Swindler
「……」
池に叩き落され、水に浮かんで見る夜空には、さっきと同じ月が、相変わらず綺麗に浮かんでいた。
10秒くらい、池に漂うように身を任せて、気持ちの整理をして、僕は池から立ち上がった。
敷居をまたいで、噴水の外に出る。ローファーが水を吸って、グチャグチャと音を立て、夜風で濡れた体が一気に冷えた。
僕は再び噴水の縁に、そのまま腰掛けた。
「――ゴホッ、ゴホッ……」
――あぁ、折角今日おろしたばかりの上等のタキシードが台無しだ。トモミがまた怒るな……
そんな考えが一瞬頭をよぎった。
濡れそぼった体からは、今も体のどこかしこから水が滴り落ちる。常に噴水で循環していたからか、池に落とされても、あまり変な臭いとかはしなかったけれど、やっぱり気持ち悪い。夜風が吹くと、悪寒が走る。
別にあいつらにシャンパンをかけられたことも、池に落とされたことも、どうでもいい。女をたらしこんでいると思われていても、特に僕に問題はない。実際の僕の生活に、女の影響はさほどないわけだし。
――怒る気力も沸いてこない。
さっき僕を会場で罵倒した連中だって、トモミのことを馬鹿にされたのには腹が立ったが、自分のことに関しては、別にどうだってよかった。
「……」
――しかし、僕っていうのは、どこに行ってもこうして嫌われてしまうんだな。
小学校でも、中学でも、高校でも。
そして、家庭でも。
どんな場所にも溶け込めない。
昔からそれなりに出来がよかったし、溶け込む必要をあまり感じたことがなかった。どんな時でも、大抵のことは一人で何とかなったし、溶け込もうと無理に努力することもなかった。無理をするくらいなら、ひとりになることを選んでしまう。
だから、いつだって僕は自分以外の誰にも属せない――異端者だった。
そして、この財界にも順応できない自分を省みて、たまに思う。
もしかしたら、あの家を崩壊させたのは、あの家族ではなく、自分の方に原因があったのではないか。
少なくとも僕以外の家族は、それが幸せだったかどうかは分からないし、今更知りたくもないけれど、それなりにあの家庭では上手くやっていたのかもしれない。僕の妹は、飯も学費も与えられ、殴られたりすることもなかったわけだし。母と祖母の仲は最悪だったけれど、家庭内別居していたし。
商売は、今では商店街の人間から、嘘をついていて、恨まれているけれど、人間裏の顔なんてあって当然だ。それでそれなりに金だけはあった。僕を中東に売り飛ばさなくたって、裕福とは言えなくても、家族で最低限の暮らしができるくらいの金はあっただろう。
上手くやることが出来れば、あの家でそれなりの暮らしを享受する手が、ないわけじゃなかった。事実僕と境遇の大して変わらない妹は、それをやっていた。
ただ、僕だけがあの家に染まれなかった。家族5人のうち、僕だけ……
自分がその環境に染まる努力をしなかった――放棄したから、僕はあの家族の敵になり、そして僕はあの家を潰した。
だが、あの家庭という中で見れば、悪いのは僕だ。
どんな家庭だって、存続するために、構成員は皆努力をする。家庭だけじゃなく、学校のクラスや部活、スポーツのチーム、企業、法人、国――その枠組みで努力できない奴は、淘汰される。
当然の図式だ。
ある意味僕だけ、あの家庭で努力をしていなかった。だから淘汰された。
国連に異端者扱いされて、経済制裁を受けた僕は、国連に頭を下げて、仲間に入れてくださいとは言わずに、国連本部にミサイルを撃ち込んだ。結果国連は吹き飛び、ミサイルを撃った僕が生き残ってしまった。
正しいのはどっちだろう。
さあ、どっち……
「……」
僕は空を見上げる。
7年前、とある海辺の夜に見た、満天の夏の星空。それを肴に飲んだ安酒。
僕の最後の友との記憶。
あの日飲んだ酒は、最高に美味かったと思う。あのときの僕を取り巻く状況は最悪だったけれど、それでも、生涯添い遂げたいと思える無二の友がいれば、それでも酒は十分美味い。
だが、今僕がいる世界で飲む酒は、どこに行っても美味しくない。あの日よりも高い酒を、それなりに飲んでみたりもしたけれど。
今日の酒はその中でも格別不味い。
着たくもない服に、好きでもない女のお守り。
何より、自分を嫌っていると分かっている連中と飲む酒。
罵倒を肴にし、最後は頭から酒をかけられ、池に突き落とされた。
「……」
僕は、美味い酒が飲める場所を、確かに持っていた。
でも、自分で選んで、それを捨てた。
それが今僕に、何をもたらしたか。この世界に生きる僕に、何が残ったか――
「……」
何だか疲れた。さっき頭からかけられたシャンパンが、シュワシュワ音を立てながら、僕の心を溶かしてしまったかのようだった。
昔の僕なら、そんなことをされたら、きっと腹を立てていただろうけれど……
むしろ、連中が僕を『詐欺師』と呼んだことに、妙に納得している自分がいる。
――そうだ。実際の僕は『正義の味方』なんかじゃない。
