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Room

 マンションのエントランスの扉をカードキーで開けて、僕はレナを抱きかかえたまま、リュートと共に中へ入る。この姿が防犯カメラにばっちり映っていると思うと、改めて僕は何をやっているのだろうと思う。

 エレベーターに乗って、僕の部屋の前に着く。部屋の鍵を、さっきと同じカードキーで開ける。

「何もないところですが、どうぞ――と言っても、この状態だと、お嬢様が立たない限り、強制的に中に入れちゃいますが」

 僕は先にそう断った。帰るなら帰ってもいいし、中に入る気ならば、軽くジョークを挟んで緊張をほぐしておく。

 部屋のドアノブを回して、少しドアを開けると、僕は足でドアを少しだけ開け、半開きの状態で止まった。ここで立つか、帰るか、その決断を待った。

 10秒経ってもレナが黙したままでいたので、僕はそれを承諾の意思表示と受け取る。

「……」

 結果的に、僕が彼女を酔い潰して、部屋にお持ち帰りしたシチュエーションになってしまったな……

 孔明になぞらえて、平成の臥龍とかつて呼ばれた僕だが、僕はいつから孔明から董卓になってしまったんだろう。もう光魔鬼畜の所業だ。

足でドアを少し開かせると、リュートがそのままドアを頭で押して、開けてくれた。全く賢い犬で助かる。

「あ、いい匂い」

 部屋に入ると、レナが言った。

「男の人の部屋に来るの、初めてなんですけれど、もっと男臭いのかと思ってました」

「初めて?」

「ええ。私の家と比較されると思ってか、みんな私を自分の家に呼ぼうとはしませんから」

 そうだろうな。あの屋敷に比べたら、家賃50万はするこの僕の部屋でも、犬小屋みたいなものだ。

 僕の部屋は、ミントの芳香剤が程よく効いている。今日シャワーを浴びに一度部屋に帰ったが、実際にこの部屋に帰るのは3日ぶりだ。閉めきっていたせいか、余計に芳香剤が鮮烈に香る。

 僕は靴を脱いで、部屋に入る。

 レナを抱えたまま、明かりの間接照明をつけ、20畳ほどのリビングに通し、ソファーに座らせる。

 僕はシステムキッチンから、コップに冷蔵庫から氷を入れ、買い置いてあるミネラルウォーターを注ぎ入れる。そして、ソファーの前のテーブルにコースターまでつけてそれを置いた。

「暑ければ、冷房を点けますが」

まだ9月、気温はそれ程高くはないが、湿度が高く、夜は少し蒸し暑い。僕自身は貧乏性のため、昔から冷房はほとんど利用しないのだけれど。

レナが頷いたので、僕は弱めに冷房を点ける。

 僕の部屋は絶えず空気清浄機が作動し、窓際には観葉植物の鉢が両端に置かれている。テレビを置く収納棚には、50インチのテレビの他には、小さなサボテンの鉢植えが置かれている。

 それ以外はほとんど生活拠点になっていないために、無駄なものがほとんどない。黒のソファーに木製のテーブルセット、スーツとワイシャツが数着と、スポーツウェアが入っているだけのクローゼット、ダンベルや縄跳びなどの簡単なトレーニング器具、そしてシールやステッカーが沢山貼られた、年季の入ったアコースティックギターとブルースハープのケース。それだけだ。この広い部屋を半分も使いこなしていない。50インチのテレビだって、もう1年以上スイッチを入れていなかった。

 部屋の奥の一枚ガラスからは、東京の夜景が広がる。もう消灯しているが、時間が早ければ、東京スカイツリーも見ることができる。

 レナはコップの水に口をつける。それを見ながら、いっそ水道水を出してみればよかったと思った。このお嬢様は、水道水を飲んだことがあるのか。逆に珍しがったりして。

 リュートは部屋の入り口あたりでちょこんとお座りしていた。ここが待機場所だ。

「綺麗なお部屋ですね」

レナは僕の部屋を見回していた。

「いいですよ。何もない、って言っていただいて」

僕はそのレナの謙遜を否定する。

だが、確かにこの部屋は常に綺麗だ。元々僕はこの部屋に物を置いていないから、普通に生活していても、全く散らかることはない。僕はそれでも十分だと思っているのだが、その上トモミがよくこの部屋に押しかけては、掃除機をかけたりしている。この部屋が清潔に保たれているのは、彼女の功績がほぼ全てだった。

