Regress
喉に引っかかった言葉を飲み込もうとしたが、次々言葉が湧き上がって、踏みとどまれなかった。僕は鼻を押さえた手を外し、まるで嘔吐するように叫んだ。それは怒りの嘔吐だった。胸にくすぶる、染み付いた恐怖を払拭するように、僕は鼻を押さえる手を離し、腹の底から声を絞り出した。
「馬鹿にしやがって!」
きっ、と顔を上げ、久し振りに喉の奥から怒鳴った。もう鼻血は止まっていた。
「今まで家族をほったらかして勝手にしてたのは、あんたじゃないか! だけどこっちはテメエの人生は勝手にしろって言われても、自分ひとりじゃどうしようも出来ないんだ! だから・・・・・・嫌でもあんたに頼るしかないんだ! 必死に努力して、高校で結果を出しても、他に住むところなんかないから、殴られてもあんたに頼るしかないんだ!」
もう限界だ。だけど――こんなみっともないことしか言えない、今の自分の無力さに腹が立つ。
この豚野郎を殺してやりたい。八つ裂きにして、肥溜めに叩き込んでやりたい・・・・・・
目の前の親父は、僕の言葉の裏に潜む恐怖心を見抜いているのだろう。気をよくしたらしく、狂的な目のまま、うすら笑っている。その親父の顔が、僕の怒りを更に加速させる。
「俺は普通に暮らしたいんだ! 俺が生まれる前から、この家はメチャクチャなのに 何で俺が、生まれる前からこじれてるもので苦労しなくちゃいけないんだ! どいつもこいつも誰かがどうにかしてくれるみたいなツラしやがって! 俺はもう17なんだ! 自分のことで精一杯なんだ! 俺を巻き込むな! 俺には俺の人生があるんだ!」
一通り怒鳴り終わると、背中から、扉の開く音がした。僕の怒声を聞いて、小太りの妹が部屋の扉を開けて、リビングに戻ってきた。
「あのさぁ、うるさいんだけど」
不満げにそう言った。
「黙ってろ雑魚! お前みたいな馬鹿、相手にしてないんだ。すっこんでろ!」
人生に何一つ苦労のない妹。頭も悪く、行動力もゼロ、ただ胡坐をかいて、周りを批判するだけの古狸。この古狸は何も考えずに生きているんだ。自分の平穏は当然のことだと、わがまま放題に生き、僕という『盾』の陰に隠れて、どんどん増長して、肥え太るだけの古狸だ。
この古狸女の、五月蠅い、という意見だけで、僕の怒りは止まらなかった。
しかし、睨みつけた先の妹の目は、本当の軽蔑の念を僕に送りながら、こう吐き捨てた。
「バカみたいだね。一人でヒステリー起こしちゃってさ、あーみっともない。こんなのが兄貴なんて恥ずかしいよ。お願いだから、早く家出て行ってよ。ウザいし、イタいんだよねーあんた見てて」
妹は声を作って嘲笑し、もと来た道を引き返して行った。自分の部屋に入る時、勢いよくドアを閉める音がした。今度僕のパソコンを持ち出した時、妹は全国の人間に僕の悪口をネタにして、他の甘ったるい幻想から抜け出せない小市民と、下卑た笑いを貪る姿を想像した。
妹の言葉が棘のように深く突き刺さって、抜けない。歯噛みをして、地団駄を踏みたい衝動を必死で抑えようとしていると、いつの間にか母親が、僕の前に立っていた。
「妹にまでああ言われるとはねぇ。頭のいい子だと思ってたけど、どうしてこんなになっちゃったんだろ? 小さい頃から高い金を払って損したよ。私もアンタのことなんか、もううんざりだよ。疲れた」
――黙れ、黙れ黙れ。
金でいいように飼い慣らされて、自分のストレスを、僕にぶつけることで、憂さを晴らしてきた上、愛情や人間らしさはこれっぽっちもなかった女狐が、聞いた風な口を叩くな。
静かに激昂する僕に、母親は、僕に嘲笑しながら、とどめの一言を吐き捨てた。
「アンタっていつも私達のことを批判してるけど、アンタだって十分クズじゃない? アンタが正しいって言うなら、どうしてアンタには、一人の味方もいないわけ? アンタがクズだからでしょ」
その言葉を母親が切ると、親父が一歩乗り出して、波状攻撃とばかりに吐き捨てた。
「親に逆らうなら、こっちもお前潰すぜ? 自分の力の身の程を知れ、クズがよぉ」
