Trample
かなり強く唇を押し当てられたから、キスをされた瞬間、今まで僕を支配していた過去への郷愁も、酔いと共に一気に吹っ飛び、頭が妙にクリアになった。
でも、唇を離されると、すぐに僕の心は、まるでサッカーで相手にフェイントで綺麗に抜かれた時のような、一瞬の浮遊感が去来した。
僕の首に腕を回したまま、ゆっくり唇を離したレナは、照れ臭そうに僕から視線を外した。
「……」
――不意を突かれたからか、自発的な行動ではなかったからか、左腕の痺れは今は大人しい。
だが――それでも、自分が酷く悪いことをしたような、背徳的な罪悪感がゆっくりと僕の胸に現れだす。
――さて、これをどう捉えるべきかな。
まあ、こうして僕がいわゆるお姫様抱っこなんて、気障なことをしている時点で、この娘はかなり酔っているわけだし、記憶がない中でしてしまった行為なのかもしれない。それなら黙って流すけれど。
でも、ばっちり記憶が残っているとなると、ちょっと厄介だな……
この娘を邪険に扱うと、最悪の場合、絶対的な死が待っている――か。
――まあ、それだけのことか。
いずれにせよ、それ程大したことじゃない。キスなんて僕ももうしているし。狼狽するのも嘘くさいし、彼女を家に送り届ける目的に変更もない。
そんな思考を5秒でまとめる。
「お嬢様、酔っていらっしゃるとは言え、少しお戯れが過ぎるのではありませんか」
僕はレナを抱え直す。
「身を切ったジョークなんて、女性がやるものじゃありませんよ」
僕はそういうことにした。酔っているのであれば受け流し、記憶が残っていても、彼女が酔っていると僕が決め付けてしまえば、この言葉で十分受け流せる。その二つの役目を同時に果たせる二段構えだ。
だけど。
「……」
レナは、僕の目を切実な想いを秘めた瞳で見つめていた。
「……」
その目を見て、この娘が何か言いたそうなのは僕にも伝わったけれど、それが何なのかまでは、今の僕には分からない。だから僕も黙って彼女の次の言葉を待った。
「――もうちょっと何か反応してくれても、いいじゃないですか」
やがて焦れたように、レナは言った。
「え?」
「だって、悔しいんですもの。サクライさん、優しいけれど、全然何を考えてるのか教えてくれないから、今日の私、ずっとサクライさんのペースにさせられちゃって……」
「は?」
「――私、サクライさんにキスされてから、ずっと――今だって、どきどきしてるのに、サクライさんはいつも私が何しても、涼しい顔して、いつだってサクライさんのペースで……」
「……」
「もっと私のことで困ってくれても、いいじゃないですか……私、こうして抱っこされたり、キ――キスまでしたのに……」
そう力なく呟くと、レナは僕から視線を外した。
「……」
僕の頭の中に、クエスチョンマークが点灯する。
「――あの、よく意味が分かりかねますけど」
僕はそう前置きする。
「いつだって私のペースになるのは、仕方のないことですよ。私の方がお嬢様より年上ですし、お嬢様はまだ学生なのですから。年下にいつも振り回されてばかりの男だったら、それはそれで頼りなくて、嫌でしょう?」
「……」
「手前味噌な言い方ですが、私だって財界では若輩ですが、お嬢様よりは、この世の見識は深いと思っていますからね。それも、普通の人間よりも特殊な経験を数多く積みましたから、お嬢様の悪戯程度では、驚いたりしませんよ」
そう、家族を殺す寸前まで痛めつけ、逃げるように国を去り、それから数年を浮浪者同然で過ごした。旅をしたほとんどの国は、治安の悪い、貧しい国ばかりだったし、僕は日本人で、体も華奢だったから、命の危険に晒されることも数多くあった。
そんな場数は数多く踏んできたから、もう僕に怖いものなどなかった。何度も命をドブに捨てるようなことばかりしてきたし、自分の危険や、死でさえもう怖くはない。大抵の場面で、一定のモチベーションを保つことができる。
だが、それが僕の感情の起伏をほとんど平坦にしてしまったことも事実だ。日本に帰ってから僕は、喜怒哀楽をまともに表せたことがない。何度もドブに晒した命は、もう既に弾力を失っており、心を動かされるものに出会うこともない。最後に心から笑ったのは、一体いつのことだっただろう。
7年前に、心を解放させた僕は、見るもの全てが鮮やかな色を持ち、多くのものに心動かされた。毎日が新たな発見の連続で、その度に僕は、狭量な世界に閉じ込められ、無益な時間を過ごした過去に少しの後悔を抱きながらも、自分が日ごと心身共に充実していくことの実感を確かに感じ、明日に出会える新たな発見に、希望を見出していた。
だが――もう僕は、あの時毎日のように感じていた、あの新鮮な充実感を、もう、思い出せない。まるであの半年が、夢幻として、忘却の彼方に消え去ってしまったかのように、僕はあの短い年月で学んだことを、もうはっきりと思い出せないのだ。
――勿論、歳を重ねれば、世の中のことも次第に分かってくる。毎日の生活に新たな発見は減るのは当たり前だ。誰だって子供の頃のことを、全て覚えてはいられないように。
単純に、僕がただ、大人になり、これからどんどん年老いていくというだけのことかもしれないとも思う。
それでも、僕はそうして、動かない心――その中にひゅうひゅうと吹き荒ぶ、終わりなき虚しさが、ただただ辛かった。
「……」
――よそう。そんなことを考えたって、失った時間は戻らないのだ。
本当に、今日の僕はどうかしてるな。昔のことばかり、思い出して……
「年下、か……」
ふと、僕に抱えられたままのレナが呟いた。
「今までそんなこと、考えたこと、なかったですよ。帝国グループの名前があると、年上だろうがなんだろうが、相手はみんな私にへりくだって、終始私のペースになっちゃうのに」
「そうでしょうね」
「サクライさんだけですよ、私のこと、お嬢様って呼んでいても、まだ歳相応の女に見てくれるのは」
「……」
僕は唇を舐める。
それは明らかに僕が異質な存在なのだ。僕の方が間違っていて、彼女の周りにいる人間達の方が正しい。誰だって、自分や会社を守りたい。それなら帝国グループと、その創業者一族の意に従わないことなんて、百害あって一利なしだ。
だが僕は違う。僕はむしろ、自分よりはるかに強い力で自分を叩きのめしてくれることを願っている。だから僕は、身の回りのことに防衛本能が働かない。
少なくとも、自分が今、周りからはイカれた奴に見えることの自覚はある。親を半殺しにした過去を持つ僕を、イカれた奴、何を考えているか分からない、怖い奴と財界の連中が言うのも、ある程度理解できる。
そして今日、パーティー会場でのレナとのキスを見て、財界の人間達は、ますます僕をイカれた奴だと思ってくれただろう。
それでいい。僕との距離が離れてくれれば、もう僕のことで、誰も傷付かずに済むし、僕も誰も傷つけなくていい……
「……」
――イカれてる、だって?
