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Breakfast

「起きてくださーい!」

 女性の感高い声と共に、かかっていた布団を引っぺがされる。

「あ! またワイシャツで寝てる! 型崩れしちゃいますよ」

「う……」

 僕は寝ぼけた頭を抱えながら、上半身だけ体を起こした。

 僕のベッドの前には、スーツの上からエプロンをつけた、秘書のヨシザワ・トモミがいた。

「――また来たんですか」

「そのワイシャツ、脱いでください。洗濯しますから」

「――いいですよ、一人暮らし長いですし、自分で出来ますから」

「ダメです。そんなこと言って、社長、いつだって洗濯物溜めちゃうんだから」

「……」

「そんな格好で寝てるってことは、お風呂入ってないんでしょう? シャワー浴びて、顔洗って、髭も剃ってください」

「……」

 僕はだらだらと起き上がる。時間は早朝の6時を少し過ぎたところ。

 僕は数日前、トモミがクリーニングに出してくれたスーツ一式を持って、バスルームへ向かい、シャワーを浴び、髪を乾かしてから、髭を剃った。

 スーツを身に纏って、リビングに戻ると、トモミはダイソンの掃除機で、リビングの掃除に取り掛かっていた。

「あ、ネクタイ曲がってますよ」

 トモミは掃除機の電源を切って、僕の許へと寄ってくる。

「いいですよ、これくらい、自分で出来ますから」

 僕はトモミから目を背けるようにして、左手でネクタイの結び目を軽く直した。

「あの――トモミさん。僕はあなたを、確かに秘書として雇っていますけど、お手伝いさんとして雇っているわけじゃないんですよ?」

 天地神明に誓ってもいいが、僕とトモミはそういう関係ではない。恋人というわけじゃないし、ましてこの部屋で同棲しているわけでもない。

 だが、何故かトモミは僕の世話を焼きたがるのだ。こうしてたまに、僕の家に朝やってきて、僕の身の回りの世話を色々と焼いてくれる。

 俗な言い方をすると、押しかけ女房というやつなのだろうか……

 僕だって、海外にいた頃からもうずっと一人暮らし――正確にはリュートもいたけれど、とにかく今までだって一人で何とかやってきた。別に一人でも問題はないと思うし、何より、僕は母親にだって世話を焼かれた記憶がない。こうして女性、しかも同い年の女性に世話を焼かれるのは、非常に気恥ずかしいのだ。

「――別に社長のためにやってるんじゃないですからね」

 トモミはぷいと眼を背けた。

「見るに見かねてですよ。社長の生活があまりにだらしないから。冷蔵庫の中身は、水と、賞味期限がとっくに切れた調味料、それに少しのお酒だけ。キッチンのガスコンロまで埃被ってて、自炊の様子は皆無だし、言わないと食事だってろくに取らないし、たまに食べるものといえばコンビニ弁当か、牛丼か、カップラーメンばかり。洗濯物はたまり放題で、会社に皺の寄ったスーツで平気で来るし――こんないいマンションが泣いてますよ」

「……」

「それに、最近社長、顔色悪いし、変な咳もたまにしてるし……」

「……」

「私、社長の秘書ですから、そんな社長を放っておいて、体壊したりしたら、失業なんですから。私だけじゃなく、うちの会社、みんなが困るんですから。だから先手を打ってるんですよ。私の秘書としての仕事に、社長の管理をするって要綱も入ってますしね」

「……」

 ――その要綱を入れたのは、きっとあいつか。余計なことを……

 僕は、自分の生活は、自分で何とかなっていると思っているのだけれど、トモミから見ると僕の生活は、だらしない独身男性の典型らしい。

「世話を焼かれたくなかったら、自己管理をもうちょっと頑張ってください」

「いや、でもそういうのって、僕なんかよりも、彼氏とかにすべきなんじゃ」

 僕がそう言うと、トモミはきっと僕を睨んだ。

「もう! 社長のバカ! 何でそういうこと言うかなぁ!」

「……」

 彼女には、いつも僕は「バカ」と言われて怒られている。そう言われた時の理由の大多数が、僕、そんなひどいことしたかな、という疑念が拭えないのだけれど。

 ――何なんだ、この娘。でも、25歳で彼氏とか、そういう話って、女の人にはデリケートな話題なのかな。周りも結婚し始める年頃だろうし。

 僕は起きた時から、自分についてきているリュートの方を見る。

「……」

 でも、もしこの家に不審な人物が入ってきたら、リュートは真っ先に吼えるはずだ。リュートは賢いし、どんな人間にも、それなりに愛想よく振舞う犬だけれど、その半面で本当に誇り高く、滅多なことで人に心底懐きはしない。外国暮らしで、野宿することもあったから、リュートは人一倍、僕への危害に敏感で、すぐに知らせてくれるし、時には噛み付きにかかったりもする。

 そんなリュートが、彼女に対して、吼えずに家に上げるってことは、リュートがトモミに親愛の情を少し見せている証拠だ。

 ちょっと意外だった。こんなにリュートが懐いた人間を見るのは7年振りだったから。

 正直僕は、トモミの行動に辟易する時もあるものの、リュートがトモミを警戒していないのを見て、何となくトモミに好感を持っているのも事実だった。

 実際僕は昨日、トモミを一人旅館に置いて、この部屋に逃げ帰ってしまったのだ。なのにそのことについては、まだ文句ひとつ言っていない。それどころか、僕がそんな行動を取った理由が、昨日の家族との出来事だったことも察して、こうして朝から僕の様子を見に来てくれたというわけだ。