勿論、目指した当初はそうなりたいと、僕も思っていた。自分の能力を、多くの人のために費やせたらと。大切な人に語った志を忘れたくないから。
だけど、『正義の味方』なんていうのは、酔狂でもなければ、存在するわけがない代物なんだ。いいことをして、王様とかから褒美がもらえるわけでもないし、経験値が上がって、レベルが上がるわけでも、金が手に入るわけでもない。続ければ、最後には自分の財産も健康も、全てを失って、やがて滅びる。
いれば必ずいつかは滅びる――それが『正義の味方』だ。
やっているうちに、それが段々分かってきて。
それが世の中の真実だと知った時、自分の今までしてきたことは、一体なんだったのだろうと、無力感に襲われた。
それでも、僕の目の前には、僕をさっき罵倒した連中、池に突き落とした連中のような手合いが沢山いた。あの家族と同じ、たいした実力もないくせに、人の上に立って、下の人間から多くのものを搾り取り、私腹を肥やし、弱き者をいじめて楽しむ、いいことは何一つ行っていない人間。
旅路の途中、そんな人間に搾取され続ける人間を見ていると、まるで昔、家族から塵芥のように扱われ、人生を玩具にされ続けてきた自分を見ているようで。
家族への復讐心をくすぶらせていた僕は、そんな人間達を強く憎んだ。そんな人間達を見ていると、あの家族を思い出したから。
そんな僕の中で、自分でも知らないうちに、当初の目的が変化していってしまった。
弱い人を守りたい、ではなく、生きる価値のない権力者を、叩き潰したい、と。
無力感に襲われ、くすぶっていた気持ちと、怒りに突き動かされて、僕はそんな人間を次々に叩き潰していった。家族への復讐も、その延長線上の出来事。
ここ数年は、そうすることで、無力感に襲われた自分の憂さを晴らそうと、躍起になった。この財界に来て、自分が下郎として扱われる度に、目に映るもの全てを消したいと思うことが更に増えた。
僕が『正義の味方』なんて言われているのは、単純にそうした連中を葬ったことで、そいつらの専横から解放された人間達が出ているだけ。
結果的にその人達のためになっているだけで、僕自身は、単なる自分の憂さ晴らしのためにやっただけ。正義なんて、一度だって思ったことはない。
何度も手を汚したのに、周りからは、『正義の味方』だと思われている。
しかも僕は、結果的にそうなった環境を、更に自分の都合のいいように改ざんしている。
僕が『正義の味方』として称えられた姿を見れば、あの時袂を分かった友も、きっと安心してくれるだろう。
今でも僕は、元気にやっていると。
友との誓いを、忘れてはいないと。
そんな姿を大切な人達に見せるために、僕は本当の自分を隠して、『正義の味方』を演じ続けてきた。
僕を信じてくれている人達だけじゃない。あの時生涯添い遂げると誓った人にさえ、『正義の味方』の振りをして、人々を騙し続けている。
それが今の僕の正体――『正義の味方』の振りをして、自分の都合のいい状況を演出し、友にまで嘘をつき続けている……
『詐欺師』と言われても無理はない。
もう財界の連中だって、僕の敵意に気づいているんだ。だから僕を嫌い、憎む。
罵倒されるのだって、シャンパンを頭にかけられ、池に突き落とされるのだって、全部自分のせいだ。
あの日――7年前、大切な人を捨てたその時から、ずっと自分ひとりで決めてきた道が、今、ここに繋がっている。
「……」
――最低だ。
僕の近くにいて、僕を信じているトモミやエイジも、僕に騙されている。
大事な人にまで嘘をついて、いまさらもう合わせる顔もないっていうのに、今もこうして嘘をついて『正義の味方』を演じて。
――もう僕は、あいつらに合わせる顔がない……
「――ユータ……ジュンイチ……」
詫びるように、僕は夜空にその名を呟いた。そうするしか出来なかった。
時々自分でも分からなくなる。今の僕は、かつてあいつらに語った志を守り、あいつらに示したいと、本当に思っているのか。
それが僕の本心なのか。
7年前、殺伐とした生活の中、笑うことも忘れた僕に、あいつらは僕に笑うことを思い出させてくれた。まだぎこちないままだったけれど、何だか嬉しかった。あいつらと一緒に笑って過ごせる日々が。
でもあいつらが教えてくれた笑顔を、もう僕は、思い出せない。最近は感情が表に出ることもほとんどなくなってしまった。
日に日に、あいつらと過ごした日々が、僕の中で薄れていく……時間は僕の中で悪意を持って、僕とあいつらの最後のつながりを風化させようと、容赦なく風を浴びせ続ける。
それだけでも、僕があいつらに語った志を、忘れ、風化させかけている証拠だ。
それでもあいつらに、形だけの志を見せようとする『詐欺師』に成り下がった僕は、もうあいつらに、合わせる顔もない……
それでも、そうして嘘をついて、自分を演じ続けることにも、もう疲れてしまった。
もう僕には、生きる意味のひとかけらさえ、残されていない……