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Sin

「はっ!」

 僕はそこで、がばと飛び起きた。

「はあ……はあ……」

 やっぱり今日はあの夢を見た――夢だと分かっていても、いつも後味が悪い。

 動悸のように心臓が細動していた。

「――びっくりしたぁ」

 ふと、僕はそんな声を耳にする。

 僕は声の方を振り向くと。

 システムキッチンの中から、僕の方を見る、秘書のヨシザワ・トモミがいた。

「いきなり飛び起きるから、びっくりしましたよ」

「……」

 ――それは普通、起きたら女性が部屋に来ている状況だった僕の台詞だ。

なのにちっとも僕は、この状況に驚いていない。デジャブに襲われているだけで、この状況に慣れきっている自分に酷く違和感を覚えた。

 ――しかし、今日ここにくるとは思わなかったな。

 ――その時、ふと自分の周りを見ると、僕は今、自分の部屋のソファーの上にいることに気付いた。

「……」

 ああ、そうか、昨日レナが出て行ってから、僕は酷い吐き気に襲われて、一通り吐いた後、もう連日の徹夜と疲労でもう動けなくて、ぐったりしているうちに、いつの間にかこのソファーで眠ってしまったのか。

 でも、僕の体には、タオルケットがかけられている。昨日僕はこれをここに持ってきた記憶がないのに。

「――これ、トモミさんが?」

 僕はタオルケットを軽く持ち上げる。

「何でソファーで寝ていたんですか? まだ蒸し暑いですけど、いくらなんでも風邪をひくと思って」

「――すみません」

 僕はタオルケットに目を落とす。

「――しかし、今日もいらしたんですか」

 リビングの窓から差し込む光の具合を見る限り、今は朝の7時くらいだろうと思われた。

「昨日社長に持っていった服、パーティー会場に用意してもらった貸衣装ですから、返しに行かなくちゃいけないんですよ。でも社長はお昼には出張ですから、取りに来たんです」

 トモミは言った。

「――何だ、それならメールでもしてくれたら、持っていったのに」

 僕はそんなことでトモミに足労をかけたことを申し訳なく思い、そう言った。

「……」

 しかし、トモミはその言葉を訊いて、少しだけ沈黙し、言葉を咀嚼した。

「――それもよかったんですけど、昨日、どうせ社長、あの後あのお嬢様の前でヘマをして、どーんと自己嫌悪しているでしょうから、ついでに様子を見に行こうと思って」

「え?」

「……」

 沈黙。

「あぁ……」

 僕は少し寝癖の付いている後頭部に手をやる。次の言葉に困ったのだ。自分から昨日の行動に言及するにも、何と言えばいいのか途方に暮れた。

「昨日は随分ご活躍でしたねぇ」

 トモミが僕に、眉をひそめるようにして言った。随分毒のある言い方だった。

「……」

「どこの少女マンガのイケメンですか。天然ジゴロのサクライ・ケースケさん?」

「……」

 酷い言われようだった。

「――見てたんですか、やっぱり」

 着替えを受け取った時の反応で、何となくそれは推し量れたけれど。

「……」

 トモミは冷ややかな視線を僕に向けている。

「あの――怒ってるんですか?」

「――べ、別に」

 トモミは平静を装う振りをしながらも、声が少しおかしくなっていた。

「――すいません」

 僕は何となく謝った。

「――ふう」

 トモミは、凹んでいる僕を見て、息をついた。

「――ま、いいんですけどね。社長があんなことしたの、ただのパフォーマンスだって分かってましたし」

 そう言って、トモミは僕の目を覗き込む。

「あのパーティーの参加者に、一泡吹かせたかっただけでしょう? 特に、社長を水に落とした人達に」

「え?」

 僕はどきりとする。トモミには、僕が酔って足を滑らせて、池に落ちたと説明したのに。

「分かりますよ。社長はお酒あんまり強くないですけど、限度はわきまえてますから。お酒で態度が大きくなるとか、千鳥足踏むとか、そういうのあんまりないですし。仮にそういうのがあったとしても、社長が酔って足を滑らせたのなら、あの時リュートくんまで濡れていたのはおかしいですから」