僕はただ、まともに生きたかっただけだ。
僕の生まれ育った家では、狂うことを拒否すれば、生きることに多大の苦痛を伴った。僕以外の家族は人の尊厳を捨て、狂うことを享受し、それを唯一拒んだ僕は、そんなイカれた家族に毎日蹂躙され続けた。
そんな、砂を噛むような日々を過ごしても、僕はあの家族のように狂うことだけは選べなかった。怒りと疲労と、ほんの少しの諦めを抱きながら、僕はあの時、自分がもっと、少しでもまともな生き方ができたらと、願っていたはずだ。
金もいらない、名誉もいらない。ただ、それだけ――
自分の周りにあるささやかな幸せを守りながら、慎ましやかに、静かに暮らしたかった。
今まで誰かを叩きのめすためだけに磨いた力を、誰かのために使いたい――僕の力で、誰かを幸せにしてみたいと願ったのも、そのためだ。自分が少しはましな人間になるための生き方を、誰かのために尽くすことで見出したかったからだ。日本を出てからも、僕はその道を追い求めてきたつもりだった。
それが今は何だ? 自分がイカれた人間だと、こんなにすんなり享受しているなんて……
何をやっているんだ。僕は。
「でもそれは、仕方がないことでしょう。お嬢様は日本一の財閥の生まれなのですから、他の人間とは違うのは、当たり前のことです」
僕はレナにそう忠告しておく。僕の言動をいちいち気にする必要はない。それを気にしたら、きっとレナにとって、きりがなくなってしまう。こういう人間もいる、程度の認識をしていればいいのだ、と、僕はレナを誘導しようと声をかけた。
「だから……」
だけど、そう僕が言い掛けた時。
レナは再び僕の首の手を回して、そのままぎゅっと僕にしがみつくように、僕を抱きしめた。
「……」
僕の言葉は止まってしまう。彼女の腕に込められた力が、彼女の切実な想いを物語っているのだと、何となく、そう感じたから。
キスをされた時よりも鮮明に、レナの付けた香水の香りが強く印象に残った。
「今更あなたまでそんなこと、言わないでくださいよ」
僕の耳の横で、レナは囁くように、震えるような声で言った。
「ごめんなさい。サクライさんだってこんなことされて、迷惑だってことは分かってるんです。でも、ウザい女だって思わないでください……」
「……」
沈黙。
「私――サクライさんのこと、好きなんです……」
「……」
「今日だけでいいんです、今日だけ……もうちょっと、サクライさんの側にいて、いいですか? 私を普通に一人の女として見てくれるのって、サクライさんしかいないんです。だから……」
そこで言葉が途切れた。
レナのその、静かだけれど必死さのこもった言葉が、抱きしめられたことで、鼻に届くレナの匂いと相まって、僕にレナの存在を強く感じさせた。
同時に、こういう状態になっていることに、再び酷い罪悪感を感じると共に。
僕はまた、脳裏にあの女の子の笑顔を蘇らせていた。
「……」
沈黙。
「――いいですよ」
僕は言った。
「――側にいるだけでいいなら、そうしますよ、今夜は」
何故そんなことを言ったのか。
今夜は妙に、昔のことばかりを思い出しているから、早く忘れてしまいたいと、ずっと願っていたのに――
――きっと、そう願っていても、今眠ってしまったら、酷い夢を見てしまいそうで、それが分かっている脳が、まだ眠ることを拒んだのだろう。
それに、今夜は随分と馬鹿な行動を繰り返してしまった。かつての僕は、ただまともに生きようとしていただけだというのに、自分が日ごとイカれていっているのだと、ふと実感してしまった。
ならば、もう大馬鹿ついでだ。このまま自分がどこまで狂ってしまえるか、試してやろう。
もう7年も経つんだ。そろそろ踏み絵を踏むべき時期に来ているのかもしれない。
その踏み絵さえ踏んでしまえば、楽になれるかもしれない――
もうあの娘のことを、思い出さなくなるかもしれないから。
「――クゥン」
僕の隣にいるリュートが、そんな僕を見て、悲しそうな声を漏らした。