Steal
社長室に戻った頃には、もう正午近い時間になっていた。
「おう、ケースケ」
既にエイジとトモミが社長室で、僕の帰りを待っていた。
「――エイジ、すまないな。お前に会議を全部押し付けちまって」
僕は自分のデスクへと歩を進める。
「いいさ、最初からそう言われてたし」
エイジはふっと僕に笑顔を見せる。
「役員達はどうだ? あまりちゃんとした説明をせずにこの有様だからな、少しは動揺していただろう」
「いや、お前の派手なパフォーマンスのおかげで、もうみんなすっかり乗り気だったよ。自分達が飛天グループ以上の力を持つようになるなんて、みんな夢のような出来事だからな」
「――そうか」
「社長」
そんなエイジの影から、トモミが顔を出した。手にはおしぼりを持っている。
「まだ口元に、血が付いてますよ」
そう言って、僕におしぼりを渡した。
「あぁ、すみません」
僕はトモミからおしぼりを受け取り、口元を拭った。
「――本当に、大丈夫なんですか?」
トモミはずっと心配そうな面持ちをしていたが、その原因を僕に問い詰めた。
「――大丈夫ですって。あんなの……うっ、ゴホ、ゴホッ……」
「――説得力ねぇなぁ」
エイジがその広い肩幅を竦めた。
「でも――むせるねぇ、お前」
エイジが笑みを浮かべて言った。
「お前、最近ずっとそんな咳してて、今明らかに体が弱ってるってのに、人前に出りゃ、お前はどんなに体が弱ってても、疲れてても、そんな素振りを少しも見せないもんな」
「……」
「たまにお前が会議とかに出た姿見てると、最近体調悪そうにしているお前のこと、信じられなくなっちまうよ。自分がどんなに苦しくても、人の上に立つ以上、決して人に弱みを見せない――お前は男だよ。人の上に立つ責任を、あのボンボンに語る資格がある」
「――そうか」
僕はおしぼりを自分のデスクに置く。
「そして、あの蹴りも見事だったぜ。あれでお前は、飛天グループのうちへの報復に楔を打っただけじゃなく、飛天グループの社員を守る姿勢を見せたことで、完全に自分の部下に引き入れた上に、うちの会社の連中に、改めて義を軽んじる人間へは厳罰を下す姿勢を明確に見せて、社内の引き締めも図った。男ってのは、強い男に憧れるからな。お前、あの蹴りで多くの人間に、言葉以上のものを語った」
「……」
エイジはニコニコ顔だ。昔の環境もあるだろうが、エイジ自体も本当は、こうして策で人を貶めるよりも、単純な力での攻防が好きなのだろう。
「まあ、お前があのボンボンのパンチを最初喰らった時には、少しびっくりしたけどな」
「……」
「――私には、よく分かりません」
「え?」
僕がエイジの言葉に口をつぐんでいると、トモミが僕のことを、悲しそうな目で見ていた。
「殴るとか、殴られるとか、男の人同士にしか分からない捉え方があるのかも知れません。でも……社長のあの時の目は、何だか、自分の行動から目を背けているような、そんな目だったから」
「……」
「本当は社長、あんなことをしたくなかったんじゃないんですか? 社長なら、あの人達なんかに殴りかかられても、簡単に避けられるのに、あの人達にわざと殴られたのだって、自分のすることに、申し訳なさを感じていたからなんじゃ……」
「……」
「さっきまでだって、気持ちの整理を付けに行っていたんでしょう? 社長がリュートくんと二人になる時は、いつもそうだから……」
「……」
そのトモミの言葉に、不覚にも心が揺り動かされる。
僕は二人から目を背け、社長室のガラス越しに見える、大東京の摩天楼に目を向ける。
「――悔いているのか?」
エイジが僕の背中に声をかけた。
「力の差があるのが分かっているのに、相手を叩きのめしたことを」
「――いや」
僕は背を向けたまま言った。
「悔いている、というのとは、多分ちょっと違うな」
「え?」
「もうそんな後悔は十分した。人を傷つけることで後悔するよりも、何もしないで何かが傷つけられるのを見る方が、多分もっと後悔するからな……」
7年前、僕が大切な人を傷つけたのは、僕の甘さが原因だった。
家族に情けをかけずに、早期に殲滅していれば、僕は今でも友や恋人と、上手くやれていたはずなんだ。
もう自分の甘さで、守れるものを守れず、大切なものが傷付いていく様を見るなんて、そんな思いをするのは、もう御免だ。
あの家族のような馬鹿はこの世に沢山いる。馬鹿は死ななきゃ治らないの格言どおり、世の中には、倒さなければ、死ぬまで人を傷つけるような人間は確かに存在するのだ。7年前の経験の後も、僕はそんな人間を嫌というほど見てきた。日本を出たばかりの頃の僕は、そんな人間に虐げられる人々を見ても、何かをする術も分からず、無力感に苛まれていた。
その時も十分悩んだ。そして今の道を選んだ。見て見ぬふりなど出来ない。だったらせめて自分の手を汚してでも抗う道を。
元々旅の最中、自分の命の価値さえゴミのようなものとしか見れなくなっていたから、手を汚すことなど、それ程抵抗もなかった。どうせ日本にいたのなら、現在の僕のように『人殺し』と揶揄されていたのだから、今更僕が人を傷つけようが、どうということもないと思えた。
今では、もう覚悟を決めたつもりだ。
