Permissive
都内の一等地の邸宅――大きな門をくぐると、白砂を敷き詰めた、静謐な庭園が、左右に広がっている。国立競技場よりもでかいその庭園の真ん中を、僕を乗せたセダンがとろとろと走る。
玄関先には、この家の執事やメイドが揃って僕を出迎えていた。僕はセダンを降りる。運転手がドアを開けようとするが、そこまでやってもらいたい願望は、僕にはない。ドアくらい自分で開けられると考える人間なのだ。
リュートが僕についてくる。
「サクライ様、お待ちしておりました。会長がお待ちです」
執事長らしき、姿勢の正しい、上品な佇まいの初老の男性がやってきて、僕の持つ鞄を預かろうとする。
「いえ、自分で持ちますので。それよりこいつを連れて行くことは、問題ありませんか?」
僕はリュートに視線を落とす。
「え……しかし、会長はお二人でお話しをしたいと……」
「構わん」
そう声がした時、僕の視線の先の、玄関の自動ドアが開いた。
そこには杖を突く、もう80歳を超えただろう一人の老人がいた。僕を出迎えていた執事やメイドは、一斉にそちらを向き直し、深く頭を下げる。
「まだ25で、この儂に会うというのに、犬を連れてこようとするとは、相変わらず肝の据わった若造だ」
「ザイゼン会長、ご無沙汰しております」
僕も頭を下げる。後ろで、既に車を降りているトモミも深く礼をした。
「サクライくん。いつもながら、仕事中に呼び出してすまんなぁ」
「いえ……あと、彼の同伴を許可していただいたついでに、私の秘書と運転手にも、部屋を与え、話の間、休息させてやって欲しいのですが」
「ふふ、相変わらずずけずけと注文をしてくるな。無礼もそこまで行くと気持ちがいい」
「……」
僕はトモミの方を振り返る。
「トモミさんもお疲れでしょう。会長の厚意に甘えて、ゆっくり待っていてください。その間に、トモミさんもドレスを持ってきたでしょうから、着替えを」
――僕は炉端のある和室に通される。僕から見て右手の障子の向こうには、縁側を隔てて、模様をつけた白砂に石という、枯山水風の庭が広がっていて、その向こうには、緑の芝生に松や榎が立ち並び、手前の白の庭園とのコントラストを作り出していた。遠くから鹿威しの音がする。庭の外には、人工の池と石灯篭も見える。リュートは障子と庭の間の縁側で、畳を傷めないように、ちょこんと座っている。
僕は下座で正座して、2メートル先の会長と正対する。「しかし君が、珍しくまともな格好をしているじゃないか。初めて見たぞ」
会長は炉端で茶を立てながら、僕の格好を見て、そう言う。
僕はトモミの見立ててくれた、カフスや靴なども含めて総額500万以上のスーツセットに身を包んでいる。さっきまでセットで2万もしないスーツを着ていたのだ。値段は一気に250倍に跳ね上がった。
「……」
自分が一個数千万、数億の宝石を売っているくせに、自分が500万の服を着ていることに違和感がある。
なんとも滑稽な話だけれど……
今、僕の生活は、理由でいっぱいだ。仕事をするのだって、パーティーに出るために、こうして着たくもない服を着るのだってそう。
自分の意思よりも、周りからの理由の方が先に立つ。
慌しい日々の中で、そんな理由が僕の中に、どんどん降り積もり、飽和し、沈殿していく。
それが自分の中に、何か濁りや澱みのようなものとして感じられる――
多分、前々からそのことは僕自身、薄々感じていたんだと思う。家族とのことにひとまず蹴りがついて、自分の内面の問題が顕在化した。
――まあ、それが人間の本来の姿なのだとも思うけれど……
「少し疲れた表情をしておるな」
茶杓で抹茶を掬いながら、爺さんは言った。
「新聞で読んだが、今君はベルギー王家の結婚式用のアクセサリーを作っているとか――どうやら徹夜続きだったようじゃな」
「ええ、今日それが完成して、明日ベルギーへ発ちます」
「ほほぅ、そうかそうか」
柄杓で炉端にかけられた茶釜の湯を、茶碗に注ぐ。
「できれば実物を見てみたかったがな」
「そう言われると思って、写真を何枚か持って来ました」
