Champagne
今僕が生きるのは、財界という世界。
この世界での僕の評判は、総じて最悪と言って差し支えないほどに悪かった。
日本に帰って創業2年で1兆円企業を作り上げた僕は、他の人間から嫉妬を受けることもそう珍しくない。そして大衆に必要な生活必需品のほぼ全てを取り扱っていて、将来的には旅行や広告、保険など、文化や老後の分野にも事業を広げようとしているグランローズマリーは、他の財界の人間の狩り場を荒らす、新興の盗賊のようなものに他ならない。
増して、その旗頭の僕が、大衆から『正義の味方』として絶大な指示を得ていることは、反面、他の財界の人間を、汚いやり方で自分達から金をむしりとる悪者に仕立て上げることだ。僕によって面目を潰された財界の人間は数多くいるのだ。
そんな財界の人間は、会う度に僕をこうして蔑視し、蔑称で呼ぶ。『犯罪者の息子』というのもそのひとつだ。
「ちょっと待てよ」
僕はそのまま立ち去ろうとする二人の男を呼び止めた。
「僕のことは何と言おうが構わないが、それで彼女まで侮辱することはないだろう。この場で彼女に対しての侮辱だけは取り消せ」
僕はトモミの方を一瞥してから、また前の二人を睨んだ。
「社長……」
トモミは心配そうな面持ちを僕に向けていた。
「あ?」
しかし、一人の男は僕に怪訝な表情を向けた。
「何だ、その目。今にも俺達に殴りかかりそうな目だな」
「怖い怖い――さすが親をその手で殺しかけた男だ。俺達もそうやって殴り殺す気かい? 『人殺し』のサクライ・ケースケくん」
二人の男はにやついた顔で、僕を見下す。
「全く、警察も何をしているんだか――親を半殺しにするような男、刑務所に閉じ込めておかないから、俺達にまで暴力を振るう気でいやがるぜ。怖くておちおちパーティーも楽しめやしない」
「本当本当、しかもそんなことをした奴が、『正義の味方』気取りするだけでも傑作だってのに、この俺達に人としての道をお説きになるとは――こりゃ何かのコメディか? この男が正義やらを語る資格があるのかよ」
そう言って、二人は顔を見合わせて爆笑する。
「……」
僕は拳を握り締める。
犯罪者の息子。親殺し――
7年経った今でも、僕はまだ、あの家族から逃れられないでいる。
僕があの家族に裁きを与えても、僕は過去から逃れられない。
「――しかし、偉くなったもんだぜ。数年前まで乞食やってた人間が、俺達と同格になったと思い上がっちまうとは。気に入らなければすぐに殴りかかりそうな野蛮人と同列にされるだけでも、こっちは不愉快だってのに」
そう言って、二人の男は僕に詰め寄ってくる。
「思い上がるなよ。乞食が。俺達と同じこの場にいるだけでも不愉快だってのに、そのドブ臭い臭いをこっちにまで撒き散らすな。一度お前の立場をもう一度考えてみるんだな」
そう言い残すと、二人は高笑いしながら僕の横を通り過ぎていく。
「……」
一人取り残された僕は、考えていた。
確かにグランローズマリーは、多くの財界の人間に多かれ少なかれ影響を与えた。
だけど、別に僕は、財界の人間相手に喧嘩を売ろうと思ったことは、一度もない。
僕はただ、僕の目的のために、前に進んでいただけ。
さっきの連中も含めて、財界の人間にここまで嫌われるいわれはないはず。
それなのに……
「社長……」
一人立ち尽くす僕に、トモミが申し訳なさそうに寄ってくる。
「――トモミさん。すみません。僕のせいで、トモミさんまで侮辱を受けて」
ひどく静かな声が、自分の喉から漏れた。
トモミはふるふると、何も言わずにかぶりを振った。
「サクライさん」
背後から、レナの声がした。
「全く、勝手にエスコートするはずの私を置いて、どこかへ行っちゃうんですから」
「……」
「さあ、もうすぐダンスも始まるんですから、しばらくは私と一緒に……」
そう言って、レナは僕の手を取ろうとする。
僕はそんなレナの手を振り払った。
「な……」
レナは生まれて初めて受けた侮辱に、声を失う。
「ちょっと夜風に当たりたいので。外に出てきます。トモミさん、10分くらいで戻りますから、お嬢様が何かお困りなら、助けてあげてください」
そう言って、僕は二人を置いて、パーティー会場を一人出た。
グランローズマリーの運転手は、ホテルマンのような制服に帽子をかぶり、羽ばたきでセダンの掃除をしている。その傍らにはリュートが待っていた。
