Refuse
傍らを見ると、僕の足元でリュートが鼻を啜るような仕草を見せていた。
犬は視覚が人間にはるかに劣る。こう自分がシャンパン臭くなると、生命線である嗅覚が効かずに苦しむことになる。
「――仕方ない。リュート、少し水が冷たいが、我慢しろよ」
僕はそう言って、リュートを抱きかかえて、噴水のある池に静かに体を沈めた。リュートは小さくうめいたが、臭いが落ちて、気持ちよさそうに犬掻きをし始めた。
僕も再び池に入って、まだ噴出している噴水を頭から被って、体の汚れを落とした。
ボンボンどもにとっては屈辱だろうが、僕にとっては池に落とされるなんて、たいしたことじゃない。旅をしていた頃は、東南アジアやインドなど、貧しい国で、泥水だって飲んだし、この池よりはるかに汚い、細菌だらけのガンジス川で水浴びもした。
女顔で、華奢な体のせいか、アイドルなんかに会うと、爽やかで儚げとか言われるけれど、実際の僕はゴキブリ並にしぶとく、タフだった。旅をしていたのはほんの2年ほどだったけれど、野宿や飢えも日常的に経験したし、戦争の只中の国にも行った。今でこそこうして財界の一員になってはいるが、僕は今でもどんな貧乏暮らしにだって耐えられるし、むしろそういう暮らしの方が性に合う、気品とは全く無縁の人間だ。
こうして僕はリュートと一緒に、困難を乗り越えてきたんだ。
基本的に僕は、その旅路を経た今では、どんなことにだって耐えられる自信がついた。2年間の旅路は生産性こそゼロだったけれど、それなりに僕に与えてくれたものも多かった。僕のバックボーンのかなりの部分が、その旅での経験に根ざしている。
それが同時に、僕の精神状態に大きく影響しているのだけれど……
「ゴホ、ゴホッ……」
7年前、日本を出てから僕は、ずっとそうだった。ずっと腹を空かせ、寝る場所にも困り、戦争も短い間ではあるが、体験した。僕が日本人で体が華奢ということで、貧しい国の現地人に銃を突きつけられ、恐喝を受けたことも何度もある。
イスラエルに渡って、宝石デザイナーの道が開けるまで、僕はまだ漠然と旅をしていただけで、何もできない自分が嫌だった。明日が見えない、果てしない闇を当てもなく歩いているのみで、不安だった。こうして何も出来ないまま、いつかこの旅路の果てに、どこかで野垂れ死ぬかもしれない感覚は、ずっと僕の脳裏にあったんだ。
だから、そのうち僕の中で、僕の命の価値はゴミみたいに軽くなっていった。
自分が死んでも、悲しんでくれる友も恋人も、もういない。生きていても、僕の目指すものはろくでもない復讐でしかない――自分の生きていることに、明確な意義を見出せないことが、その傾向を更に加速させた。
旅を続けているうちに、あれだけ願った家族への復讐に対しても、もはやどうでもいいもののように思えてくるようになった。どうせあの家族は、日本でもう死人同然の暮らしをしているに決まっているのだから、今更死人に鞭を打っても仕方がない――僕の人生の意味は徐々に薄まり、次第に自分への興味も失った。
ユータやジュンイチ達に誓った志のためにも、こんなところでは終われないと、その時は何とかそれで乗り越えてきたのだけれど。
今は……
もう一度リュートを車に預けるために、僕とリュートは濡れそぼった姿のまま、会場の駐車場に戻ってきていた。
「社長!」
車の外で待っていた運転手は、僕の姿を見て、声を上げる。
その声の後、黒塗りのセダンの影から、ひょっこりと人影が姿を現した。
トモミだった。どうやら僕が戻らないから、心配で見に来たのか。
「しゃ、社長! どうしたんですか、その格好!」
面食らった顔で、僕の近くへ駆け寄ってくる。
「あぁ……少し酒が回りすぎたみたいで、足がもつれて、噴水のある池に落ちて……」
適当な言い訳をする。僕は限りなく下戸に近い――飲めなくはないが、すぐに回ってしまうことを、トモミも知っている。
「すみません、おろしたての服、こんなになっちゃって……」
彼女の次の反応が予想できるので、先に謝ってしまう。
「――それより、その格好でいると、社長が風邪ひきますよ。早く着替えないと……」
「……」
あれ? 意外な反応。数百万の服より、僕のことをそんな心配そうな目で見るなんて。
「――てっきり、バカ、って言われるかと思ってたのに」
僕はそう呟いた。
「……」
それを訊いて、トモミは一瞬沈黙する。
「――それを言っているのは、あのお嬢様の方ですよ」
トモミは僕から目を背けた。
「あのお嬢様、パーティーに一人残されて、今、ダンスの誘いをいっぱい受けてますよ。社長と踊るつもりだったのに、社長がすっぽかしたものだから。すっかり御機嫌斜めになっちゃって……」