「――成程」

 僕は感心してしまった。見事な洞察力だ。女の勘ってやつだろうか。侮れないものだな。

「別にそんな感心したような顔しなくてもいいですよ。社長って、嘘が下手ですもん。簡単に分かりますよ」

 淡々とトモミは言った。

「……」

 ――あぁ、だからあの時。

 おろしたての上等のタキシードを台無しにして、僕はトモミに「バカ」と言われると思っていたのに、あの時彼女はそれを言わなかった。僕があのボンボンどもに絡まれてああなったのだと、彼女も見抜いていたからか。

 あの時の彼女は、僕に「バカ」一回分、サービスしてくれたというところか。

 そしてその直後、僕はレナにパーティー会場でキスをした。その一回分のサービスを帳消しにして余りある愚行――大馬鹿野郎の所業だ。

 ――成程、今の彼女が怒るのも無理はない、か……

「――でも、トモミさん、あれを見て、今日この部屋に来るなんて、勇気ありますね」

 僕は言った。

「もしかしたら、僕とあのお嬢様が、この部屋でお楽しみ中だったのかもしれないのに」

 そう、さすがにあれを見たのであれば、普通今日この部屋に来ようとは思わないだろう。僕が今日、トモミが来ることをまったく想定していなかった理由はそれだった。

 でも。

「顔にビンタの痕つけてる人が言っても、説得力ないですよ」

 トモミにそう言われた。

「え?」

 僕はそう言われて、思わず昨日の夜、レナにビンタされた頬を触った。

「ふふふ……」

 トモミは、してやったり、といった感じに、勝ち誇って笑った。

「そんなのないですよ。あんなシャンパングラスより重いもの持ったことないってお嬢様が、本気で殴ったって、痕なんて残りませんって」

「……」

 僕はちょっと凹んだ。これでは僕がレナにビンタされたって、白状したのと同じだ。綺麗にはめられた。

「それに、社長がそんなことが出来るなら、うちの会社はとっくに帝国グループに吸収されて、社長は帝国グループの次期会長になってますよ。それどころか、彼女が何人もいて、ハーレムなんか作ってるでしょう?」

「……」

 返す言葉もなかった。完全に僕はトモミにグチャグチャに丸め込まれていた。

 僕は天井を仰いだ。もう自分は今、完全にトモミにとって、俎《まないた》の鯉だ。どんな言葉も甘んじて受けようと、観念したのだった。

「――はぁ」

 トモミの溜め息。

「私がちょっとカマかけただけで、こうもバカ正直に、自分がビンタされたことをゲロっちゃうなんて――本当、すぐ騙されちゃうんですね、社長って」

「……」

「こうしていると、社長が寡兵を以って、たった2年で財閥クラスの企業を作り上げた、稀代の深謀遠慮の持ち主だってこと、たまに信じられなくなりますよ。仕事から離れると、社長からは、仕事場での研ぎ澄まされた感じがなくなって――とても昨日、あのパーティーの会場で、財界の巨人全てを相手にあんなことをして、鮮やかに喧嘩状を叩きつけた人には見えませんね」

