Infringement
ガレージに自転車を置いて、僕は玄関のドアを開けた。玄関には親父のローファーがある。こんな日に家にいやがる。それだけで憂鬱な気分になった。
階段とは逆の方向に風呂場がある。そこに行って、脱衣所に置いてある洗濯機に、今日使った試合用のユニフォームを入れて、水を溜める。洗剤を入れて、僕は蓋を閉めた。
2階に上ると、上ってすぐ前には二つのドアがある。左が祖母の部屋、右が妹の部屋だ。祖母の部屋から、NHKのニュースだろう、単調なアナウンサーの声が聞こえてくる。
リビングに入ると、今日は珍しく家族3人が食事をしていた。祖母とは家庭内別居中。飯も別だ。
家族3人は、僕の方を揃って見たが、すぐにご飯に視線を戻した。テレビのバラエティー番組の喧しい音だけが響いていて、会話は全くない。顔は石膏像のように凝り固まっていて、誰もが顔さえ上げようとしない。よく見ると、親父の眉間に皺が寄っていて、目は不機嫌そうに血走っている。何だか気味が悪くなってくる。『団欒』なんて言葉のかけらもない、食事も凍りそうな、あまりに悲惨な食事。長年続いたいつもの光景。
そこで妹が食べ終わり、すぐに立ち上がった。そこに立ち尽くす僕を一瞥に睨んで、わざとぶつかって押しのけて、祖母の部屋の隣にある、自分の部屋へ帰って行く。
「その皿、片付けてよ」
母が今まで隣に座っていた妹の、食い散らかしてほったらかした皿を指差した。
「何で俺が・・・・・・」
言いかけると、僕の文句をかき消すように、親父が不機嫌そうに口を開いた。
「グダグダ言わずにやれよ、グズ」
「・・・・・・」
僕はしばらく親父を睨んだが、一直線に歩を進め、妹の食い散らかした皿を勢いよくまとめて掴み、流しに投げ入れた。ガチャン、という大きな音がした。
「そういえば」
また親父が、台所から出てきた僕を嘲笑して言う。
「お前、月初めだから、奨学金貰っただろ? 出せよ」
「・・・・・・」
僕は親父の嘲笑を見た。明らかに僕の尊厳を蹂躙することを愉しんでいる顔だ。
こいつは、僕が奨学生だということを、どう認識しているんだろう。息子なんて認識はほとんどない。ただ頭の上げられない、カツアゲの標的くらいに思っているんじゃないか?
「――嫌だ。渡せない」
僕は断った。たった一万円と言うかもしれないけれど、これは僕の努力の証明だ。お前達に屈服する僕ではないことを、自らの力で証明したという、僕の誇りだ。そこまで蹂躙されてたまるか。
「あぁ? 何だとこのクソガキが」
親父の声は、部屋に反響した。酒を含んだまま、よろめきながら立ち上がり、僕の胸倉を掴んだ。
僕も親父の目を睨み返した。酒の脂で緩んだ顔を血走らせているこの豚野郎が、異常に憎かった。
この豚野郎は、自分の家族から逃げて、散々外で遊び歩いて、家庭内での憂さを晴らしていた。そして僕は幼い頃から、この豚野郎が家に残したものに散々苦しめられた。腕力が強いってだけて、この豚野郎は僕を支配した気になっている。暴力という調教で、幼い僕をこき使い、外へと逃げ続けた、この臆病で卑屈な豚野郎が、また僕を暴力で踏みにじろうとしている。
駄目だ。ここで引いちゃ駄目だ。引いたら今までと同じだ。
僕は憎しみを闘争心へと変えて、胸倉を掴む親父の手を、勢いよく払いのける。
「奨学金は、大学に行くために貯金するんだ。一人暮らしのための生活費にするんだ」
襟のシワを、反射的に手をやって直す。目を背ける僕に、親父は不機嫌そうに言った。
「生活費だぁ? こっちは仕事して、テメエは遊んでられるんだろうが。生言ってんじゃねえよ。今日もタマ遊びしてたんだろうが。いいご身分だなぁ、オイ」
「・・・・・・」
よく言う。自分は昼間からパチンコに行くことだって珍しくないくせに。
