Bar
ドアを開けると、ドアの内側についている小さな鐘が、カランカランと鳴った。
「どうぞ、おかけください」
僕は店の中のカウンター席の椅子をひとつ引いて、そこにレナを座らせて、それから僕はレナの隣に座る。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しのバーテンダーが、僕に挨拶する。
「初めてですね。サクライさんが女性を連れてくるなんて」
ウエイトレスの女性が、僕達にお絞りを持ってきた。
「僕はいつもの。彼女は――最初だし、飲みやすくて、あまり強くないのを適当に作ってあげてください」
僕は一緒に連れてきたレナのことには何も触れずに、ウエイターに注文する。
「よろしいですか?」
僕はレナに確認を取る。レナはこくりと頷いた。
ここ、バー『アンタレス』は、僕の住む部屋からそう遠くない場所にある小さなバーだ。仕事帰りに僕が一気に眠るための一杯を求めて、よく立ち寄る。雑居ビルの地下にある、あまり知られていない穴場だった。カウンターと、テーブル席がいくつか、合わせても20卓くらいしかない小さな店だ。ほのかに煙草の臭いが香っている。
バーテンダーは初老の、いつもニコニコした物腰柔らかな人で感じがいいし、作ってくれるお酒も美味しい。店内も割と静かで、ダーツとか、音楽とか、騒がしい余計なものがあまりなくて、静寂を好む僕にとっては居心地のいい場所。店内もシックな照明が使われて、あまり明るくなく、落ち着いた雰囲気。
パーティー会場でダンスを踊り終えた僕は、タクシーでレナを連れて、ここまでやってきた。ここなら静かだし、僕と女性が一緒にいることで、マスコミに写真を撮られることもないだろうから。
バーテンダーがシェイカーを手に取る。
「サクライさんって、本当につかめない人ですね」
レナがそんなバーテンのシェイクを見ながら、僕の横顔を見る。
「さっきまで、私のエスコート、全然だったのに、こうしてドアを開けてくれたり、椅子を引いたり、レディファーストはしっかりやるし。女性に優しいのに、パーティーでは、あんな……」
そう言いかけて、レナは口をつぐんだ。
「……」
僕はよく、女に優しいとか、女に甘いとか、言われることがある。それが女に色目を使って、宝石を高く売りつけていると陰口を叩かれる一因でもある。
何でそんなことを言われるのか、僕には全く理解できない。勘違いされても困る。僕が仕事で会う女性は、いずれも会社にとっては『商品』なのだから。商品は丁重に扱うのが当然だろう。もしそれ以外の視点で見ようとも、自分に対する敵意がないなら、女を力で蹂躙するのは僕の趣味じゃない。
それだけのことだ。別にそれは男でも同じ。理由があるなら誰とでも戦うけれど、なければ誰とも戦いはしない。
昔から、僕はそうやって生きてきたつもりだ。
「でも、サクライさんって、私を帝国グループ会長の孫娘扱いしないんですね。私、サクライさんみたいな人、初めてですよ」
「どうでしょうね。ただ私が世間知らずなだけだと思いますが」
すぐに僕とレナの前にカクテルが差し出される。レナに出されたのは、シンガポールスリングだ。ピンクがかった赤が鮮やかで、パイナップルの甘い匂いがする。
その後に僕の前に酒が出される。
「あれ?」
僕の前に出されたのは、ソルティードッグだった。
「いつものじゃありませんよ」
僕の「いつもの」と言うのは、スコッチの水割りのことだった。イギリスにいた時によく飲んだから、愛着がある。この店では、いつもの、と頼めばちゃんと水割りが出るはずなのに。
「サクライさん、今日はあまり顔色がよろしくないのでね。強めのお酒の注文は受けかねます。まずはこれで、気持ちをすっきりさせてください。この一杯の御代はいりませんから」
「……」
――確かに、今夜はそっちの方がいいかもな。あまりふらふらになるまで飲むつもりはないし、何杯か飲んだら、レナを送り届けないといけないから。