「……」

 死刑宣告を先伸ばすように、トモミの前口上が続くことに、僕は少しの息苦しさを感じていた。

「……」

 沈黙。

「社長、昨日はどうもありがとうございました」

「え?」

 針の筵のような気分を味わっている僕の予想していなかったトモミの言葉に、僕は視線を下ろす。

「ほら、昨日私がパーティーで、エッチなおじさん達に絡まれてた時、助けてくれたじゃないですか」

「あぁ……」

 僕は記憶を反芻する。

「私、あの時、すごく嬉しかったんです」

 トモミは本当に嬉しそうな顔で言った。

「――でも、何も出来ませんでしたよ。あの連中に、トモミさんへの非礼を詫びさせることも出来ませんでした」

 呆気に取られながらも、僕は後頭部に手を回して、何とかトモミにそう返した。

「いいえ」

 トモミは首を振った。

「あの連中は、まだ自分より立場の低い社長に正論言われて、社長のあることないこと蒸し返して、自分をみっともなく正当化していただけですよ。社長が昔、実の親を殺しかけたとか、社長のご家族が犯罪者だとか、そんなこと、自分達がしたこととは全然関係ないのに。悪いものは悪いんです。それだけのことですよ」

 強い口調で、胸を張るようにトモミは言った。

「それに――社長は私を助けようとしてくれました。だからああして、興の席でも私のところに、お嬢様を置いて、来てくれたんだと思いますけど」

「……」

 僕は思考を巡らせる。

 どうということはない。単に弱い立場の人間が、何も言えないのをいいことに、弱者の尊厳を蹂躙しようとする連中の横暴が見ていられなくて、体が勝手にそうしただけのこと。こう手放しに評価されると、何だかむず痒い。

「過去に実の親を殺しかけたって、自分の血に犯罪者の血が混ざっていたって、社長にだって、貫きたいものがあるんでしょう? 弱い人を少しでも救うために……そういう人達を、社長は放っておけないんでしょう?」

「――ええ」

 少し遅れて、僕は返事した。

「なら、それでいいじゃないですか」

 トモミは僕に、にっこり微笑んだ。

「え?」

「私は――社長は社長でいいと思います。社長が昔、どんな生活をしていたかは、私、ニュースとか、雑誌とかで見た程度のことしか知りませんから、偉そうなこと、言えませんけれど……人から昔のこととか、ご家族のこととかを言われても、社長は自分が正しいと思ったことに、胸を張っていいと思います」

「……」

「それに――社長は元々、人と争ったりするの、嫌いみたいですし、いくら人に喧嘩を売られたって、それを全部買うことはないんじゃないでしょうか」

「……」

 僕は怪訝に思う。

「――何故、そう思うんですか?」

 僕は疑問をトモミにぶつけた。僕の経歴に咥え、今まで僕のしてきたことを、秘書として、間近で見ていたトモミが、何故その結論に至ったのか、僕には分からなかったからだ。

「――さっきも言ったでしょう。仕事から離れた社長からは、鋭さがまったくない――リュートくんといる時なんか、すごく慈悲深い目をしますもの。とても理由がなければ、誰かと喧嘩するどころか、軽く叩くことだってためらうような人の目をしていますから」

「……」

「社長が戦うのは、いつも周りに巻き込まれた時だけ。今の環境が、社長を、戦いたくなくても、戦わざるを得ない状況にしているだけ――最近の社長は、そんな環境の中、買わなくていい喧嘩まで買っているくらい、戦いの渦に巻き込まれていますけれど、こうして仕事を離れて、一人の人間になっている社長は、とても争いを好む人の目をしていません。むしろ自分の力が他人の危害にならないようにと、なるべく慎ましやかに暮らしたいとしている人の目ですから」

「……」

 僕は心の中で、久し振りに誰かに対して感銘を受けていた。自分のことを、一人の人間と言ってくれた人に出会えたのは久し振りだったし、その人が僕の真意を見抜いたことに、酷く衝撃を受けた。

「……」

 そんな少し浮遊感めいた気持ちよさを感じていると。

 さっきまで寝起きのせいか、気がつかなかったが、部屋には何だかいい匂いが漂い、ぐつぐつという音がかすかに耳に聞こえてくることに気づいた。

「――いい匂いがする」

 僕は部屋を見回した。

 何だろう、この匂い。コーヒーは分かるけれど、それだけじゃない。

「朝ごはん、作ってましたから」

 システムキッチンの中のトモミは言った。

「さあ、テーブルへどうぞ」


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