Homerun
駅前の裏通りは賑っている。人の群れ、酒の匂い、車のエンジン音、笑い声。それを包括するたくさんの居酒屋がしのぎを削っていて、演歌調の歌が雑音混じりに聴こえて来る。
正直言って、このまま自分の力を試すことを止める気はない。今度の期末テストだってそうだ。
今回は大会の中、必死に勉強した。マツオカ・シオリに勝つために。
彼女に勝つことが、正当に評価されることにつながり、こんな惨めな敗北感から開放されることにつながる、と、僕は勝手に思い込んでいた。
相当自分は追い詰められている。それが自分でわかっている。だから動くしかないんだ。今まで自分は、それによって勝ち進んで、ここまで生きてきた。
自分の力には、まだ満足はしていないが、大抵の面では信頼していた。うまく働けば、僕は今の局面を絶対に打開できる。今日のサッカーの試合だって、イイジマの見る目がなかっただけで、試合を打開したのは、明らかに僕の力だ。
横断歩道に引っかかった。僕はブレーキをかけて、信号の変わるのを待っていると、僕の隣に、小太りで赤ら顔の中年の集団が隣に立った。相当酒が入っている様子で、体がよたよたしている。5人くらいのグループが、お互いにお互いを支え合うようにして立っている。
「うーもう一軒いこぉー!」
「ウェーイ!」
そのうち、この中で一番のリーダー格だろう。綿の毛玉のついた、こげ茶色のコートを着た、頭のハゲた男が、千鳥足を踏んだ。その右足が強烈に僕の自転車の前輪にヒットし、ハンドルを持つ僕の手は滑り、自転車は横倒しになった。カゴからスポーツバッグがこぼれ落ちる。僕もそのまま横へよろめいた。
何するんだよ、と思いながら、黙ってスポーツバッグを拾おうとすると、ぶつかった男はよろよろと僕の方へ体を向け、舌打ちをし、ろれつが回らない舌で、こう吐き捨てた。
「コラァ坊主! 私に何するんだー私は繊細な、ガラスのエースなんだぞー」
それはギャグだったのか、後ろにいる取り巻きが口を大きく開けて、大口で笑い出した。
「イヤァ課長、うまい! 座布団一枚!」
癇に障る大笑いに見下され、僕は怒りを抑えながら自転車を起こした。スポーツバッグをカゴに入れ直していると、ぶつかった男は、僕の前に顔を出して、落ち窪んだ目をして、変に子供じみた口調を作って、僕ににじり寄った。
「君はボクチンにぶつかって、謝りもしないのかぁ。謝れぇ」
課長とか言われているけど、中間管理職にしがみつく、うだつのあがらなそうな男だ。スーツはくたびれて、ネクタイも曲がっている。贅肉をつけて、顔には脂が浮いている。
僕は、軽蔑の念を込めて、その男を睨んでいた。目で挨拶した。そして黙ってここを立ち去ろうと、自転車にまたがろうとすると、男がよろよろと飛び掛ってきた。
「謝れぇ!」
声を上げながら、僕の胸倉を掴んできた。咄嗟に自転車を離すと、自転車はその勢いでまた倒れた。僕も男に胸倉を掴まれたまま、男に押されて、そのままアスファルトに倒された。背骨に痛みが走った。馬乗りの状態で、男が僕の上に立った。掴んだ手を上下に揺らして、体を何度も上下に揺らされた。人間シェイク状態だ。次第に平衡感覚が侵され、少し気分が悪くなってきた。
そこで、ピッピー、という音がした。繁華街ということで巡回していた警備員が、警笛を鳴らしながらやってきたのだ。
「何をしているんだ!」
声がすると、男も僕の胸倉から手を離し、取り巻きと一緒に、既に青になった横断歩道を渡って、よたよたと逃げていく。
既に立ち止まっていたカップルやら、おばさんやらに、今の醜態を見られていた。周りを見回すと、珍獣でも見るような目で、誰もが僕の顔をうかがっている。
