Trauma
髪をタオルで拭きながら、無地のシャツとトレーニング用のポリエステルのズボンに身を包んでバスルームを出ると、レナはソファーから立ち上がって、窓の外の夜景を見ていた。
「すみません、お待たせしてしまって」
レナが振り向いたので、僕はそう言った。
「でも、お嬢様、あれだけ酔っていたのに、もうお加減は大丈夫なのですか」
それから僕はそう言った。
するとレナは、くすりと笑みを浮かべた。
「実を言いますと、私、はじめから酔っていなかったんです」
「え?」
「私、お祖父様にお酒は鍛えておくように言われているんです。女たるもの、男より先に潰れてはいけない。男を酔わせて、その男の本質を見極めるべし、酒の入った時こそ、その男の本質は見抜きやすくなるものだからって教え込まれまして。だからお酒はかなり強いんです」
「……」
やられた。あの爺さんの教えそうなことだ。
「――成程、じゃあつまり今夜、私はお嬢様に観察されていたわけですね」
僕は溜め息をついた。
「すみません。でも私、お祖父様に頼まれてしまったので。でも、私もずっとサクライさんのこと、気になっていたっていうのは、嘘ではないのですよ」
「……」
「お祖父様、今ではすっかりサクライさんにご執心なんです。初めて会った時から、サクライさんのこと、只者ではないって、久し振りに嬉しそうに語っていました。覚えていますか? サクライさんが、私達に初めて会った時のこと」
「――ええ」
それは2年前のこと。
レナが20歳の誕生日を迎えた時、僕はあの爺さんから、イヤリングやブローチ、ネックレスなど、一式500億のアクセサリーの大口注文を受けた。当時グランローズマリーは、エイジ達と基礎を立ち上げ、僕の作ったアクセサリーの利益で、多くの工場や会社をM&Aで吸収合併していた頃――まだ僕が、弱小会社のトップに過ぎなかった頃のことだ。
レナの誕生パーティーに、僕は招待され、そこであの爺さんやレナと出会った。
「お祖父様、あの時あなたをお試しになったのですよ。500億の金に見合ったものを、ちゃんと作ったのか、と、立食中にあなたにお聞きになって。普通の人なら、お祖父様にそんなことを言われたら、御機嫌を損ねたと平謝りするでしょうけれど、あなたは、誰が何と言おうと、私の献じた物は、500億の名に恥じないものです、と、堂々とお祖父様に啖呵を切りました。お祖父様はそれを見て、自分の無礼を詫びた上に、宝石の出来の見事さを、改めて褒め称えました。だけどあなたは、これも仕事ですから、と述べただけでした」
「……」
「まだ23歳のサクライさんの、その威風堂々とした姿に、お祖父様は唸っていました。そして、私達家中の者に予言したのです。彼はただの粋がるだけの子供ではない。王の資質を持つ男だ、と」
「……」
別にどうということはない。当時ヨーロッパでは名を上げていたが、日本では、まだ帰ってきたばかりで無名の僕を、財界の大物や、芸能人なども集まる孫娘の誕生会に呼びたて、そんなことを言い出した時点で、あの爺さんは、若造の僕に帝国グループの威を見せ付けて、脅かしてやろうと、そんな下卑た遊びに興じようとしていることに気付いた。
だが、僕はそうして弱者を玩具にする権力者というのが心底嫌いだった。誰もがお前に尻尾を振ると思うなと、そんな思い上がりに鉄槌を下してやろうと思った。それで自分が窮地に立たされ、爺さんに殺されても、僕自身は一向に構わなかった。爺さんに殺されても、自分の思いを立て通し、前のめりに死ねるのだから。
「……」
しかし、王か。
あの爺さんは、僕に甘さを捨てて、弱者に手を差し伸べたりなどせず、唯我独尊に覇道を進んで欲しいと願っているのだろうな。
そうして初めて、僕は帝国グループの味方に引き入れる価値が出るというわけだ。
僕自身はそんなもの、なりたくもないけれど。
「しかし、サクライさんは、自由な方ですね」
レナは言った。
「え?」
「この財界にいて、誰にも属さず、誰にも怯えず、誰にも囚われずに、自分のしたいことだけをやって生きている――そんなことができるのは、うちのお祖父様か、あなたくらいしかいないでしょうね。今夜そんなあなたと一緒にいて、私、思ったんです。前々から思っていましたけれど、あなたは私が今まで見てきた人とは全然違う。あなたと一緒にいれば、私、今までとは違う世界に行けるんじゃないか、って、思って……」
レナが悲しそうな顔をして、僕から目を背けた。
「……」
彼女が今までいた世界――それはおそらく、さっき僕が思い浮かべたもの。うわべだけの優しさ、慈悲も情けもなく向けられる無機質な優しさが溢れてはいるが、それと同量の嫌悪が混じっている。それが真綿で首を絞めるように、彼女に痛みを残していく、果て無き孤独に満ちた世界だ。自分を誰一人として、歳相応の女とは見てくれず、甘えることも、心から優しくされることもない、冷たい世界。
彼女は、そんな世界から、手を伸ばして……
そう、僕の思考が巡った瞬間。
レナはいきなり、僕の胸に体当たりをするように飛び込んでくる。飛び込んできてからも、レナは僕の体を後ろへぐいぐいと押していく。
「ちょ……」
完全に油断していた僕は、レナの押す力に体をよろけさせ、そのまま背中から、さっきまでレナが寝そべっていたソファーに二人で倒れこんだ。
「……」
僕の体と、レナの体が重なるように倒れた。レナは僕の背中に手を回して、僕の体を抱きしめている。彼女の胸が僕の肋骨に押し当てられているけれど、薄手の服と、レナのドレス越しからでも、その胸が激しく脈打っているのが分かった。