何だかトモミは、照れたように、か細い口調になっていく。
「――早く戻って、あのお嬢様に謝って、踊ってあげた方がいいんじゃないですか? あのお嬢様を怒らせると、色々面倒なんでしょう?」
今度は若干不機嫌そうな口調。
「……」
――そうなんだな。あのお嬢様というより、あのお嬢様のバックにいるのは、世界でも有数の財閥だ。
僕の下には数千人の従業員がいる。それを守る責任が僕にはあるのだ。
「私、着替えを何か探してきますよ。あのお嬢様に、まず報告に……」
トモミは踵を返しかける。
「いや、今はこのままでいいです」
そんなトモミを、僕は引き止めた。
「え?」
振り返ったトモミは、首を傾げる。
「トモミさん」
僕はトモミの顔を覗き込んだ。
「ダンスが始まるまでに、何でもいいので、着替えを一式見繕ってくれませんか?それが済んだら、あなたはもう、帰っていいですよ。ここから先は、僕一人でいいですから」
「え……」
「運転手さん、僕はもういいんで、彼女を送ってあげてください。そしたら運転手さんも、あがっていいですよ」
僕はそう言い残して、隣にいるリュートの頭を撫でる。
「リュート、お前はここで待っていろ、少し冷えるが、すぐに迎えに来るからな」
それをリュートに伝えると、僕はトモミの横をすり抜け、パーティー会場へと向かう。
「ちょ、ちょっと、社長!」
背中越しにトモミに呼び止められたけれど、僕は振り向かず、まだ濡れているローファーをグチャグチャ言わせて、歩を進める。
「ゴホッ、ゴホッ……」
――別に池に突き落とされたことくらい、どうということはないけれど。
一方的な貧者の差別や、こんな陰湿なことをする連中のやり方が、はっきり言って気に入らない。
僕に対しての危害ならまだしも、ああいう連中は、僕のような貧者の血筋を徹底的に見下し、弱者は自分に奉仕し、踏み潰されるのが当たり前だと思っている。
今でも僕は、そんな連中が虫唾が走る程大嫌いだ。
パーティー会場に、全身濡れそぼった格好のまま、一人戻ると、僕は会場の注目を一手に集め、会場中をどよめかせた。
既に会場は、ダンスに向けてテーブルが片付け始められていて、さっきよりも随分と広々としていた。
「さ、サクライ社長! どうしたんですか? その格好!」
パーティーに参加していたアイドルや女優が、僕に近づいてくる。彼女たちやハリウッドの人間は、日本の財界と全くつながりがないから、このパーティーでも、僕を差別することもない。
「で、でも、水に濡れたサクライさんって、ちょっとセクシーかも……」
「……」
僕はそんな彼女達を眼中にもいれず、会場の奥へと歩を進める。僕のその偉業ながらも堂々とした様子に、他の参加者は気後れして、僕の進む道を空けた。
お目当ての人物――レナは一人にされて、会場の隅で所在なさげにしていたが、他の男性参加者から、ダンスの誘いを受けていた。
「レナお嬢様、もしお相手がいないのなら、私とご一緒――うわっ!」
僕はレナの前を塞いで、レナをダンスに誘っていた財界の若い男を手で押しのけ、レナと正対する。
「……」
レナは僕の濡れそぼる姿を、まるで汚らしいものでも見るような目で見ている。
「――なんて格好してらっしゃるの」
レナは僕に呆れるような声で言った。
レナは明らかに不機嫌で、怒りを滲ませていた。このパーティーで、エスコートを任された僕のあまりの体たらくに、腹を立てている。
「……」
生まれてからずっと、自分をないがしろにする人間なんていなかっただろうから、こうして自分の思い通りにならない人間がいると、不愉快になる。
生まれついてのプリンセス、か。
「――もういいですよ。そんな格好で女性の前に立つなんて、まだまだあなた、財界での礼儀をご存じないのね。もういいですから、あっちへ行ってください。じゃないと、私まで恥ずかしい……」
不機嫌な言葉を並べ、八つ当たりまがいに僕を責めるレナだったけれど。
僕はそのレナの言葉が終わらないうちに、右手でレナの顎を取り、そのまま軽く顎を上げさせると、僕はそのままレナの顔を引き寄せ、レナの唇に、自分の唇を押し付けた。
「な!」「きゃあ!」
僕の姿に注目が集まっていた会場内は、その瞬間、感嘆の声と悲鳴に包まれた。
会場の全ての視線は、僕とレナのキスに釘付けになる。
5秒。
ゆっくりと唇を離すと、レナは高潮した顔で、体中を震わせ、瞳孔を見開いていた。
「な……な……な……何するんですか!」
レナは震える声で、僕を睨むように激した。
「あ、あなた、私にこんな無礼をして、どうなるか分かってらっしゃるの?」
ダン!