憮然としながら、自転車をもう一度起こそうとすると、警備員が近づいてきて、僕に、大丈夫ですか? と問う。しかし僕は答えなかった。答える気も失せていた。カゴにスポーツバッグを詰め込むと、そのまま自転車に乗って、ギャラリーの嘲笑の視線を背負って、その場を去った。
醜態だ。気分が更に悪くなった。
この行き場のない屈辱と怒りは、一体どうすればいいのだろう。僕にはそんな怒りの向け場もなかったから、せめてその怒りを享受しようとしていた。
僕はいつだってそうやって生きてきた。怒りの向け場は、自分しかなかったからだ。
僕より力のない奴は、他にいっぱいいるのに、どうして僕が、自分より力のない連中もしないような愚を演じてしまうのだろう。どうして、家族にしても、さっきの酔っ払いにしても、あんなクソ野郎どもの蹂躙が許されて、僕がその立場に立てば、戒められるんだろう。
何が正しいかなんて、まだ僕にはわからない。それでもやれることをやり、必死に生きる僕を、どうしてあんなクソ野郎どもが汚していくのだろう。
駅前の大通りを抜け、岐路を外れて左の未知に入る。そのまま進むと国道に入る。その手前、暗い夜道の向こうに、人工的な濃緑の光に照らされた、工事現場と間違えそうな、ナイロン網に覆われた建物があった。僕は自転車を建物の方へ向ける。
無骨な入り口の押し戸を開けると、乾いた金属音が中に置いてあるゲーム機の喧しい音にかき消されている。狭く薄暗い道を進むと、センターのオヤジが昼寝している受付の隣に両替所があった。僕は千円札を一枚突っ込み、100円玉10枚に崩した。
小銭をスタジャンのポケットに入れて、2枚だけを右手に持つ。振り向くと、十のガラス戸の中はどこも盛況だが、中にいる人は、どれも皆不自然な構えをして、滑稽なきりきり舞いダンスを繰り返している。ドン、ドン、という、ボールがマットを叩く音ばかりが響く。
その中で、入り口から5番目の引き戸から、金髪の男が出てきた。僕は入れ違いにそこに入る。ガラス戸には、黄色のガムテープの上に『快速・125~130』と書いてあった。
立てかけてあった、藍色のバットを手に取る。スポーツバッグを入り口の脇に置いて、スタジャンを脱いで、バッグの上にかけた。バットを一度、軽く振って、僕はコイン投入口に100円玉2枚を押し込んだ。
快速のゲージだけ、マシンだけではなく、グラフィックで見せるプロ投手の投球モーションから、ボールが繰り出されるタイプだった。これだとボールのリリースポイントがわかりづらくて、タイミングが取りにくいのだけれど、やっていれば、じきに慣れるだろう。
何球か、バントで目を慣らした。それから構え直す。
中学時代は、俊足巧打のセカンド。バットの握りを拳一つ分余して、小学校時代、イチローに憧れて、真似から入った、振り子打法。
「センター返し」
足を後ろに引くと、ボールがうなりをあげて、低目を抉ってくる。僕は脇を締め、腰の回転に逆らわずに、バットを出した。ガシッという音がして、磨り減った軟式ボールは、プロ投手の顔面に向かって飛んで行ったが、その前に貼ってあった、ナイロン網に受け止められて、ぽとりと落ちた。
「流し打ち」
僕は軸足を後ろに引いて構えた。飛んできたボールに対して、ライト側に前足を踏み出し、鋭くスイングすると、ボールはラインドライブがかかって、ぐぐっと右に曲がって落ちていく。跳ねたボールは、鋭いスピンで、僕の視界の右隅に消えて行った。試合だったら、一塁ベースを掠めて、ライト線に転がるツーベース――いや、僕の足ならスリーベースはいけるだろう。
「引っ張り」