しかしこれは最終兵器だ。これに立ち向かうことは、絶対に出来ない。僕がこの家に住む限り、トランプのジョーカーは、常に相手に握られているんだ。
県予選の決勝戦でMVPの活躍した僕が、さっきからどうしてこんな蔑みを受けなくてはいけないのか。どうしてこんな豚野郎に、この僕が主導権を握られっぱなしでいるのか。
「これは俺が必死に勉強して、学校に認められてもらったお金だ。これは、あんた達のお金じゃない。だからこの金は、俺が自由に使う」
僕は毅然と言ったが、親父はそれを鼻で笑い下げた。
「その高校に通わしてやってるのは、俺らだろうが? その金を高校の授業料に回して何が悪い?」
その言葉を聞くなり、親父は僕の胸倉を掴む腕に力を入れ、僕の体は少し浮き上がった。
「まだ自分の立場がわからないらしいな。金を出してもらってるガキが、親に逆らうな!」
言うなり、親父の裏拳が僕の頬に入った。腕力だけは強い親父の一撃に、僕は首筋に強い衝撃が走り、筋がゴムみたいに引き伸ばされた感じがした。鼻の奥から血が伝ってくるのがわかった。
目がちかちかし、頬骨がまだじんじんしているうちに、親父は胸倉を掴む手を離し、今度は僕の肩を左でつかんで、ショートアッパーの要領で、僕の腹に右拳を入れた。不覚にも、先程の一撃で記憶が飛んでいた僕には、受身の体勢を取るなど当然出来るわけもなく、拳は深く腹にめり込み、僕は息を漏らして、腹を押さえながらその場に膝をついた。
何度か咳き込みながら、僕はちかちかした目で親父の顔を見上げた。
親父の目は、酔っているのも手伝って、奇妙に血走っていた。煙草の脂で汚れた黄色い歯を見せて、口元は狂的に歪んでいる。
思った。こいつに論理的な話なんか、意味がない。
こいつはもう、イカレかけてるんだ。
この家は、はじめからどうしようもない状況にあった。金欲、世間体、一族――色んなものが入り混じったこの家は、もはや常識や理論など、存在する余地はなかった。
この家に、思考を働かせること自体が存在しないのだ。考えれば、耐えられなくなるから。それでも住むためには、開き直り、狂うことを享受するしかないんだ。
この豚みたいな男は、開き直って、まともに暮らすことを放棄したんだ。
恐らく外では、家から逃げるために、友人に媚を売る人間なのだろう。僕と同じ、結局同じ穴のムジナに過ぎないこの男は、友人からも見捨てられると、この家しか居場所が残らなくなってしまう。だから他人に媚を売るしかない。そんな自分が惨めで仕方ないんだ。
だから家では、僕のような下手の人間を、暴力で飼い慣らし、屈辱的な自分を忘れようとしている。目下の人間をいたぶる、このような暴力を心の底から愉しんで、自分より目下の人間がいることを確認し、惨めな自分から目をそらし、ほっと一安心している
――そうして形成したものが、この男の『居場所』なのだ。
母親もそうだ。我が子が暴力を受けているのを見て、もはや助けようともしない。
この家で、自分よりも酷い目にあっている人間がいる――それがあの女の、心の支えであり、『居場所』なのだ。
この暴力が、いつか自分に飛び火するかも知れない。そんなこと、考えたくもない。自分の近くにその問題を感じたくないから、現在、その役を担っているのが、自分ではない他の家族だということだけでそれを処理し、自己を確立しようとする。
母親が僕をつなぎとめているのは、もはや愛情でも母性でもない。親父と同じ、憂さ晴らしのための道具――そして、自分より下の立場にいる人間としての存在価値でしかない。