僕は自分の鞄から、さっき完成したばかりのティアラの写真を差し出す。
「ほぉ、しかし、これでいくらじゃ?」
「そのティアラだけで、34億です。他の装飾品を含めると、総額80億です」
「80億? 何じゃ、王家といってもそんな程度か」
爺さんは鼻で笑った。
「……」
この爺さんも僕の精製したアクセサリーを2つ買ったことがある。片方は500億、もう片方も100億を越す大口注文だった。
500億の方は、孫娘の20歳の誕生日記念に。そしてもうひとつは、愛妾へのプレゼントだったらしいけれど。
「王家といっても、運営資金は税金ですから、会長みたいに自由になる金があるわけじゃないんでしょう。仕方ありませんよ」
僕はそうフォローしておく。
とは言え、いくらヨーロッパ全土でトップクラスの政治的行事とは言え、税金で宝石に80億は、さすがに出し過ぎだと思う。勿論それはお客が決めることで、僕自身だってそれで金をもらう以上は、何も言いはしないけれど。
――でも、作る本人がそんなことを思うのは、変なのかな。
改めて考えると、僕は自分がこんな仕事をしているのに、自分の精製した宝石の価値が、よく分かっていない気がする。
勿論相場だとか、そういう数字としての価値は、ビジネスとして常にチェックしているのだけれど……
世の中の森羅万象の価値が全て数値化できないことを、僕はある程度理解しているつもりだし、本当に大切なものはむしろ、そうした数値化できない価値の方に多く含まれていることを、僕は7年前に学んだつもりだ。
そう考えると、僕の精製した宝石や装飾品は、そのお客にとって、唯一無二の存在になれているのだろうか。それだけの価値がある物なのか、分からなくなる。
勿論、大金を貰う以上、いい加減な仕事をするのは僕のプライドが許さないので、僕の造ったものは、どこに出しても恥ずかしくない、どこかの怪盗紳士に狙われても恥ずかしくない逸品だと思っているけれど……
――考えを巡らせていると、僕の前に、爺さんが立てた茶の入った茶碗を出される。
話をする際、この爺さんは大抵茶を淹れることから始める。日本一の金持ちが自らこうして茶を淹れるということは、僕はそれなりにこの爺さんに気に入られているということだ。
「いただきます」
実際は欲しくないけれど、僕は茶碗を手に取り、一口飲んだ。残念ながら僕は正式な茶道の礼儀など、全く心得ていないから、見様見真似の作法で飲む。
「しかし、君のところもようやく1兆円企業の仲間入りをしたそうじゃな。まことに祝着至極」
茶碗を置いた僕に、爺さんが言った。
「はぁ、どうも」
手を突いて、軽く頭を下げる。
「しかし、君の宝石の売り上げを会社に投入しているとは言え、たった2年で、売り上げ1兆なんて、そうそう出来ることじゃない。君の手腕には脱帽じゃな」
「はぁ」
「それに、君の会社を見る限り、あまり有能そうな人間はいないのだから、尚更じゃな」
「……」
「君が先日アップした、新入社員募集の動画を見せてもらった。どうやらまだ君は、正義の味方をやることにこだわっているようじゃな」
「……」
現在9月――いわゆる新卒を対象に就活シーズンが到来するために、グランローズマリーも新入社員を迎え入れる準備を進めている。この1年でかなり業績を上げ、市場も拡大したため、今年も500人前後の新入社員を募る予定だ。
そしてこれは、僕が日本に帰国した年から、恒例としてやっていることなのだが、募集要項と合わせて、採用に関するメッセージを、僕が自らの口で説明し、それを動画にして、動画サイトにアップロードしているのだ。今年も先日、新しく取った動画をアップロードしたが、配信10日で80万PVを突破していた。滅多にメディアに自分の姿、声を出さない僕と、グランローズマリーの注目度が高い証拠だ。
「はっきり言って僕の会社は、あまり一人の人間に金は出せない。だけど、今クソみたいな人生を変えたいと思っている奴――そんな奴等を待っている。僕達が目指しているのは、正義の味方だ。意味のない人生を送っている人間、うちの会社で世のため人のために働いてみろ。必ず世界が変わる。俺達で世界を変える――か。君の今年の動画の台詞じゃったか。君はわざわざ落ちこぼれを大量に採用して、優秀な人材を雇いたがらないんじゃな、相変わらず」