「――じゃあ、乾杯しましょうか」
僕はソルティードッグの入ったグラスを手に取る。何に乾杯するかも分からないけれど、とりあえず社交辞令だ。
「――はい」
レナもシンガポールスリングを手に取った。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
僕とレナは、グラスを鳴らす。
ソルティードッグに口をつけると、グラスの周りを覆う塩がしょっぱく感じた後、グレープフルーツの爽やかな甘酸っぱさを感じて、心地よかった。あまり甘ったるくもなく、口の中がグレープフルーツの苦味でさっぱりする。
「――美味い」
僕はグラスから口を離して、呟いた。
「これ、初めて飲みましたけど、美味いですね」
僕は初老のバーテンダーに、グラスをかざして見せる。
「たまにはそういうのもいいでしょう。柑橘ベースのお酒は、胃や心が弱っている時に、気持ちをさっぱりさせるものです」
含蓄のある言葉。長年生きている人間の経験から来る言葉という感じ。
「変な人ですね、サクライさんって。すごく男っぽいのに、何だか子供みたい」
レナがそんな僕の様子を見て、呟いた。
――僕達はそれから、取りとめもなくカクテルを注文した。レナの話は退屈だったが、僕が話すより気が楽だ。適当に相槌を打ったり、笑って見せたりする。
バーテンが作ってくれたおつまみもいくつか卓に並ぶ。軽く焼き目をつけた白カビのチーズとか、スモークハムにブラックペッパーをかけただけのものとか、酢漬けにしたオリーブとピクルスとか、どれも単純だがなかなか美味しい。
だけど、僕はここ数日、ほとんど不眠不休で働いていて、体も疲れているし、胃も荒れているから、沢山は入らない。パーティー会場でも、僕は乾杯のシャンパンに口をつけただけ。元々一人でちびちび飲む酒ばかりを嗜んでいる僕は、3杯もカクテルを飲むと、もう頭がふらふらしてきた。
23時を過ぎると、もう客は僕達二人だけになってしまう。ここは都内の一等地だし、皆家路につくためだろう。
「サクライさん、最近お仕事がすごい勢いですよね」
客が僕達だけなので、一人だけいるウエイトレスも、カウンターに入り、バーテンダーの隣に立って、話に参加する。僕より少し年上の女性だった。
「そう言えば、今年もサッカーのチャリティーマッチ、やるんですか?」
ウエイトレスは訊いた。
「ええ、今年も今、その準備を事業部が全力でやってます」
グランローズマリーは去年、世界中のサッカーの名選手を日本に招いて、恵まれない国の子供達のためのチャリティーマッチを行った。FIFAと共催したため、至上かつてない規模のチャリティーマッチは、コンテンツの利益や、僕がデザインしたその日限定のレプリカユニフォームやスポーツ用のアクセサリーなどの売り上げを合わせて、数百億のお金が集まった。
勿論海外のチャリティーの精神を見習って、僕達には利益は全くない。その利益は会社のホームページで1円単位まで発表し、使用用途も同じく1円単位で発表した。
帝国グループの爺さんには批判されているけれど、チャリティーに力を入れて損をするというのは、チャリティーなのに、自分達も儲かりたいと思っている証拠だ。グランローズマリーは得た利益のほとんどを1円単位で皆に報告しているのも合わさって、チャリティーでクリーンなイメージを作り上げている。それがブランドの価値となって、大衆が信頼し、商品が売れる。
結果的にチャリティーで金は稼げないが、そこで作ったイメージが、他の事業に大きく影響するというわけだ。
「マルガリータ、頂けます?」
レナはそんな僕の横で、オーダーを続けている。もう僕の倍近く飲んでいて、酔いのせいか、少し御機嫌の様子だ。
