て、料理とか作ってくれたっけな」

 その提案に、エイジはニコニコ顔だ。昔のことを思い出しているのだろう。僕の同窓会の封筒を見て、エイジも今夜は一仕事終えて、気が緩んでいるのだろう。昔の思い出に浸りたいような郷愁が胸を突いたのかもしれない。

「そうと決まれば、食材とか買出しだな……」

 僕は歩きながら、ふっと駐車場の天井を見上げる。

「――エイジ、お前のバイク、ちょっと貸してくれないか?」

「え?」

「ちょっと今夜は、バイクとかぶっ飛ばしたい気分なんだ。ついでに買出ししてくるから、お前には僕の車で、リュートと一緒に部屋に帰って待ってて欲しいんだが」

 僕の提案をエイジは承諾してくれ、僕とエイジは互いの鍵を交換した。

 エイジのバイクは、本人の大きな体に合わせた大型のハーレー。エイジは不良時代から今に至るまでずっと車よりバイク派で、会社にもバイクで通勤している。特にこのハーレーは、いつかは手に入れたいと言っていたモデルで、勝手から数日は終始御機嫌だった。

 僕もたまにエイジのバイクに、二人乗りを含めて乗せて貰うこともあった。僕自身も、風を感じることの出来るバイクは好きなのだが、リュートがいるから今は車に乗るしかないため、持っていない。

 ヘルメットを被ってエンジンを絞ると、車では感じられない振動が伝わり、キャブレターが鳴き出す。

 走り出しながら、僕はギアをトップに入れる。買出しに行く前に、風に吹かれたくて、大通りに出る。

 フルフェイスのヘルメットの日除け越しに見る、東京の夜景の下、空は明る過ぎて星も見えない。10月の夜風は、僕の着ている薄手のコートでは酷く冷たく感じたけれど、怒りに囚われそうになった頭を冷やすには丁度良かった。


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