僕はそのレナが寄りかかる壁に自分の手を叩きつけて、再びレナの顔に、自分の顔を近づけた。僕とレナの顔は、20センチも離れていない位置に再び近付く。
大きな音で、レナはさっきまでの虚勢を張った声が止まる。
「分かってますよ。あなたを怒らせたら、僕はあなたのお祖父様に社会的に抹殺される……」
「……」
「だから、こんなこと、冗談でするわけないだろう」
僕は鋭い眼差しで、レナの目を見つめる。
「男は本気で女を口説くなら、命賭けさ。君を誰にも渡したくない」
その言葉を聞いた瞬間、レナの顔から、さっきまでの不機嫌そうな緊張が消えて、ふっと乙女の表情になる。さっきまで高飛車の極みで、大人ぶった振りを決め込んでいたじゃじゃ馬が、処女のようにしおらしい表情を見せ始めた。
――思ったとおり、今まで彼女はずっと周りからお姫様扱い――自分に逆らったら、どうなるか分からないから、他人は誰もが自分に表向きには優しくするが、内心は誰もが自分を怖がり、煙たがっているのに気づいていた。
だから、こんな風に強引なまでに男から迫られるのなんて、到底経験したことがないはず。
当然こんなのは女性への無礼の極みだが、この女はそう思う反面で、自分のことをこうして強引なまでにさらってくれる人間に、ずっと飢えていたのだ。だからこそ、財界に染まらず、自分の祖父にも物怖じしない僕に惹かれていたのだろう。その感情を突けば、これくらいの表情、簡単に引き出せる。
「少なくとも今日だけは、君は僕の女だ――嫌か?」
僕は顔を近づけて、静かな声でレナに訊く。
「――嫌じゃ、ないです……」
さっきまでとは打って変わって、しおらしい声で、レナは頷いた。
それを訊いて、僕はそのまま、にこっと微笑んだ。あまり強引なのを続けても、女の子を怖がらせてしまうだけで、得策じゃない。引き際ではきちんと引いて、女の子のリラックスに務めるのが上策だ。
「そうか、よかった。じゃあダンスの前に、ちょっと着替えてきますよ。すぐ戻りますんで」
そう言って、僕は踵を返して、会場の出口へと、再び歩き出す。
「あ、ああ……」
会場の人間は、僕の行動に、度肝を抜かれている。こんなところで、日本一の財閥の令嬢にキスをするなんて、非常識でアホな行動だが、一歩間違えれば死活問題だ。やれと言われてなかなかできることではない。並外れた行動力と度胸と自信があって初めて成せる業だ。
参加者は皆、僕の行動を批判する余裕もなく、ただただ呆然と、僕の前の道を空けるしかなかった。僕は悠然と会場を出る。
「――ん?」
出口を一歩出ると、会場のドアのすぐ横に、折り畳まれた黒の礼服を手に持った、ドレス姿のトモミがいた。
「ああ、トモミさん、着替えを用意してくれて、わざわざご足労、すみま……」
そう僕が言いかけた時。
トモミは僕の胸に、自分の持っていた礼服一式を押し付けると、そのまま会場の外へと走り去っていってしまった。
「……」
もしかして、見ていたのか? さっきの……
「くっ……」
誰もいない会場のトイレの洗面台で、僕は自分の唇を漱ぐと、左腕に感じる痙攣のような痺れを抑えようと、右手で強く自分の左手首を掴んでいた。蛇口からは水がまだ溢れている。
「はあ……はあ……」
――くそっ、やっぱりまだ……あれから随分時間が経っていたから、大丈夫だと思ったんだが……
キスをした瞬間、それを感じた。この左腕の痺れ――7年前のあの時のまま。
――きっと今夜、眠りについたら、あの夢を見ることは、もう確定だろう。
「はあ……はあ……うっ――ゴホ、ゴホッ……」
呼吸は荒く、体中が冷えた。頭が酷く痛んだ。洗面台の鏡に映る自分の顔色は真っ青になり、額に汗をかいていた。
――でも、まあいい。
これで僕の目的に、もしかしたら一歩近づいたのかもしれないのだから。最高の場面が巡ってきて、それを見事に演出することが出来た。
種は蒔いた。あとはこの種が、今後どうなるか……