Real
社長室に入ると、エイジが既に今日の業務に取り掛かっていた。
「おぉ、ケースケ。久し振りにお前が8時半出勤か」
僕達が入ってくると、エイジはパソコンに落としていた視線を上げる。
「お前、財界のパーティーは嫌いだから、昨日も早々に帰ったんだろうし、どうだ? 久し振りによく眠れただろ」
「――まあな」
僕は後ろにいるトモミのことをあまり考えないようにしながらそう答えた。
僕は自分の机の上に鞄を置くと、そのまま作業室の鍵を開けて、その中に保管していた、今日ベルギーへと持っていくアクセサリー一式をジュラルミンケースに大切に入れた。この作業室は、本社で雇っているビルの清掃業者も立ち入らない、この会社で最も厳重なセキュリティを誇っている。ここに置きっぱなしなのが、一番安全なのだ。
「社長、窮屈でしょうけれど、今回の出張には、SPをつけてありますからね。もう運転手さんと一緒に待機しているそうです」
僕がケースを持って外へ出ると、コーヒーを淹れているトモミが言った。
時価80億相当の宝石類。おまけに僕がベルギー行きの便に乗れば、王家の結婚式のプロデュースをしていることが知られている以上、格好の狙い目である。さすがにこれをひとりで持ち歩くには、万一の可能性も否定できないから、当然ボディーガードを雇う。
「何も言ってないのに、さすがですね」
トモミは指示を待って仕事をするタイプではない。彼女の行動力と機転があれば、一般業務に就けば、たちまちエースになってしまうだろうに。僕なんかの秘書なんてさせておくのは勿体無いとさえ思う。
何でこんな彼女が、僕の部屋に来ては、色々と世話を焼いてくれるのだろう……
「じゃあエイジ、留守の間はよろしく頼むぞ」
僕はエイジの方を見た。
「一応留守の間、困ったことがあれば、ここにいくつか指示を書いておいたから。ここにない事案だったら、いつでもメールでもしてくれ」
そう言って、僕は自分のスーツのポケットから、USBを取り出す。
「たった2、3日だろう? 大袈裟だな」
エイジはUSBを受け取りながら、僕に苦笑いを見せた。
「まあ、お前と俺じゃ、戦闘力に大きな差があるから、お前が心配するのも無理ないのかも知れんが」
「……」
「はい、どうぞ」
話している間に、トモミが僕とエイジのコーヒーカップを持ってきてくれた。僕とエイジはそれを受け取る。
「――エイジ」
僕はカップを持ちながら、自分のデスクに寄りかかるように立って、エイジを見た。
「能力の差なんて問題じゃない。自分の能力を客観的に見られる方が、ずっと大事さ。英雄思想も結構だけれど、それは独断先行と紙一重だからな。誤解も生まれやすいし、視野も狭くなる」
「……」
「グランローズマリーも随分短時間ででかくなった。急成長した分、まだまだ不安定な部分も多い。これからは別に英雄思想よりも、より現実的な視点で、広く視野を取って動かないといけない。そしてエイジ、お前はそんな視野を持つ素質を持っている。それがお前のいいところだと思うぞ」
そう言って、僕はコーヒーに口をつける。
「だから、そろそろ最後の大喧嘩だ。さっさとグランローズマリーが、英雄なんてもてはやされる段階を終わらせるためにもな。僕が日本に帰ったら、仕掛けるぞ」
「おぉ! 相手はどこだよ?」
エイジがいきり立つ。
「USBに書いてある。喧嘩のシナリオもな」
僕はエイジの手元を、開いている左手で指差した。
「大喧嘩……」
エイジとは裏腹に、トモミは少し不安そうな顔をする。
「残念ながら、その相手は僕に喧嘩を売っている。出来れば僕も争わずに共闘できればと思っていたが――待っていても、いずれ衝突は不可避だろうからな。だったら、疾きこと風の如く――だ。うちの旗印のひとつに従って、決着をつけさせてもらおう」
事業の心得として、グランローズマリーは、武田信玄の旗印『風林火山』を掲げている。
「この喧嘩が終わったら、グランローズマリーの急成長はひとまず終わりだ。外は敵だらけ、中も人材不足の内憂外患だったけれど、この喧嘩に勝てば、とりあえず外部からうちに迂闊に手を出せなくなるからな。ゆっくり人材育成に専念できる」
「――成程、じゃあ俺は、お前が帰ってくるまでに、その準備を整えておけばいいんだな。他の社員にも通達して、意思の統一をしておけ、と」
「――その通り。流石に2年副CEOとして仕事してきただけあるな。お前も随分成長してる」
そう僕が言うと、エイジがへへ、と笑った。
「だが、外部に情報をリークされると面倒だからな。出来る限り慎重に、隠密裏にことを進めるんだぞ」
「わかってるよ」
するとその時、トモミのデスクに置いてある電話が鳴った。トモミが電話を取る。
「はい、社長室――はい、はい、分かりました」
一度トモミは受話器を置く。
「社長、お電話です。帝国グループ会長様から」
「あぁ……」
僕はカップを自分のデスクに置いた。
「僕の電話につないでください」
そう言って、僕は自分のデスクの受話器を取った。
「もしもし――はい――はい、ええ。出張が控えていて、あまり時間が取れませんが、それでよければ――ええ、はい、じゃあすぐに」