僕の行動も、決して褒められたものじゃないが、それでもその行動のために救われた人もいるのも事実だ。それが誰かの希望となっているのなら、自分が手を汚していることだって、少しは報われる。
勿論、自分の行動を顧みて、本当にこれでよかったのか、と、振り返ることもあるけれど……
「……」
――たまに思うことがある。
荒んだ生活をしていて、こんな解決方法しか思い浮かばなかった僕。それが是か非か、今でもそれが分からないまま、戦い方ばかり上手くなってしまったけれど。
シオリなら、どうしただろう。
親父に暴力を振るわれそうになっても、シオリは毅然とした態度で、力ではなく、気持ちをぶつけることで、それに抵抗した。僕の暴力を止めたい一心で、僕の拳の前に飛び込んだシオリなら、そんな力弱い人達を、どうやって守ったのだろう。
あの時のシオリの身を挺した姿が、今でも僕にそんな疑問を投げかけ続けていた。
少なくとも、僕は彼女と一緒にいた時、誰かに暴力を振るうこともなかった。誰かから何も奪うことなく、生きることが出来た。
それだけで、幸せな気持ちになれた。
――きっと君なら、僕のように、誰かから何かを奪わず、傷つけずとも、誰かを幸せにする術に辿りついたかも知れないな。
僕はもっと、君からそうして生きる道を学びたかったよ……
君は誰かに優しくしてあげることで、自分も、他人も笑顔にできる。そんな生き方を、僕はもっと見ていたかった。
それが出来ていれば、僕はこんな奴にならないで済んだのかも知れないのに……
僕はいまだに、君の姿に見た疑問に、答えが出せずにいる。
誰かを傷つけず、奪わず、それでいて誰かを幸せにする方法――かつて僕がシオリと共に生きた半年間で、それは確かにあった。
出来れば僕もそうすることが出来たらいいと思うが、僕は結局、その答えに辿りつけずにいる。
「じゃあ、何を考えてるんです?」
トモミが僕に聞いた。
「――自分の力の使い方について、かな」
「え?」
「僕の今の力なら、7年前と同じ方法を取ることはない……やろうと思えば、もっと平和的な解決法だってあるだろうに、ってことを、色々考えていただけですよ」
今の僕は、あの時のシオリとは比べ物にならない程の力があるだろう。
シオリに出来ることで、今の僕に出来ないことはないはず。
なのに――僕はいまだに、誰かを本当の意味で幸せにしてやれたことがない。誰も傷つけることなく、誰かを守れたこともない。
今日だってそうだ。僕は今日、飛天グループの未来を潰した。
確かにこっちのメリットも大きかった。シャンパンをかけられた逆恨みだけがこの簒奪のきっかけではない。
だが、あれがきっかけだったのは間違いない。僕は、あの程度のことで、ひとつの財閥を潰したんだ。従業員を救ったとはいえ、財閥の人間を切り捨てた。
――ガキの喧嘩だ。
僕にはもう、力がある。その力を僕は、いまいち自覚していないのだろうか……こんなことで、人の人生を奪ってよいものなのだろうか。
シャンパンを頭から被り、池に突き落とされたくらい、笑って見逃してやればいいじゃないか。あいつらと僕ではもはや力の差は歴然なんだ。それがいまだに出来ないのは、自分自身の器の小ささを露呈しているようでもある。
僕に殴られても、恨み言ひとつ言わず、僕の無事を確認して微笑んでいたシオリに比べると、今の僕はなんて卑小な人間だろう。
昔の僕は、自分があまりに無力で……何一つ変えられず、力に取り付かれた。自分の無力さを呪い、自分を淘汰した世界に復讐をしようとした。
だが、今は違う。今の僕は力を手に入れた。もう僕は7年前の無力なサクライ・ケースケではない。
そうではないというのに、僕の心は7年前から時が止まったまま、一歩も前に進んではいない。7年前の卑小で卑屈な心のまま、無駄な破壊を繰り返しては、人々に恨みや憎しみを抱かせることを強いている。
――僕がやりたいことは、本当にこんなことなのか。
僕が望んだ力とは、本当にこんな力か。こんな使い方か。
力を持った今なら、他人を暴力的に裁くだけではなく、他人に与えることだって出来るはず。
なのに僕は、いまだに誰かに罰を与える以外に、力の使い方を知らない。
「まだまだ考え続けるところは、色々あるな……」
「ん? よく分からないな……」
結果だけ見れば上々の戦果なのに、それでも不満そうにしている僕を、エイジは理解しかねるようだ。
「――まあいい。それよりケースケ、お前もひとつのヤマが終わったんだ。少しは羽を伸ばして休んでこいよ。お前、少し疲れてるから色々考え込んじまうんだ。少しリフレッシュすれば、悩みも少しは楽になるかもしれないぜ」
そう言って、エイジは自分のデスクの上に置いてあった、ひとつの封筒を僕の方へと差し出してきた。
「丁度こんな手紙がお前宛に届いているしな」
随分安っぽい封筒を受け取ると、僕はその封筒の表面に書いてある文字に目を走らせる。
『埼玉県川越市立○○小学校6年1組同窓会のお知らせ――』
封筒には、そう書かれていた。
「――同窓会ですか?」
トモミも僕の横で、封筒の文字に目を落とす。
「たまには昔を懐かしむのもいいんじゃないのか? それに、参加者は財界のパーティーみたいに金持ちや権力者ばかりじゃない。お前が今守ろうとしている、力のない人間だ。お前としても、自分が守ろうとしている人間のことを知るいい機会かもしれないぞ」
「……」