「……」
グランローズマリーには、東大、京大、早慶上智など、いわゆるエリート街道を走ってきた人間が、社内にほとんどいないという特徴がある。
働いているのは、二流大学の卒業生や、前に務めていた会社が倒産して失業してしまった、行き場のない人間、人生を一度ドロップアウトしてしまったり、経歴に多少の傷があって、この就活難の時代に職に就けない人間など、他社が敬遠するような人材が主だ。この会社を立ち上げた時、数千人の社員を統率するために、僅かにその部署のエキスパートを雇ったが、いずれも学歴などはなく、現場叩き上げでノウハウを培った人間だった。
「君がメディアに出ない代わりに、よく君のところの副社長が、マスコミなんかに取材を受けているが、あの大男、とても君ほどの男が右腕に据える器量があるようには思えんのじゃがな」
爺さんが口にしたのは、エイジのことだった。
「君の会社はもっと優秀な人材を雇うべきじゃないのかね。せめて君の近くにいる人間は、もっと優秀な人間で固めるべきじゃろう」
爺さんは僕の目を見据える。
「――確かに、会長の仰るとおりだと思います」
僕は背を正す。
「確かに、うちの副社長の実力は平凡です。あいつだけじゃない、うちの会社にいる人間のほとんど全てが、実力は十人並みでしょう。会長の帝国グループに比べれば、烏合の衆です」
僕はそれを認める。
「ですが、うちの副社長は、元不良だったのを、その時の仲間を引き連れて、ボランティアに明け暮れて、それまで自分を疎んでいた社会から、感謝をされるまでに至りました。会長も見たと思いますが、あいつはあの通り、見た目も怖いし、多くの人に避けられ続けたんです。でもあいつは自分の力で、そうした人達に歩み寄った――自分の力で這い上がったんです。僕はそんなあいつに、うちの会社の象徴になってもらいたいんです。それが僕があいつを副社長に据える理由ですよ」
そう、エイジは昔から、家庭環境が悪く、成績も悪く、その上腕っ節が強い暴れん坊で、風貌も威圧的で、他人から怖がられ、疎まれ続けた。エイジ自身も、そうした他人を避け、反骨に生きた。
エイジだけじゃない。姿形の見栄えが悪いとか、一度の自暴自棄の行動とか、一度の過ちや、生まれついての環境などで、チャンスに恵まれず、くすぶっている人間は沢山いる。
今の日本は、一度つまずいたら、その理由がどうあれ、大部分の人間は、二度と這い上がれない――そんな社会だ。勿論人間は全て平等じゃないのだから、それは当然かもしれないが、いくら努力をしても、欲しいもの、人並みの幸せにすら手が届かない人間は沢山いるのだ。
僕はそんな人間のやる気を買っている。その中でエイジは、あの風貌や過去の経歴があっても、ここまでになれたという生きた証になって欲しいと僕は願っていた。それは、何でも器用にこなせる僕では意味がない。あいつのように、決して優秀ではない人間が成してこそ、意味があるのだ。
「うちにはエリートはいません。ですが、うちに来た連中は、皆人生ラストチャンスくらいに思ってやってますよ。そういう人間は強いですよ。一流の奴らが集まって一流の結果出すなんて、そんなの当たり前じゃないですか。それなら僕は、そんな、一度はこの社会に不要のレッテル貼られた奴等が、社会を動かし、社会を変えるようなシーンを見たいんですよ。そういう人間が這い上がって、世の中を動かす側に立ったら、きっとそいつらは、他の人に優しくできるでしょうし、きっといい世界になると思うんですよ」
僕はそう啖呵を切る。
「それに、はじめから経歴の立派な人間を雇って、他の奴を使えない、って言って切るのって、裏を返せば、うちの会社に人間を育てる実力がない、って言っているようなものだと思いますしね。はじめから優秀な人間を使うより、人を育てた方が面白いじゃないですか」
僕はにこりと笑って見せる。
「ふふ――若いくせに、この儂に意見するとは、相変わらず肝が座っておる」
