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Secretary

 そう言ってトモミは、僕をテーブルに促した。僕がソファーから立ち上がって、テーブルの前に着くと、実に美味しそうな料理が並んでいた。ゆで卵とマヨネーズを和えたものとハムを挟んだタマゴサンド、クリームチーズにバナナやイチゴを挟んだサンドイッチ、緑の鮮やかな小ぶりのサラダに、自家製イチゴジャムの鮮やかな赤の映えるヨーグルト、湯気の立ち上る、オニオンコンソメスープ。トモミの淹れてくれたコーヒー。見た目にも色とりどりで、贅沢な感じがした。

「おぉ」

 僕はトモミの方を見る。

「――別に、昨日助けてもらった分、お礼しなくちゃ、と思って。それに、社長ここ数日、昨日のパーティーも含めてほとんどまともな食事を取っていなかったし、今日出張に出たら、またきっと適当な食事で済ませちゃうと思ったから、出かける前にせめてちゃんと食べさせなきゃ、って思っただけですよ」

 トモミは照れくさそうに目を背けた。

「いや、でも、嬉しいなぁ」

 別にお世辞ではなく、本当に嬉しかったから、そう言った。

「……」

 トモミは黙ってしまう。

 僕が椅子に着くと、トモミは僕の向かいに座った。いただきます、と言って、僕はタマゴサンドに口をつけた。

「――美味しい」

 僕は呟いた。

 本当に美味かった。最近は何を食べても無味無臭で味気なさしか残らなかったのに、久し振りにまともな味を感じた。

「そ、そうですか」

 少し心配そうに、だけど切実そうにその様子を見ていたトモミが言った。

「ええ、とっても美味しいですよ。何だか少しおなかが空いてきたな――もっと貰ってもいいですか?」

「ど、どうぞ」

 トモミは僕から目を背ける。何故か頬がちょっと赤い。

「ありがとうございます」

 僕はそんなトモミにお礼を言って、もうひとつサンドイッチに手を伸ばし、それから目の前にある料理をどんどん平らげていった。

「――そんな喜ばれると、また作ってあげたくなるじゃない……」

「え?」

「あ、あの――な、何でもないです」

 何かトモミが言った気がしたけれど、トモミはそれを否定した。

 顔を上げた僕は、温かいオニオンスープを飲み込んで、サラダに手を伸ばしかけた。

「あ、あの、社長」

 だけどその時、今まで妙にもじもじして、僕から目を背けがちだったトモミが、僕を呼び止めたので、僕の手が止まる。

「あの――社長。もうあんな無茶なことで、喧嘩を買ったりしないでくださいね」

 トモミは言った。

「もし、そうなりそうなくらい、何かあるんだったら、少しくらい、私に愚痴とか言ってください」

「え?」

「私、仕事のことは社長の能力の一助にもなりませんし、男の人とか、財界の世界のこととか、よく分かりませんけれど――それくらいなら私にもできますから。社長はそう言うの、溜め込みすぎ、一人で背負い込みすぎだと思います。社長が回りに、自分の弱いところを見せたくないって思って、そうしていることも、私、分かっていますけれど、自分が望んでもいない喧嘩を買うくらいなら、愚痴とか言って、少しは吐き出してください。そういうの、一人で抱え込まなくたって……」

「……」

 まだ口に残る料理の味と、今の彼女の言葉が溶け合って、僕の思考は過去へと反芻する。

 ずっと前から――生まれた家庭が崩壊していると気づいた時から、ずっと思っていた。

 早くひとりで生きていきたい、自由になりたい、と。

 中学、高校と、ほとんどひとりで生きてきた。自分ひとり食わせるだけでいいひとりでの生活を、僕はすぐに気に入った。

 だから旅に出た時も思った。自分としては、これが自分の長年望んだ道で、ようやく自分は何にも縛られない、自由を手に入れたのかもしれない、と。

 それからも、ずっとひとり――ひとりぼっちで生きてきた。

 その生活は、とても身軽で気楽ではあった。

 だけど、酷く冷淡だった。生活を続ける度に、誰かに何も期待しなくなっていく自分に、酷く虚無感を抱いていた。

 そんな時に、彼女――トモミに出会った。

 彼女と出会って、僕の生活は変わった。

 何を、と言われても、一言では説明しきれないのだけれど。

 彼女と出会って、自分の今までの7年が、いかに乾いていたか、いかに孤独だったか――今までそんなことが気にならなかったのに、改めてそれを僅かに再認識した。

 多分彼女と出会わなければ、僕は今以上に退廃した生活に身を落としていただろうと思う。こうして予告もなく僕の部屋に来る時は、多少驚くけれど、こうして彼女と朝食をとり、彼女に促されてシャワーを浴びたりする時間は、今となっては僕の生活の中で唯一の人間らしい時間でもあった。