続けて来たボールを、左足を思い切り外に開いて踏み出し、ボールを手前で捕らえた。球足の速い打球が、あっという間に左側を破って行った。試合なら、三遊間をライナーで抜けていたろう。
ふう、と一息ついて、僕は投手のグラフィックの上を見ると、その奥にもナイロン網が張り巡らされていて、そこには、二つの黄色く丸い、ビニールの的があり、上下にサッカーボール三つ分ほどの間を空けて、並んでいた。どちらも赤い字で、上には、『ホームラン』、下には、『ツーベース』と書かれていた。
「・・・・・・」
僕は握りを変えて、いっぱいにバットを持った。振り子打法の小刻みな構えを崩し、大きく足の開きを取り、バットを大上段に構えた。一発を狙う打者の構えだ。
プロ投手の、少し荒れたグラフィックを睨んだ。しかしそこからは無機質な速球が繰り出される。
僕は目をくわっと見開いて、ボールに背中を見せるくらい大きく体を引いて、思い切り溜めを作り、先ほどよりも前に足を踏み出した。腰の回転は、溜めによってさらに加速し、自慢の視力は、しっかりとボールを芯に捉え、長く持ったバットの遠心力でボールを巻き込んだ。
グシャ、という音がして、ボールはグラフィックの上を越える大飛球となった。ホームラン角度の45度に上がったボールは、一直線に、ホームランの的へ向かって行ったが、打球に伸びがなく、下に落ちて行き、ツーベースの的に命中して、網を滑り落ちた。ぽとん、という音が聞こえた。
「・・・・・・」
スイング後のフォロースルーのまま、僕はそこに硬直していたが、ボールの末路を見ると、すぐに構え直した。
この後の僕は、残りの球に対して、メチャクチャにバットを振り続けた。全てのボールを捉えたが、全てがツーベースの的近辺に集中し、ホームランの的には届かない。
「くそっ!」
最後のボールも、ツーベースの的の、僅かに上の網に受け止められて、ボールが落ちると、目の前のプロ投手のグラフィックは、まるで停電したかのように、何の前触れもなく消え去った。
「・・・・・・」
呼吸は荒く、汗をかいていた。両手を開いて見ると、スイングの摩擦と、百三十キロのボールの衝撃で、手は真っ赤になっていた。
僕はスタジャンを拾って羽織り、バッグを肩に担いで、バットを立てかけ、ガラス戸を開けた。もう、中に客は誰もいなかったが、ガラス戸の外で、さっきまで受付で寝ていたオヤジがそこに立っていた。僕の打球音で目が覚めたらしい。僕が中に入ると、オヤジは微笑んで僕の肩を叩いた。
「いやぁお兄さん。小さくて細いのに、やるねえ。見ない顔だが、中学生かい? もっと速い球を投げるバネが入荷したんだが、挑戦するかい? お兄さんを運転初の客にするよ」
「・・・・・・」
僕はオヤジを黙ってかわし、センターを出て自転車にまたがり、暗い家路にペダルを回した。
あのスイングは、僕の中では最高のものだった。溜めも、腰の回転も、脇の閉まりも、フォロースルーも完璧で、ボールも完璧にバットの芯で捉えた。
それなのに僕の打球は、一本もホームランにはならなかった。バットを一握り余して、しっかり振れば、あれだけヒットが打てるのに、一本のホームランが出ない。
どうして僕は、何もかもの上を越えていくことが出来ないんだろう――
僕が今手にしたいのは、ヒットの量産じゃない。どんな障害も関係ない、ホームランが打てる力なのに。
力が欲しい。誰にも文句を言わせないような、全てを超越した力が。
段々僕は、自分の力のなさに、可笑しさまで伴ってきた。
ふふ。憂さ晴らしがバッティングセンターしかないってだけでもそうなのに、そこに来ておいて、余計に落ち込んでいるなんて、本当に不器用な男だ。
途端に笑い出したくなった。ふふ、あははは。