爺さんは嬉しそうに笑う。
「しかし、だからこそ勿体ない――君が正義の味方の真似事や、人助けなどにうつつを抜かさずに、その才能を使っていれば、グランローズマリーは今頃、財閥のひとつも切り崩していたかも知れんのに……」
「……」
「何度も言うが、君の唯一の弱点は、その甘さじゃな。実業家をやるには、相手のことを考えすぎる。その甘ささえなくせば、君はさらにもっと高みへ行けただろうに……出来の悪い社員の面倒を見すぎて、君の才能が殺されておる。君が人助けなどをするよりも、君ほどの才能を殺すことのほうが、世の中にとっては罪だと思うんじゃがな」
出た。いつもの展開だ。
この爺さんはこうしていつも、僕の行動を叱る。実業家として、僕は甘すぎる。それではいつか足元を掬われてしまうぞ、と。
そして――
「得に君は、随分とサッカーに金を投資しているらしいな。確かに君は昔、サッカーの名選手だったらしいが、日本ではサッカーなんて、スポンサーに赤字しか呼び込まないことくらい、君も分かっているだろう。昔やっていたからといって、義理立てする必要はないのではないかね」
「……」
グランローズマリーのもうひとつの大きな特徴。
それは、積極的にサッカーへの投資をしている点にある。
僕は3年前、イギリスにいた頃から、既に倒産寸前だったJリーグのクラブチームも買収していて、僕の地元、川越市にホーム移転させ、その年にJ2を制覇して、今シーズンは現在J1の首位に立っている。
僕の方針で、このクラブはサポーターの声によって運営される仕組みになっている。クラブの年間収支を毎月1円単位でサポーターに報告、毎試合後、匿名投票でそのゲームの殊勲者を投票してもらい、その投票数によって選手にボーナスが出るし、給与の変動もサポーターの声を反映して決められる。補強や人事も、ある程度サポーターとの意見を交換して、必要な選手のタイプなどを考慮して動くなど、実に風通しのいいチームであることと、一人ひとりがクラブ経営に密接に関われる、他にないチームであるため、倒産寸前から、一気にJリーグ1の人気クラブにまでのし上がり、黒字経営が続いている。
他にも僕は、チャリティーマッチの運営や、日本代表への用具の支援、子供達のサッカー教室の設営など、サッカーに関する業務も多く手がけている。
勿論日本でサッカーが儲かるコンテンツでないことくらい、僕も重々承知している。正直儲けはほとんど期待できないビジネスだ。この爺さんが僕にそれを咎める気持ちも分からなくもない。
だけど、僕はやはり、サッカーというスポーツに、今も関わっていきたいのだ。
7年前、サッカーというスポーツの素晴らしさを僕は知った。その時の思いを、まだ忘れてはいないのだから。
「耳が痛いですね……」
僕は苦笑いを浮かべて、丁寧に深々と、慇懃なお辞儀をした。
「会長のご厚意、痛み入ります。重々肝に銘じましょう」
僕の気持ちをこの爺さんに説明しても、きっと分かってもらえることはないだろうから、面倒なので僕は折れることにした。
「しかし会長、今日は私に、そのような注意をするために、私をここへお呼びになったのでしょうか」
僕は単調直入な話を求める。
「おお、そうだったな、すまんな」
爺さんはふうと息をつく。
「実は今日君が出席するパーティー、帝国グループも映画に携わっておるので、招待されておるのじゃが、儂も息子達も行けんのでな。なので今夜は、孫娘のレナをよこそうと思っておるんじゃ。そこで君に、レナのエスコートを頼みたいと思ってな」
「……」
そう言うと爺さんは、自分の手近にある呼び鈴を鳴らした。和室の襖の裏に待機していた使用人が、すぐにシズカに襖を開けて、現れる。
「これ、ちょっとレナを呼んできてくれるか」
それを聞いて使用人は、かしこまりました、と言って、襖を閉めた。
「……」
――やっぱり、そういう話か。僕はなんだか自分の体から、疲労がどっと出たような感覚に襲われる。
「――サクライくん、あれから少しは考えてくれたかの」
爺さんが僕の顔を覗き込む。
「儂はレナを君と結婚させてやりたいんじゃがなぁ」