 僕はテーブルの上に乗っている、江戸切子風の花瓶の水を取り替える。花を生けていると、家に帰るとまずすることがこれだ。

 僕は花瓶を元の場所、テーブルの中央に置き直す。

「花を部屋に置いているのですね」

 ソファーから体を起こしたレナは、ソファーに置いてあるビーズクッションを抱きしめて、2メートル先から僕にそう言った。

「しかし――その花、何ですの?」

 レナは花瓶に生けてある花を知らないらしい。

「竜胆ですよ。ご存知ありませんか?」

「ふーん……」

 レナはしばらくその花を見ていた。

「どうせなら、そんな地味な花より、バラとか、もっと映える花を飾ればいいのに」

「……」

 その一言で、途端不機嫌になる自分の感情に、僕は気付いていた。

 この花を馬鹿にされることに、身を切るような痛みを覚える。

 7年前、今くらいの時期になったら、あの娘と二人でこの花を見に行く約束をしていたな。結局、二人でこの花を見ることはなかったけれど……

 僕にとってこの花は、一体どんな存在なのだろう。

 僕の誕生日は10月31日だ。この花が枯れる頃、僕はひとつ歳をとり、そして、この花が好きだった人との思い出が、またひとつ色褪せていく。

 そんな花を、何故今でも飾っているんだろう。

 この花を侮辱されるのが、何故そんなに腹が立つのだろう。

「……」

 ――まただ。また今夜は、あの娘のことを……

「――すみません、ちょっとシャワー浴びてきていいですか?」

 僕はレナに言った。

「ふえっ!」

 レナは声を上げる。

「シャ――シャワーって……」

 レナは途端にどぎまぎしだす。

「……」

 何でうろたえてるんだろ、この娘。僕はよく分からない。

「パーティー会場で濡れた時のまま、少し拭いただけで今まで過ごしていたんで、ちょっと汚れをちゃんと流したいんで」

「あ、ああ――そういうことですか……」

 レナは胸を撫で下ろす仕草をする。

「すぐ出てくるんで、適当にくつろいでいてください」



 このバスルームでシャワーを浴びたのは、ほんの数時間前なのに、何で僕はもう一度、シャワーを浴びているのだろうと思う。

 だが、それでも温かいシャワーで体を流していると、ようやく僕も人心地がついた。

 そして、シャワーを浴びながら、ようやくさっきレナの焦っていた理由が何なのかを理解した。

 ――ああ、そうか。普通男の部屋に来て、男がシャワー浴び始めたら、そういうことを考えるよな。

「……」

 自分の気持ちが今、あまりに平静だから、気付かなかった。

 よく「健康で健全な若い男が、女に対して何もせずにいるのは不健康で不健全だ」とか言うけれど。

 僕に関しては、それが当てはまらない。

「ゴホッ、ゴホッ……」

 この通り、もう僕はとっくに健康で健全な精神を失い、不健康不健全の極みのような生活に身を落としているのだから。

 だから、家にレナを呼んではみたものの、僕自身は別に何もする気はない。彼女がそれを望んだから、連れてきただけで、あまり僕はこの状況に対して、あまり考えを巡らせていなかった。

 ――だけど。

 レナが僕をすがるように抱きしめた時から、僕は少し、彼女のことを考えていた。

「……」

 ――可哀想な女の子かも知れないじゃないか。

 今までは高飛車で、鼻持ちならないと思ってはいたけれど。

 生まれながらに金持ちの家に生まれて、誰もが親の威光を恐れて、自分に優しくしてくれてはいても、本当に心から自分を思ってくれる人は、一人もいない。それどころか、表向きは優しくしてくれる人間のほとんどが、心の底で自分を嫌っている。同世代の人間は、特にそうだろう。帝国グループの名にビビッて、令嬢の彼女と対等に渡り合おうなんて気持ちなんて、20歳そこらの奴が持てるわけがない。

 それは、僕も似たようなものだ。力は人を孤独にする――僕が傷付こうとも、周りの人間は、誰も僕を心配はしてくれなかった。それどころか、力を持つが故に、少しくらい痛い目にあうべきという見方をされ、周りの人間は、僕の心や体を痛めつけることに、あまり頓着を持たなかった。

 僕も、彼女も、ひとりぼっちなのだ。

 そんな彼女が、あのパーティー会場での、僕のキスに、希望を見出した。僕にとっては、ただ売られた喧嘩を買うための演技に過ぎなかったのに。

 彼女は思ってしまったのだ。この人なら、私のことを、普通の女の子として、扱ってくれる、と。

「……」

 ずっと忘れていたけれど。

 この左腕の疼きを思い出した今なら、そのレナの気持ちが、少しわかるような気がしたんだ。

 自分を一人の人間として見てくれて、心から、優しくしてくれて。

 そんな人が、たった一人でもいるだけで、なんて幸せなことだろうと思うけれど。

 そんなものは、僕達にとっては、とても得がたいもので――

 かつて僕も、そんな人に巡り合えたことで、救われたことがある。

 それをこの左腕の疼きが、思い出させてくれた。

 荒みきった僕に、いつだってその純粋無垢な瞳で、花の蕾がほころぶように、遠慮がちに、だけど優しく笑いかけてくれた。生きることに絶望していた僕を励まし、背中を押してくれた。

 その (ひと )がいてくれたから……

「ゴホッ、ゴホッ……」

 ――畜生。


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