幼い頃から、そのための道具として、育てられてしまった。気が付いた時には、もうそこから逃げられなかった。愚痴を訊いて当然、気に入らなければ叩いて当然。逆らっても、学費を握る限り、大怪我はない――僕はこの女狐に、物心ついた頃からそういう家畜みたいな存在に『形成』されてしまった。
親父から蹂躙を受ける役目は、自分に飛び火してもおかしくない。『やられ役』としての僕の立場が一転すれば、自分はこの家庭内で、身を守るものを失う。僕という『盾』の存在がなくなれば、無防備となった自分は、今の僕のように、酷い仕打ちを受けることになるかもしれない――
母親は、そう考えている。
それを恐れている。
だからいつも目下の人間――自分が長年かけて育て上げた下僕――僕の存在を確認し、安心して自己を確立する――それがこの女の『居場所』だ。
母親が僕に望むのは、憂さ晴らしのための『やられ役』。親父の暴力から身を守る『盾』――そんな役割。
それだけだ。
もう『息子』なんて思われていないだろう。僕は『道具』に過ぎないのだ。
僕は違う。狂ったり、開き直ることも選択できなかった。親父のように、外に逃げ場もなかったし、子供だったから、力もなかった。周りで弱者を作ることも出来ず、現実を受け止めねばならなかった。狂うことも出来なかった。それを愚かなことだと判断できる頭を持っているということもあったが、それ以上に、僕の人生をこいつらに握られていることを、どうしても忘れることが出来なかったからだ。その現実は、いつでもリアルで、僕に狂うことを選択する余地を与えなかった。
咳き込むと、口のどこかを切ったらしく、血が僅かに飛び散った。
親父はそれを見て、狂的な笑い声を、かすかに漏らしていた。僕は顔を上げると、親父の影にいる母は、僕の姿を見て、ただそれを見ているだけ。哀れみも何もない。目に浮かんでいるのは、ただ、自分より下の存在の再確認と、自分が面倒から逃れたことへの、安堵の感情だけ。
こいつらは、自分より立場の低い人間を作らなければ、生きていけなくなってしまったんだ。自分より立場の低い人間を蹂躙して、憂さを晴らさなければ、自己処理が出来なくなっているんだ。
僕は口元を手で拭い、立ち上がった。しかし、もはやそれが虚勢であることは、自分でわかっていた。今の僕は、親父に殴りかかりたい衝動より、もう殴られたくない、と思う気持ちの方が強かった。
「……っ」
我慢していたのに、それは来た。
足が……震えている。
いや、足だけじゃない。全身が震えているのだと認識するのに数秒かかった。震えが段々大きくなる。僕は俯いて、腕を組むようにして両腕を必死に押さえた。だけど震えが止まらなかった。
正直に言う。僕は親父が怖い。
腕力では僕は絶対に勝てない。小さな時から、親父の腕力による鉄拳に、何度も地べたを舐めさせられた僕は、心に染み付いて恐怖が蘇ってきて、それを隠しきれなくなる。今なら勝てるかもしれないが、子供の頃の恐怖が強すぎて、もはやそれがトラウマになってしまった。小さい頃からの条件反射で、一発殴られると、体が震えてしまうのだ。
親父はそんな僕の内に隠した恐怖の存在を見抜いたらしい。一発入れておけば、あとは潰すのは簡単、とでも思ったのだろう、酷薄な笑みを顔に浮かべて、こう吐き捨てた。
「いいさ、お前が親のいうことも聞けないんだったらそうしろよ。その代わりこっちもお前を見限るからな。その時は学費も出さねぇから、退学して、とっとと出て行けよ」
「・・・・・・!」
力が湧き上がるように、それが僕の肉体という溶媒から飽和して、ほどばしるような武者震いが、僕の体を駆け抜けた。
無責任な他人――外様の親族は言う。いくら親が気に入らない人間であろうと、自分を養うお金を出してもらっている以上、親には『感謝』すべきである、と。
『感謝』だと? ここまで辱められて、そんなことできるはずがない。