 トモミと出会って、僕は7年振りに、こんな時間を僅かに手にすることができるようになった。

 だけど――

 トモミが自分を心配してくれる。その厚意を僕はどう扱っていいのか、僕は今も迷っていた。

 僕自身は、自分自身を痛めつけ、自分が力尽きて死ぬ概観を作ろうとしている。それは、トモミの厚意とは正反対のベクトルをたどる行為だ。

 こうしてトモミの厚意を受け取ることは、同時にトモミの気持ちを大きく踏みにじっているということでもある。だからこそ、ずっとこんな時間を受け取り続けていいのかと、僕は迷っていた。

 トモミは僕の考えを知らない。だからこそ、今でも僕にこうして色々と世話を焼いてくれる。その純粋な気持ちを無碍にするのが気が引けて、今もこうして僕はトモミの気持ちを享受する生活を続けている。トモミの行動に、いまいち僕が否定的になれないのも、多分そのせいだ。

 今も迷っている。こんなことを言ってくれた人に、今の僕はどうすればいいのだろう、と。

 ただ――

 彼女の言葉は、一人の人間としてならば、とても嬉しい言葉だった。そんな彼女の言葉を、いつでも頭の片隅には置いておきたいと、何となく思った。

「トモミさん」

 僕はトモミの目を覗き込んだ。

「――ありがとう」

 僕は一言、そう告げた。一人の人間として、僕は彼女に心をこめてお礼を言った。それが今の僕に出来る、彼女の厚意への最大の礼だと思った。

「う……」

 だけどトモミはそんな僕から、また目を背けてしまう。

「あの――さっきからどうしたんですか? 僕から目を背けて。僕、何か失礼なことでも、したのかな……」

「……」

 トモミはしばらく、口をつぐんだ。

「――頼むから、そんな捨てられた子犬が拾われた時みたいな目をしないでくださいよ」

 消え入りそうなか細い声で、トモミはそう漏らした。

「え?」

「――そんな目をされたら、何も言えなくなっちゃうじゃない……バカ……」

 何かトモミが言った気がしたけれど、それは僕の耳には届かないほどの小さな声だった。

「?」

 僕は首を傾げつつも、そのまま料理を平らげた。

「はぁ、ご馳走様です。久し振りに満腹だ」

 僕は自分の腹を手でさすった。

「そ、そうですか」

 トモミは頷いた。

 僕は自分の使った食器を流しへと持っていった。

「いいですよそんなの、私、やりますから」

「ご馳走になってばかりじゃ悪いですし、洗い物くらいやりますから、トモミさんは座っていてください」

「――じゃあ私、もう一杯コーヒー淹れますよ」

 トモミは言った。

「今日、お仕事ないですし、飛行機もお昼からですから、時間ありますもんね」

 そう言って、トモミは立ち上がる。

「……」

 洗い物をしながら、僕は昨日、この流しで自分に対して嘔吐していた時のことを思い出していた。

 あの時と比べると、何だかトモミの言葉で、随分と気持ちが軽くなれたような気がする。

 そう思って、僕はリビングのコーヒーメーカーで豆をひいて、コーヒーを淹れるトモミのことを、システムキッチンの中から窺った。

 すらりとした体に、女性的な体のライン、すっきりとした顔立ち、髪はあまり長くなく、自然な美しさを引き立てる、薄いメイク。

 彼女も十分、街を歩けば男が振り向く女性だよな――エイジが惚れるのも無理はない、かな。

「――あの、社長」

 ふと、トモミが僕の方を見ずに言った。

「え?」

 僕は返事をしながら、女性をじろじろ見てしまったことを責められるのかと、少し焦った。

「あの――差し出がましいですけど、もうそろそろ、社長、あのお二人に会いに行ってもいいんじゃないでしょうか」

 トモミは遠慮がちに言った。

「あの二人?」

 僕は訊き返す。

「ヒラヤマ・ユータさんと、エンドウ・ジュンイチさんですよ」


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