 しっかりしていないところは叱るけれど、理由を察しているところは、ちゃんとほっといてくれる。口では意地っ張りなことを言っているけれど、本当は優しくて、切符がよくて、とてもいい娘なのだろうと、僕はトモミをそう評価していた。

「全く、こんなダメな人のために働く私って、薄幸の少女って感じじゃありません?」

 トモミは僕の方を振り向いて、僕を皮肉るように言った。

「――いや、思わないですね」

 僕はかぶりを振る。

「薄幸の少女というよりは、薄幸の美少女って感じかな」

「え……」

 僕がそう言うと、今まで強気に出ていたトモミが、とたん動揺したように気色ばむ仕草を見せた。

 僕は立ち尽くすトモミを通り過ぎて、リビングの大窓に近付き、9月の早い日の出に照らされる、まだ静かな東京の摩天楼を見下ろした。

「正直、トモミさんみたいな綺麗な人が、色々世話を焼いてくれたりするのは、僕だって素直に嬉しいんですよ。お母さんがレストランのオーナーをやっているからか、トモミさんのご飯は美味しいし――」

 確かに起きぬけにいきなり家にいるのはちょっとびっくりするけれども、それ以外のトモミの行動には、本当に感謝している。

 自分もかなりのお嬢様育ちだというのに、家事全般をそつなくこなすどころか、料理は美味しいし、いわゆるお嬢様にありがちな、世間知らずで高慢な面が全然なく、むしろ庶民的で、慎ましやかでさえある。憎まれ口や皮肉もこぼすが、それも少し茶目っ気があって、完璧なお堅い女よりも魅力がある。今ではその憎まれ口も、むしろ感じがいいとさえ思ってしまう。

 たまに彼女を見ていると、どうしようもない僕にナントカって歌のイントロが、脳裏に流れてくるような感覚に陥ることがある。彼女がいなければ、僕はもっと退廃的な生活をしていたに違いないのだから。

 でも、今の僕は……

「……」

 トモミがさっきまでよく喋っていたのに、急に喋らなくなったのが気になって、僕は視線を窓からトモミの方へ向けてみる。

「――トモミさん?」

「は、はいっ! 何でしょう?」

 急にびっくりしたように、返事をするトモミ。返事の仕方も、なんだかぎこちない片言のようになった。

「――どうしたんですか? 急に大人しくなって」

「な、何でもないんです。えへへ……」

 トモミは気色ばみながら、自分の髪に手をやった。

「……」

「あ、そ、そうだ。朝ごはん、簡単に作りますから、ちょっと待っててください」

 トモミは何だかその空気に焦れて、僕から視線をはずすように、踵を返しかけた。

「いいですよ。今日は外で食べましょう。僕が奢りますから」

 僕はトモミに声をかける。

「え?」

「トモミさんのご飯は美味しいけど、こんな朝早くからそんなに働かなくていいですよ。こっちも人を働かせてるのに、待っているのも心苦しいですから」



 僕達は部屋を出ると、家から2分程度の場所にある一流シティホテルのモーニングビュッフェに来ていた。

 僕は野菜サラダにフルーツ、クロワッサンにベーコン、そして熱々のコーヒーを取った。

 僕はコーヒーをすすりながら、左手でノートパソコンを片手で操り、データに目を通す。左手一本で、めまぐるしくデータを切り替え、それを全て頭におさめる。

 朝のこの作業は、僕の日課だ。これを怠ると、会社の一日の業務が立ち行かなくなる。今の仕事場は、僕の部屋から5分もしない場所にあるのだけれど、トモミが僕を6時台に起こしに来たのはそのためだ。別にトモミが来なくても、僕は7時には活動を開始している。勿論、こんなまともな朝食は取っていなかったと思うけれど。

トモミもパンケーキを取ってきて、生クリームにイチゴジャムを混ぜて食べている。

「――仕事してる時は、カッコいいんだよね……」

 ナイフでパンケーキを切り分ける手を止めて、トモミは呟いた。

「え?」

「あ――な、何でもないです」

トモミはかぶりを振った。その表情からは、さっきまでのちょっと不満そうな漢字が消えていて、なんだか少しご機嫌になったような表情になっていた。

 なんだろう。朝食を奢ったから、機嫌がいいのかな。

 しかし――いちいち反応が馬鹿正直な娘だ。嬉しい時はいつだって嬉しそうだし、怒っている時は、人一倍ぷりぷりしている。

 そんな彼女を見ていると、不意に何だか懐かしい感覚が、胸に沸き起こる。彼女を怒らせているのは僕なのだと自覚してはいるものの、何だか僕は彼女に対する申し訳なさよりも、そんな郷愁に胸を満たされて、しっかり彼女の感情にフォローを入れていないのも事実だ。

 そんなことを言ったら、きっと彼女はまた怒るのだろうな……

 僕自身も、この感情が何なのか、説明する術を持たないし、原因も知らないから、彼女に言うことはないと思うけれど。

 ただひとつ、分かっていることは。

 僕はこの娘のことが、嫌いではない。

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