しかし――そろそろ止めた方がいいかな。マルガリータは甘口で、女性でも飲みやすいけれど、ベースはテキーラだ。飲みやすさに騙されて、気がつくと酔い潰されているような、そんな酒だ。バーで女の子にマルガリータとスクリュードライバーを飲ませる男は、その女の子を今夜お持ち帰りすることしか考えていないなんて言われるくらいだ。
――まあ、このお嬢様も割と美人の部類だけれど、だからって、酔い潰して、ホテルに連れ込もうなんて考える男は、まずいないだろうけれど。僕も当然ない。だからこの娘もマルガリータがそういう酒だって、知らないのかもしれない。
マルガリータを出した後、バーテンダーが一度僕の方を見た。多分もうそろそろやめておいた方がいいだろうと、この人も思っているのだろう。というより、この娘が潰れると、まるで僕が潰したような状況に陥るだけでなく、介抱もしなくてはいけなくなるから、それを少し同情したのかもしれない。
「サクライさんも、何かいかがですか? そろそろラストオーダーですが」
バーテンダーが僕に訊く。
僕はそう言われて、右手首に巻いているロレックスを見ると、もう既に23時30を過ぎた頃だった。
「――じゃあ、カルアミルク」
「カルアミルク? サクライさん、可愛い」
隣にいたレナがおかしそうに笑った。
バーテンが僕の前にカルアミルクを出す。
口をつけると、甘いものが苦手な僕には信じられないくらい甘い。ホイップしていない生クリームをそのまま飲んでいるようだった。
でも、久し振りに今夜はこの酒を飲んでみたくなったんだ。
カルアミルクは、僕がジュンイチに勧められて、人生で最初に飲んだ酒だ。はじめはコーヒー牛乳だと騙されて、飲んだら酒だった。今でも僕は酒が弱いけれど、当時はこのカルアミルクでも酔ってしまうほどだった。
「私、こういうところ、来たのはじめてかも」
レナは僕の隣でそう呟いた。
「サクライさんは、随分慣れているみたいですね。他の女性とも、こうして飲みに来ているんでしょう。
「……」
他の女性、か。
レナにキスをして、久し振りに僕は左手に『あの感触』を思い出した。
左手を疼かせるその痺れは、とても不快なものだったけれど、その痺れに促されて、ひとつの記憶が蘇ってくる。
もう随分昔の記憶――
一人の女の子――まるで春の花の蕾みたいに、控えめに、えへへ、と照れ臭そうに笑うその少女。春の夜桜、川べりを提灯に照らされ、僕とその女の子の周りには、一面の菜の花が咲いていて、僕の隣で、その女の子は、幸せそうに微笑んでいた。
このバーに来てから、僕はもう、誰の話も頭に入っていなかった。酒を飲んで、頭をふらふらにして、考えるのが嫌になる状態になっても、その女の子のことが、頭の中を離れなくなった。
多分僕は今夜、レナがついて来ようが来るまいが、ここに来ていたと思う。この記憶を、酒と共に飲み干して、そのまま一気に忘れられるように。
今夜も、それが無駄なことだともう知りながらも、そう期待して……
「ん……」
ふと、僕の肩を何かに叩かれる。
よく見ると、僕の隣に座っていたレナが、僕の肩に頭を預けて、軽くまどろんでいるのだった。
「お嬢様、もうそろそろお酒はやめた方がいいと思いますけど」
そんなことを口にするけれど、実際の僕はこの娘のことを、あまり心配していない。
僕はもう、今の記憶が蘇った今日という日から、一秒でも早く逃れたかった。世話を焼かせずに、早々にこの娘を追い返して、部屋で一気に眠りについて、この思考を遮断したかった。
「ふぅ……」
しかしレナはもう、猫のような甘い吐息を吐いて、目も空ろになっている。
「うわぁ、こりゃかなり出来上がっちゃいましたねぇ」
ウエイトレスの女性が言う。
「見ていて思ったんですよ。この娘、今日、ちょっと舞い上がってるって。普段こんなに飲んだこと、なかったんじゃないかって」
「……」
――そうだろうな。帝国グループの令嬢が、こんなに泥酔なんて、はしたないことだという教えくらい、この娘も重々承知しているだろう。
