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「え――えええっ!」
エイジの言葉から一拍遅れて、トモミが大きくリアクションを取った。
「――何だよ、お前、そんなに目を見開いて」
「だ、だって社長って、アイドルとかモデルにだって全然興味示さないから、恋愛とか、しないものだと思ってて……」
「もしくはホモなんじゃないか、ってか?」
「……」
にやにやするエイジの言葉に、トモミは押し黙る。きっとそういう想像をしたことがあるのだろうな。
だが、そういう疑いを持たれても無理はない。トモミにはその話をまだしたことがなかった。僕の私生活に女っ気がまるでないのを一番知っているトモミなら、妥当な反応だろう。
「――エイジ、トモミさんに余計なことを話すなよ」
僕は少し怒ったような声が出た。
「余計なことなのか? あの娘のことは」
だが、エイジはそのどんぐり眼を僕に向けて、そう切り返した。
「――ああ、余計なことだ」
僕はそう言い捨てた。
「……」
沈黙。
「――どんな女だったんですか?」
トモミが僕に訊いた。
「……」
予想通りの質問だった。女の子ってのは、大体こういう話が好きだろうから。
だが、ひとつ想定外だったのは、もっとガールズトーク的なノリで訊いてくるのかと思ったが、トモミの顔が、僕の想像よりもずっと真面目だったことだ。
「写真とか、ないんですか?」
トモミは訊いてくる。
「……」
僕は溜息をつく。こういう時の女性の頼みを断ると、それを振り払うのに労力を要することを、僕は知っている。
だが、まあいい。どうせ彼女にはいずれはばれることだったのかもしれない。
僕は自分のデスクの引き出しを開けて、ひとつの写真立てを取り出した。それをトモミに差し出す。
「旅先に持っていった写真だから、もうボロボロですけど」
トモミは僕の手から、写真立てを会釈して受け取り、中を覗き込んだ。
「――え?」
トモミがまた声を上げた。
「嘘? この女って……」
「え?」
僕はそのトモミの様子をいぶかしむ。
「え――あ、な、何でもないんです」
トモミは写真立てを僕に返す。僕はその様子をまだいぶかしんでいたが、写真立てを再び机の引き出しにしまった。
「――可愛らしい女ですね」
トモミは僕に、にっこり微笑んで見せた。
「……」
「その写真に写ってる社長も、本当に幸せそうですね。今じゃそんな幸せそうに笑っている社長、ほとんど見たことないですもん」
「……」
僕はエイジの方を見た。お前の一言のせいで、ややこしいことになったじゃないかと、目で訴えた。
「そう睨むなよ」
エイジは広い幅の肩をすくめた。
「お前にとってその娘が特別なのは俺も知ってるし、あまり人に話したくないのも分かる。でもよ、それを知ってても、やっぱりお前がその写真みてぇに笑わなくなったのが、一緒にいる俺等としては、痛々しいんだよ」
「……」
僕は目を細めて、首を横に振る仕草を見せる。
「――どんな女だったんですか?」
トモミが僕に訊いた。
「え?」
「だって――知りたいんですもん。私達と一緒にいて、社長、こんな風に幸せそうな顔したこと、ないですから。社長をこんな顔に出来る女って、一体どんな女だったんだろう、って、思って」
「……」
そのトモミの表情を見て、思った。
僕は秘書なんて持つ気はなかったけれど、そんな気持ちとは関係なく、今トモミは僕の秘書なんかを務めている。だけど僕自身は、秘書がいようといまいと、自分の道をただ勝手に進むだけで。
僕のことを心配してくれる彼女が悲しんだり、傷付いたりすることを、まるで気にも留めていなかった。
それを間近で見せ続けていたことを、改めて、申し訳ないことをしたと思った。
――だったら、彼女の知りたいことの少しくらい、話してやるべきか……
「そうだな……」
僕は先程トモミが花瓶に生けてくれた竜胆の花を見ながら、思考を反芻する。
「おっとりした性格で、ちっちゃくて――でも、たまにすごく頑固で、頑張り屋で。だから、知らないところでいつも無理をしていそうで、たまにちょっと心配になったりした……」
「……」
「恥ずかしがり屋で、よく周りの人にからかわれてて、その度にいつも、えへへ、って照れ笑いを浮かべていたな――そうして笑ってる顔を見ると、何て言うか……」
――そこで言葉を止める。
僕の前で真剣な目をして訊くトモミと、呆れるような顔をして苦笑いを浮かべるエイジの顔を見たからだ。
「――何言ってるんだ、僕は……」
僕はデスクに頬杖を突いて、口をつぐむ。
「別にいいじゃねぇか」
エイジが言った。
「たまにはお前も俺達に、仕事以外の話をしろよ。愚痴でも後悔でも未練でも、何でもいいから、少しは吐き出したっていいんだぜ」
「私も、もっと訊きたいです」
トモミも僕の目をじっと覗き込む。
「社長がそんな顔で話す人のこと、もっと知りたい……社長の気持ち、もっと知りたいから」