僕はすぐ受話器を置く。
「リュート」
僕は部屋の隅に待機していたリュートに声をかける。リュートはその声に反応して、僕の側へ寄ってくる。
「どうやら出張前にゆっくりしたかったんだが、そうもいかなくなったみたいだ。もう出ます」
僕は鞄とケースを持って、軽く首を動かした。
「二人とも、僕がいない間は業務もそんなにはないんだから、デートでもしてきたらどうだ?」
「は!」「は?」
トモミとエイジが素っ頓狂な声を出す。
「な、何でこんな奴と!」
「――勘弁しろよ」
二人はあからさまに嫌そうな顔をした。
「――僕は結構、二人はお似合いだと思ってるんだけど」
僕は言った。こじ付けではなく、本当にそう思っている。
エイジも見ていると、トモミのこのさっぱりした正確に厚意を威だいるのだと思うし、トモミだって、昨日話を訊いた限りでは、エイジに表向きでは憎まれ口を叩いているけれど、心の中ではエイジのことを認めていた。
「……」
だけど、僕のその一言で、二人は一転、呆れたような顔になる。
「自分の身の回りのことに気付かないくせに、何で他人のことに気を回すんですか!」
「――恋愛偏差値ゼロの奴がそんなこと言っても、説得力ねぇよ」
「やれやれ――剣呑、剣呑。以後気をつけるよ」
僕は肩をすくませて、踵を返しかける。
「あ、あの、社長」
その時、トモミが僕を呼びかけたので、僕は足を止めた。
「――お気をつけて」
トモミはしっかりと僕の目を覗き込んでいた。
「ええ、トモミさんも僕の留守中、最適の幸運を」
それから僕は車で帝国グループ会長の家に向かった。
車の中は運転手と、助手席、そして後部座席に座る僕の両隣に強面のSPが座っていて、何ともいかめしい空気に満たされていた。運転手もやりにくそうな顔で運転をしていた。
屋敷に着くと、僕とリュートだけが降り、運転手とSPは残った。アクセサリーの入ったケースも勿論車に残した。
昨日と同じ、執事長やメイドが既に僕を待っていて、僕の姿を確認するなり、慇懃に僕を屋敷の中へ通した。
「リュート、お前はここで待っていろ」
僕はリュートを玄関で待機するように伝えた。
執事長に連れられて、僕は屋敷の一室に通された。
「おぉ、サクライくん。まあ座りたまえ」
爺さんは洋室で既に待っていた。上等のソファーに腰を下ろしている。上等のペルシア風の絨毯に、近代の値打ち物の絵画、壷など、お宝が満載の部屋だ。この部屋じゃ、僕が車に置いてきたアクセサリー類も、このコレクションと同じ、有象無象のひとつになってしまう。
いやはや、金ってのはあるところにはあるものだ。これを個人に留めておくよりも、宝石という手段で僕が回収し、再分配を促せば、人はもっと豊かな生活が送れる――そう思って、グランローズマリーを作った僕は、そのときは本当に、これで弱き人の正義の味方になれると思っていた。かつての友と誓った道を、ようやく歩けると思っていたけれど……
テーブルの上には銀の深めのボウルがあって、その中には氷水と一緒に、シャンパンのボトルが突っ込まれていた。爺さんはそこからワインボトルを引き抜いて、僕にロゴを見せた。フランスに在住経験があるから知っている。これはフランスの正当な製法で作られた、本物のシャンパンだ。
「君も少しどうだい」
「――こんな時間からですか?」
まだ朝の9時を回ったばかりだった。
「儂も会長なんて呼ばれてはいるが、事実上はもう隠居した身じゃ。こうなると、暇を持て余しておってな。楽しみといえば、酒と女と、孫のことくらいでな」
「……」
これは牽制だろうか。
ここに呼び出された理由は、十中八九、昨日のレナとのことだろう。そんなのは馬鹿でも分かる。だが、この爺さんが僕にどんな手を打つかは、いくつか選択肢がある。僕はそれを慎重に見定めなければならない。
――でも、心のどこかで、まあいいか、とも思っていることも確かだ。この爺さんに殺されるなら、それもある意味僕の本意ではある。
僕も爺さんの向かいのソファーに腰を下ろす。
「1杯2杯なら、ご相伴に預かります」
「そうかね」
僕の言葉を確認すると、僕を案内してきた執事長が、爺さんからボトルを受け取って、シャンパンを開けた。破裂音が響く。
側に置いてあった、二つのシャンパンフルートに、シャンパンを静かに注ぐと、爺さんは執事長に、下がっていいと言った。執事長はそれを訊いて、僕の前にフルートを差し出すと、深く会釈をして、部屋を出て行った。
部屋に僕と爺さんの二人が残される。
「ふふふ」
爺さんが僕を見て、不適に笑った。
「今君の頭は、儂の出方を窺うことにフル稼働しておるな。そして君はもう既に、6つか7つの候補と、それぞれ合わせて20前後の対処法も既に考えておる」
「……」
ご名答だった。
「まあ、そうしゃちほこばることはない。このシャンパンがなくなるまでは、いかにシャンパンを美味く飲めるかに没頭したいのでな。ほれ、まずは乾杯しようじゃないか」
そう言って、爺さんはフルートを僕の前に差し出した。確かにこの上等のシャンパンを血生臭い話を肴に不味く飲むのは、あまりに不毛だ。爺さんの意見の方が建設的だと思うことにした。