「……」
自分の部屋の天井を見上げながら、僕は呆然としていた、
「あ、あの……」
レナが声を出した。その声は震えていて、彼女が大きな決意と勇気を振り絞っていることは、僕にも伝わった。
「さ、サクライさん。あの――私、サクライさんと一緒にいたいです。サクライさんの生き方を、少しでいいから、私にください……」
「……」
そのレナの声は、どこか僕に救いを求めているかのようだった。
そんな言葉を僕は、天井を見上げながら、暗鬱とした気持ちで聞いていた。
「その代わり、私をサクライさんにあげます――」
「え?」
久し振りに僕の喉から、驚きの声が漏れる。
「ごめんなさい。でも、他に思いつかなくて……こんな頼みごと出来る人、あなたしかいなかったから。今でも、どうしていいか――どうしたら、あなたに私のこと見てもらえるか、分からなくて……」
「……」
――混乱しているんだ、彼女は。
金や権力を使わずに、人の愛情を求めたことがない。求めることも出来なかった。だから、自分を捧げてでも――
そうすることしか、思いつかなかった。それが間違っているのかもしれないと思っても、それでも救いや支えが欲しいと願ったのかもしれない。
「……」
沈黙。
僕はそんな混乱した彼女に、どうしてやればいいのか、自分なりに必死で答えを探していたけれど。
「――あの」
やがてレナは僕と密着していた体を少し起こして、僕の体を抱きしめたまま、僕の顔が見える位置まで顔を引いた。
「あの――キス、してもいいですか?」
「え?」
「その――今度は、もっとちゃんとって言うか、その……」
「……」
「……」
ど、どうすればいいんだろう、こんな時……
状況と、疲れと酒が相まって、僕の脳はもうろくに働かず、ただ考えがぐるぐると巡るのみであった。
そのまま10秒くらい、沈黙が続いた。
すると、レナがその沈黙に焦れてしまったのか、それともその沈黙を承諾と受け取ったのか、そのまま僕の首に手を回して、自分の唇を僕の唇に重ねた。
「……」
それはさっきドサクサ紛れにやったのとは違う、気持ちのこもったキスだった。残念な青春を送ったせいで、キスなんてほとんど経験がないのだけれど、それが分かった。
僕の体を抱きしめるレナの腕や、僕の体に触れている部分から、レナの体がどんどん熱くなってくるのが分かった。
だけど……
「――っ!」
ズクン――ズクン――ズクン。
僕の心臓は、その時誰かに揺り動かされているかのように、不自然に高鳴り出し。
その鳴動で体中が揺れ動いているかのような錯覚に陥る。
そして、まるでその蠕動が、脳を揺り動かして、過去からの記憶を引っ張り出してくる。
真夏の高校の教室で、うずくまる二人の男子生徒、その横で、大男を殴り飛ばす一人の少年。大男の血しぶきを受けて、少年は強敵に微笑み、止めの一撃を――
だけど、その一撃は大男に当たる前に、飛び込んできた一人の少女の顔を殴り飛ばした。華奢な体が吹き飛び、そのまま血に染まった床に、少女が倒れて――
――ズクン、ズクン、ズクン!
その映像がフラッシュバックした瞬間、僕の左腕に、先程とは比べ物にならない程、激しい痛みが走った。左手の指が吊りそうなほどに疼き、肩から腕にかけて、締め付けられるような痺れが起こった。
「くっ!」
僕は反射的に、右腕でレナの体を突き飛ばし、ソファーから飛び起きて、レナから離れた。
「はあ……はあ……はあ……」
呼吸が荒くなり、汗をかいていた。僕は体を前かがみにして、右手で自分の心臓を抑えていた。
「……」
レナがどんな顔をしているか、見る余裕もない。
「――最低」
レナの声がした。
その声に僕は顔を上げる。
そしてその瞬間、僕はレナに平手で頬を叩かれた。
「――何であの時、私にキスをしたんですか」
レナは怒りと悲しみの入り混じったような声で言った。
「私を拒絶するのに、何で私に優しくするんですか!」
「……」
すまない、という言葉が、喉の手前まで出かかったが、それは言葉に出来なかった。今の自分に余裕がないのもあるけれど、言ってもレナにもっと惨めな思いをさせるだけだから。
「――っ」
黙っている僕を置いて、レナは僕の横を通り過ぎ、そのまま走ってこの部屋を出て行ってしまった。
「……」
一人部屋に残された僕は、そのままさっきのソファーに、ぐったりと座り込んでいた。
「――ゴホッ、ゴホッ……はあ、はあ……」
――可哀想な女の子だったのかもしれないじゃないか。
その痛みに、僕は気付いていた。
でも――それでも、僕にはどうしてやることも出来ない。
僕は彼女を愛していない。
そして、これからも――愛してあげられない。
それでも、無理にでも彼女のことを思ってあげようとしたけれど、今の僕はこの様だ。
いつだって、僕は女性とそうなろうと願うと、こうなってしまう。
7年前、自分が心から愛した人を殴り飛ばした時のことが蘇ってきて……
「――クゥン」
ふと、僕の横で、声がした。
見ると、リュートが僕の横に来て、何かを咥えて僕に差し出していた。
それは小さな写真立てだった。その中に入っている写真には、7年前、あの最後の別れ際に、ジュンイチからもらった写真――7年前の僕が映っている。
そして、その隣には、一人の女の子――小柄で大人しげな少女が、僕の横で幸せそうに微笑んでいた。
「……」
――忘れるな、ってことを言いたいのか、リュート。
――分かってる。頭では分かっているんだよ。
僕が今まで愛した女は、この写真に写っている娘、ただ一人だけ。
マツオカ・シオリひとりだけなんだ。