「……」
沈黙。
「――じゃあ」
少し逡巡したが、僕はまたシオリのことを話し始めた。
何故この時、この7年、誰にも話さなかった彼女のことを、話す気もなかったのに話してしまったのか。
――もしかしたら、ずっと僕は彼女のことを吐き出したくて仕方がなかったのか。
自分でも分からなかった。
「竜胆の花言葉って、知ってますか?」
僕はトモミの顔を見ると、トモミは首を横に振った。
「私はあなたの悲しみに寄り添う。いつまでも……」
「……」
「彼女が7年前に、僕にくれた言葉なんです。そう言って、僕の手を取ってくれた。彼女と付き合い始めたばかりの頃は、僕はまだ人との付き合い方とか、自分の力をどうやって使えばいいかとか、何も分からなくて。世間ではその時から僕を臥龍なんて呼ぶ奴が出始めてたけど、当時の僕は色んなものに暗中模索していて、迷ってばかりの時だったんです。そんな時に、彼女が言ったんです。私の好きな、竜胆の花言葉を贈るね、って」
「……」
「その言葉を貰った時、今まで自分が何も出来ずにもがいてばかりだったけれど、何かしたい、何かしなくちゃって、ちょっと勇気が出てきた。それからいつだって、彼女はその言葉通り、僕を励ましてくれて……」
「……」
「はは……でも結局、僕は彼女と秋を迎えられなかったんで、二人で竜胆を見ることはなかったんですけどね。でも――何となく、その時の言葉が頭に残ってて――何て言うか、お守りみたいなもの、なのかな。竜胆の花言葉を聞くと、何だか、7年前、頑張ろうって思えてた時の気持ちになれる気がして……」
「……」
「――えっと、それから……」
僕はたどたどしくも、何だか珍しく、自分の内面を言葉にしようとしたけれど。「――社長?」
トモミが首を傾げた。
「……」
僕の言葉が詰まると同時に、僕の胸の奥が、空気が膨張したかのような息苦しさに包まれて――
僕の視界の真ん中にある、目の前の竜胆の花の青紫色が、滲み出した。
僕は泣いているんだと気づくのに、数秒かかった。
「……」
――話していて、気付く。
いつも彼女は、僕が苦しい時、いつも一番欲しい言葉をくれた。
僕は、自分にそんな優しい言葉をくれた女を――そう言って、僕に微笑みかけて、手を握ってくれて――抱きしめてくれた女を殴り、捨てたのだ。
それを捨ててまで、僕は家族への復讐を選んだ。僕の力で、惨たらしい裁き――死を家族に与える道を。
でも――彼女を捨ててまで成した復讐は、僕に何をもたらしたのか。
僕の一番欲しかったものは、本当にそんなものだったのか。
今でも、あの時の彼女のように、僕にせめて一言だけでもと、救いを求めてしまっているのに。
そう考えたら、胸の中を果てしない喪失感が突き抜けて。
悲しいのか、寂しいのか、久し振りにそんな感情を思い出して、涙が溢れてきた……
「――もう、いいですよ……」
そんな僕を見ていたトモミが、力なくかぶりを振りながら、僕に自分のハンカチを差し出した。
「――そんなの見せられたら、もう……」
そこでトモミも言葉を詰まらせた。
「あ……はは……すいません。時々思い出しちゃって……」
「……」
いけないな――まだ僕は、シオリのことを、きっぱり割り切れていないのか。
ユータやジュンイチからは、いまだに時々手紙が来るけれど、シオリからはあれから7年、一通も手紙を含め、一切の連絡もない。
これだけ僕のネームバリューがあるなら、僕が今日本の、東京のどの街で働いているかさえ分かるはずなのに、それでも音沙汰がないのは、もうシオリにとって、僕はもう、乗り越えた過去――彼女の今の平穏に不必要な存在ということ。
悲しいけれど、それが現実なのだ。
だけど今の自分はそれなりに目立つ身だ。シオリは多分、この世界のどこかで、いやでも僕の挙動をメディアを通して少しは知ることになるだろう。
もしかしたら、僕の顔なんて、もう二度と見たくないかもしれないのに――だ。
だとしたら、せめて彼女が僕を見て、不快に思わないような人間でありたいとは思う。7年前、彼女が願ってくれたような男になって、あの時言えなかった彼女への感謝の気持ちくらいは、自分の行動で証明したかった。
それが今の僕に出来る、彼女へのせめてもの償いであり、思いやりだと思った。
だが、それ以上の気持ち――昔のように、それを『愛情』だと思ってはいけない。
『感謝』は報われなくてもかまわない、自発的なものだけれど、『愛情』は、抱けばそれが報われてくれることを願ってしまう。
僕が彼女に勝手な『愛情』を抱き、それが報われたいと願ってしまえば、僕と距離を取ろうとしている彼女の今の生活まで壊しかねない。
今の僕は、一度ならず二度までも、自分の感情ひとつで彼女の幸せをメチャクチャにしかねない。彼女にとっては、死神のようなもの。
だから――彼女への想いは『感謝』までに留めないといけない。
自分の気持ちが報われようなんて、考えてはいけないんだ。