その言葉を聞くと、僕は鞄を担ぎ上げ、逃げるように部屋に帰っていった。後ろで親父の高笑いを背負いながら、部屋に入り、電気もつけずに、鞄を床に叩き付け、そのままベッドに倒れこんだ。仰向けに倒れ、右腕で目頭を抑えた。もう、何も見たくなかった。
本当は涙を流したかった。でも、ああ、という、震えた声が漏れただけで、涙が流れなかった。もう慣れてしまったのだろう。それとも、こんな時でさえ、僕の心は冷め切っているのか。
泣けないって、すごく辛い。吐き出したいものがいつまでも胸に残るから。
殴られることは、もう慣れている。だけど、その後に家族から順繰りに浴びせられた一言は、親父の裏拳なんかよりも、はるかに堪えた。
そうだ、その通りだ。僕は、あの家族を正面から否定できるほど、立派な人間なのか。
そうじゃないだろう。奴等がいくらクズでも、僕はそれ以前の問題だ。誰からも好かれてはいない。誰一人の味方もいない。社会に貢献しているわけでもない、ただの『穀潰し』だ。ただ、金を喰って生きているだけの『穀潰し』に過ぎない。
言わずにはいられなかったけれど、そんなこと、もっと先にわかっていたことなのに。
何で言葉が殺されてしまうのだろう。間違ったことをしているわけではないはずなのに、どうして誰も僕の言葉に耳を傾けてくれないのだろう。どうして僕は、発言権さえ奪われてしまったのだろう。叫べば叫ぶほど、滑稽になってしまうのだろう。
そして、僕は全てを踏みにじられ、なすがままに殴られた。抵抗も出来ずに。
抵抗できなかった。僕の人生は、あいつらに握られていることを、あれだけ訊かされてしまっては。自分の反抗の無力さに、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。
「ちくしょう・・・・・・ちくしょうちくしょう」
自分の無力さに腹が立った。世界で一番嫌いな奴の掌の中で生きなきゃならない運命が憎かった。
こんな夜は、無性に人恋しくて、ユータ達のことが頭に浮かんだ。
ああ、きっと奴らは今頃カラオケで皆と盛り上がってるんだろうな。今日くらいは僕も気分よくいたかったのに――あの時僕も行くと言っていれば、こんな気分にはならずに済んだかもしれないのに。こんなすさんだ気持ちのままでいなくて済んだのに。
こんな気持ちは、花火大会の帰り道みたいだ。真昼のように夜空を、音と共に彩った花火に、心躍らされても、それが終われば、すぐに暗黒と静寂の暗闇が待っている。帰る頃には、その暗闇の中を、とぼとぼ一人ぼっち・・・・・・
栄光が見えかけた今日くらいは、いい気持ちのままでいたかったのに、監督からは自分勝手と言われ、親からは、クズの烙印を押され、妹からは、バカみたい、と嘲笑された。
そうだ、その通りだ。僕は、馬鹿みたいだ。あれだけ頑張って、それでも叩き潰されて。
イイジマにも、妹にも、母にも、僕は反論できなかった。そして最後は、親父に殴られ、思い知らされた。絶対に僕の力では、覆せないものがあること。
そして、僕はクズだったんだ――何だかんだ言っても、僕が認められないのは、全て自分のせい。この、乱れきった、醜く汚い心のせいだ。
わかっていたんだ。自分がクズだということは。それを認められなかっただけで。
僕はこの家の人間以下だというのか。あいつらに虐げられて当然のクズなのか・・・・・・
――Regress or progress ?
僕は、進化しているのか、退化しているのか――サッカーでのあのプレーも、進化だと思ったものは、退化だったのか? それだけじゃない。僕の人生そのものが、退化へ向かっているのか? あの努力は無駄だったのか? 小学校の級友に吐き捨てた言葉のように、僕も、クズに過ぎないのか?
前に進んでいるのか、それともただ追い詰められているのか、答えが出ないまま、夜の牢獄が、幸せを取り逃がした僕の無能振りをあざ笑うかのように、孤独の傷を抉った。
過去の後悔や、全ての憎しみが煮えたぎっていると、精神が、殺伐な心から逃れたかったのか、心と体が相当疲れていたのか、その日はそのまま眠ってしまった。