僕の匂いを確認したのか、暗い駐車場でも、リュートは僕を見つけ出し、僕の方へ駆けてくる。それに気づいて、運転手が僕に敬礼する。
「差し入れです」
僕は料理の包みを差し上げる。そして運転手に差し出した。
ここに来る前、ウェイターに頼んで、立食パーティーの料理を適当に折につめてもらい、ワインも拝借してきたのだ。料理はキャビアやフォアグラなんて贅沢な贖罪も並んでいたけれど、このパーティーに来る連中にとっては、そんなものは珍しくもなんともないのだ。だから、どんな料理もワインも必ず余ってしまう。どうせ余ってしまうなら、おなかを好かせている人に食べてもらったほうがいいからと、僕はこういう席ではいつも運転手にこうして料理を差し入れている。
「社長、わざわざこんな事をしてくれなくても……料理を包ませるなんて、いつも恥ずかしいでしょうに」
僕の倍近い歳の、中年の運転手は、そんな僕にもかしこまった態度を見せる。彼もトモミと同じ、1年前に雇った。それまではどこに行くにも自分で車を運転していた。
「いえ、いつも運転をしてもらって、その分僕の仕事がスムーズに進むようになったので、そのお礼ですよ。運転があるから、お酒はまだ飲めないでしょうが、お土産に持って帰ってください」
そう言って、赤ワインとシャンパンのワインボトルを二本とも、運転手に預けた。
「その料理、フォワグラとか入ってるらしいですよ。お子さんも喜ぶんじゃないですか?」
僕は運転手と並んで、セダンに背中を預け、にっと笑って見せる。
そして空を見上げる。都内のど真ん中なので、星なんて見えないけれど、もう秋も近い。月が東京でも綺麗に見える。
「しかし、いいんですか? パーティーを抜け出して」
運転手が心配そうに訊いた。
「――お嬢様のお守りに、少し疲れましてね……」
僕は哄笑する。
「はは、しかし社長も大変ですな。女性におもてになるから、こういう席で一人の女性の面倒を見るのは、女の戦いに巻き込まれかねませんからなぁ」
「はは……」
僕は運転手と話をしながら、乗ってきた車に置いてきた僕の荷物から、缶詰を取り出した。
「リュート、散歩がてら、お前も飯にしよう」
僕はリュートを連れて、駐車場からもと来た道を歩き、会場の敷地内の石畳を少し歩き、敷地の中心の噴水の淵に腰を下ろした。どうやらこの洋館と庭は、この噴水を中心にシンメトリーに作られているみたいだ。
もう入場者もないし、外に出ている者もほとんどいないし、マスコミももう引き上げているから、噴水の周りはとても静かだった。
コンビーフと同じ型の缶詰を開けて、中の、鳥のささ身とごろごろした野菜の餌を与える。リュートはそれを上品に食べる。
「……」
僕は噴水に腰掛けながら、そんなリュートの様子を見ていた。
今僕が、世界で一番大事なものといったら、やっぱりこいつになってしまうのかな。
財界で一人も仲間がいない嫌われ者の僕が、唯一心のつながりを感じられる相手――それがこのリュートだった。
旅をして7年、孤独も飢えも、全てこいつと乗り越えてきた。無力だった頃の僕を知る、無二の相棒だ。
リュートと二人で旅をしていた頃は、金もなかったし、生活に余裕はなかったけれど、それでも二人で力を合わせた生活は、貧しいながらも、どこか暖かさがあった。
――幸せだった。だけど、あの頃は何とか這い上がりたい一心で、それに気がつくことが出来なかった。
そして今はこうだ。今僕がいるのは、誰もが僕を嫌っている世界だ。
あの頃の方が楽しかった。こいつと二人、力を合わせていた頃。
そして、7年前、僕の人生で唯一、愛と優しさに満ちていた、あの時……
何で僕はこんなところへと来てしまったんだろう……僕はこの世界に来てから、どんどん気持ちが荒れていくようだ。
――何で、僕は……
「見ろよ。また犬将軍が犬を連れてるぜ」
僕に向かって、嘲笑交じりの声。僕は顔を上げる。
3人の男がそこに立っていた。どれもこれも、僕と同い年くらいか、それより若干年上くらい。顔が酒の脂で緩んでいる。なんとも緊張感のない顔立ちだ。
一人はいかにも勉強漬けのエリートが大人になりました、という感じの、小太り眼鏡。もう一人は親の金で遊び歩いてますという感じが見え見えの、茶髪のソフトモヒカン。もう一人は、なんとも優男で、それでいて顔に差別の色がべったりくっついた、神経質そうな男だった。
この歳でここに来るなんてのは、僕以外では、レナのように、一族の威を駆って参加させてもらっている、家柄だけのボンボンに決まっている。