何でこんなに飲んでしまったんだろう……
「――すみません。これでお勘定を」
僕は席を立つ。
「ああ、はい。すみません。こんなにお相手に飲ませてしまって」
「いえ、別にマスターのせいじゃないですから」
僕は自分の財布から、カードを取り出す。
バーテンダーは、勘定を終えると、コップに氷水を入れてきてくれた。
「ほら、レナお嬢様、これを飲んで。そしたらおうちへ帰りますよ」
僕はカウンターで酩酊しているレナに氷水の入ったコップを差し出す。
レナはそれを受け取り、それを一口二口口に含んだ。
もう既に時計は12時を回ろうとしている。年頃の娘を家に送り届けるには、もう既に非常識な時間だ。この店の閉店時間は深夜0時だし……
「お嬢様、このお店ももう閉店ですから。立てますか?」
僕はまたレナに声をかける。
「うー……」
レナはその質問に、小さくうめき声で返事をした。
そして、そのまま僕の方を向いて、自分の両腕を前に差し出した。
「は?」
僕はそのジェスチャーの意味が分からず、首を傾げる。
「抱っこしてください」
「は?」
「抱っこ」
「……」
――何なんだ、一体。
しかし、仕方がない。このお店にも迷惑がかかるし、このお嬢様を説得するのも面倒臭い。どうせタクシーに乗せる、ちょっとの間のことだ。
「――分かりました。でも、ご自分のおうちに帰ったら、自分で歩いてくださいよ」
僕は椅子に座ったレナの肩を抱いて、膝の下に自分の右手を滑り込ませ、そのままレナの体を抱き上げた。
「おぉ、サクライさん、細いのに力ありますね」
ウエイトレスが感心したように僕を見る。
「――すみません。この店の前に、タクシーを呼んでいただけませんか? 手が塞がっちゃってて……」
「あ、はい。じゃあ、私、お見送りしますね」
ウエイトレスの女性が、入り口のドアを開けてくれた。
「またいらしてくださいね」
そんな見送りの言葉を貰って、僕がドアをくぐると、ウエイトレスはドアを閉めた。
店を出て、階段を登り、外に出ると、店へと続く地価への入り口の横にはリュートがお座りの状態で待っていた。
旅をしていた頃から、リュートは僕が、ここで待ってろ、と言えば、一人でもちゃんとそこから動かずに待っていてくれる。さすがに飲食店などで同伴させるわけにもいかないし、本人もそれが分かっているのだろう。
僕の住んでいる街はオフィス街で、ネオンなどはほとんどなく、高層ビルの摩天楼が続く街だ。終電の時間ももうすぐ過ぎるし、道にはもう人通りは全くない。
「待たせたな、リュート」
僕は視線を一度下に向けると、レナをもう一度抱え直した。
「お嬢様、これから少しタクシーを待ちますので、そのまま眠りたければ、眠ってもいいですから」
僕は抱きかかえたレナの顔を見る。レナはとろんとした目で僕のことを見ている。
「……」
よかった。大人しくしてもらえて。
これでこのお嬢様を家に送り届ければ、今日の仕事は終わりだ。
でも――孫娘をこんなに酔い潰して家に送り届けたら、あの爺さん、怒るのかな。
何だか随分昔に、こんなことがあった気がする。泥酔した女の子を背負って、家に送り届けたこと。まだ彼女の家族に会ったことがなくて、彼女のお父さんに殺されちゃうと思って、びくびくしてたっけ……
――また昔のこと、思い出してしまったな……
あぁ、今夜は僕、どうかしてるな……池にも落とされたし、ちゃんとシャワーを浴びて、体の汚れを落として、さっさと寝てしまいたい……
そんな、僕が物思いに耽っていた時。
レナは僕に抱きかかえられたまま、僕の首に自分の両腕を回して、そのまま自分の体を引き寄せて。
そのまま僕を抱きしめるようにして、強く自分の唇を、僕の唇に合わせていた。
作者もたまにバーに行くんですけど、カクテルって種類が多くて、なかなかお気に入りのものにたどり着けないですね。
読者の皆さんのお勧めのお酒とかあったら、教えてもらいたいと思う今日この頃…