「オイオイ、こんなところにまでその汚い犬を連れてきてるのかよ」
茶髪の男が皮肉に笑う。
「馬鹿、この方を誰だと思ってるんだよ。人よりも犬が大事な犬将軍だぜ」
神経質そうな男が茶髪男の方を小突く。
「ハハハ! さすが犬将軍様だぜ。この犬と毎晩寝てるって噂だぜ」
小太りの男が言うと、3人揃って大笑いする。
「……」
『犬将軍』も、僕の蔑称だ。
江戸時代、生類憐みの令で知られる、犬を愛した暗君、徳川綱吉にかけて名づけられた通り名。リュートをどんな場所にも連れていることで、僕をそう罵る財界の人間は多い。
目の前にいる連中は、そんな僕を馬鹿にしたくてしょうがない連中だ。特に財界の御曹司に多い、僕を下賤扱いし、同じ場に並ぶのも汚らわしいと思っている連中。
「……」
僕は噴水の縁から立ち上がり、その場を立ち去ろうとする。
――が、既に前は3人によって塞がれている。
「無視すんじゃねぇよ、気取りやがって」
茶髪の男が気勢を吐く。
「帝国グループの会長に気に入られてるからって、レナお嬢様にちょっかい出しやがって。そのまま帝国グループもいただこうとしているようだが、身の程知らずにも程があるぜ。乞食上がりのくせしやがって」
神経質な男が僕の肩を突き飛ばした。僕は一歩だけよろめく。
「過去の不幸で同情買って、商売しやがって。おまけに女を惑わせて、更に金をむしりとる気か? 顔がいいと得だなぁ。お前みたいな乞食でも、ここまでのし上がれて」
小太りの男が吐き捨てる。
「……」
そう言われたくないからこそ、7年前、僕は日本を出たのだ。誰一人僕を知らない場所で結果を残すまで日本には帰れないと思って、必死でやって、海外で名を上げてから帰ってきたのに、今でも僕を、そういう連中は跡を絶たない。
出る杭は打たれるもので、僕が気に入らない連中は、重箱の隅をほじくるように、僕の粗をこうして突いてくる。
「お前、自分がどんなもんだと思ってんの? その暗いルックスで女たらしこんで、高い宝石売りつけて、金儲けの枝を広げてる。詐欺師と同じだよな」
「……」
詐欺師――詐欺師か。
「――ウー……」
だけど、僕が何か言う前に、リュートが何か感じ取ったらしい。僕の傍らにいたリュートは、3人に向かって腰を落とし、低いうめき声を上げ始めた。牧羊犬であるシェットランドシープドッグのリュートは、こうして僕に危害が及ぼうとすると、その相手に飛び掛るための臨戦態勢に入るのだ。
3人は腰が引ける。
「何だこの犬!」
たかが犬一匹にこのうろたえ振りでは、こいつ等の力量もたかが知れている。
「リュート、大丈夫だ」
僕はリュートの傍らにしゃがんで、頭を撫でる。それが合図になって、リュートはすぐに唸り声を止めた。
その時だった。
僕の頭に、何か液体がどぼどぼと注がれた。シャワーを浴びるように、僕はその液体にずぶ濡れになる。僕から落ちる雫で、リュートまでもその液体に濡れた。
甘い香りと、肌に触れる微細な泡、そして、シュワシュワという音で、その液体がシャンパンであると気付いた。
「……」
今僕は、一体何をされたのか、一瞬理解できずに、そのまま固まっていた。
「ははは、悪いな。お前等、乞食臭いんで、シャンパンで洗ってやろうと思ってな」
小太りの男は、手にシャンパンの瓶を、口を下にしたままで言った。
すると、他の二人も手に持っていたシャンパンを、今度は栓を開けて、優勝したF1レーサーみたいに僕達に向けて発射した。
ぶしゅーっという音と共に、激しく放射されるシャンパンは、目に入ると激痛が走るので、目を反射的につぶってしまう。そうなるともうかわすことができない。されるがままだった。
それが終わると3人は大笑いだった。僕は前後不覚だし、リュートはシャンパンが目に入って、カン高い声を上げて苦しんでいる。
「よかったじゃねぇか。その汚い犬も、きっとシラミ臭いのが消えたと思うぜ。高級なシャンパンで洗ってやったからな」
俯いている時、誰かがそう吐き捨てたのが聞こえた。
すると、何かで僕の胸の当たりをどんと強く押された。目を閉じていて、状況の分からなかった僕は、その一押しで体を大きくよろけさせ、そのまま後ろの噴水に向かって倒れこんだ。
どぼぉん、という音とともに、僕は噴水のある池へと背中から落ちていた。
「これ以上、乞食がでしゃばったことするんじゃねぇぞ」
池に叩き落された僕に、そう吐き捨て、笑い声が遠ざかっていくのが聞こえた。