Freeze
呆然としたまま、僕はトモミを連れて、地元の旅館へとやってきた。僕の実家のあった場所から、徒歩5分の場所で、昔からある旅館だ。ここに住んでいる時は、まさか自分がここに泊まるなんて、考えたこともなかった。
「社長と相部屋なんて、ドキドキします……」
トモミは、この容貌でここまで生きてきたにも関わらず、まだ処女のようで、軽く頬を赤らめていた。
彼女はすごく綺麗だから、今までそれなりの恋愛経験があって、それなりに男性経験もあるだろう。彼女は、僕の女性経験の少なさを聞いたら、笑うだろうか。呆れるだろうか。
部屋に入る。二人とも特に荷物がない。旅館らしく、畳の部屋に木製のテ―ブル、湯飲みにティーパック、セロハンにひとつずつ包まれた饅頭が置かれている。
「ここは料理が有名な旅館だけど……地元の人が集まる居酒屋とかに行くのもいいかな」
時間はまだ5時過ぎ。まだ夕食には早い。
「せっかくだし、温泉にでも入ってきたらどうです?」
僕はトモミに言った。
「あ、はい。社長は?」
「僕は、ここで少し休んでいます」
「――一緒に行きませんか? 混浴じゃないんだし、入り口まで」
「――すいません。ちょっと今だけは、一人でいたいんです」
冷たい言葉を投げかけたが、今日の僕が、どんなことをしてきたのかを、彼女はさっきから見ていたので、すぐに理由を察したようだ。無理強いすることはなく、そのまま黙って、丁寧なお辞儀をして、部屋を出て行った。
「……」
沈黙が流れると、予想通り、僕の脳裏に、今日の出来事が、次々とフラッシュバックして来た。僕は今はもう何もかもどうでもよくなって、部屋の隅に寄りかかって座った。
何をやっているんだ僕は。トモミを一緒に旅館に誘うなんて。
彼女がいないからって、代わりにトモミに慰めてもらおうってつもりか。僕の気慰みに付き合ってくれるといった彼女の優しさに、都合のいい時だけすがろうっていうのか。
――そんなのはもう、高校生まででおしまいだろう。大体、人に頼ったり甘えたりするのが苦手な僕が、そういうやり方で自己の安定を得ようとすると、ろくなことにならないことくらい、何度も経験しているじゃないか。トモミだって、そんなことになるのを望んではいないだろう。
「――トモミさん。ごめん」
僕はトモミに置手紙を一つ残して、一人旅館を出た。フロントにお金をちゃんと払ってあるから、トモミが困ることはないはずだ。
旅館を出てすぐに、僕は駅に向かう。
この時間は帰宅ラッシュで、電車は混み合っていた。
だけど、僕は追加料金を払って特急列車に乗って、満員電車を回避できる。
日本の特急列車に乗るのは初めてだ。確かに普通の電車よりも、ずっと快適だ。
だけど……
僕はお金を持っていても、別にそれで楽をしたいわけじゃない。
美味いものを食べたいという思いもない。100万ドルの夜景の見える部屋に住みたいとも思わないし、最高の酒を片手に、女を転がしていたいわけでもない。
7年間の目的を達成し、僕は残されたもので何をしたいのか。
快適な特急列車の、窓の外に流れる景色を眺めながら、僕はそれを考えていた。
都内の中心地にある3LDKのアパート、家賃は月50万円――ここが僕の家だ。
ひとつが寝室、ひとつが客間、もうひとつは僕の仕事部屋だ。仕事部屋には、特殊な工具がごちゃごちゃしている。
家に帰った頃には、もう外は真っ暗で、8時を回っていた。
客間の扉を開けると、犬のリュートが座って待っていた。
僕が浮浪者だった頃、リュートだけはいつも側にいてくれた。二人で寝袋の上に毛布を被せ、冬の寒さを寄り添ってしのぎ、時には何日も食べさせてやることが出来ず、腐りかけた残飯まがいのものを食べさせることしかできない時も、こいつは僕を見限ることなく、いつも僕を支えてくれた。
こいつがいたから、僕はこいつに報いるため、何度も考えた自殺の妄想を振り捨てられた。こいつがいたから、僕は生命を燃やして頑張ることができた。
リュートは紛れもない、僕の相棒であり、友達であり、唯一の家族だった。僕が今、絶対に自らの力で守らなくてはいけない、唯一のものだった。
リュートは今年、10歳になろうとしていた。もうかなりの老齢で、僕達は近いうちに、別れが訪れるだろう。
だから――こいつには、僕が死ぬまで、最高にいい思いをさせてやりたかった。こうしていい家に住み、美味いものを食べさせ、少しでも心配をかけずに、長生きをしてもらいたかった。それが出来るようになった自分を見せて、安心させたかった。
もしこいつが死んだら、僕はこんな家に住む理由がない。その時は、学生が住むような小さなアパートに引っ越そうかと考えている。
だけど、こいつが生きているうちは……
普段は会社にも連れて行く僕の相棒だったが、今日は家に置いてきた。きっと、僕個人の、醜い復讐の完結の瞬間を、こいつに見せたくなかったのだろう。
「ごめんな、今日は置いてっちゃって。ご飯食べよう」
僕はリュートに、餌を与える。海外から輸入している、栄養バランスの取れた缶詰タイプのドッグフードだった。
僕はここに帰る前にコンビニで買ったコンビニ弁当を、電子レンジにかける。
その間に、僕は客間の木製テーブルの上に置かれている花瓶を手に取る。
花瓶には、一輪の青紫色の花――竜胆の花が生けられている。
僕は流しで水を取り替え、テーブルに再び花瓶を置いた。
そこまですると、僕はどっと疲れて、客間の壁に寄りかかり、そのままズルズルと崩れるように座り込んだ。
電子レンジに入っているコンビニ弁当を出してくれと、催促の音が鳴っているけれど、なんだかもう、口をつける気にはならなかった。
代わりに、コンビニで弁当と一緒に買ってきた缶ビールを手にとって、一口あおった。
この部屋の客間の奥は、ガラス張りの大窓になっていて、そこからは東京の摩天楼が一望できる。
部屋の電気をつけることもなく、窓から差し込むその明かりだけで、僕は一人、ビールを飲んだ。部屋の中には、張り詰めたような静寂が包み込んでいる。
「……」
生まれた頃から、ずっと理不尽の只中にいた。家族がみんな無法者で、やりたい放題の人間達で、意味も分からず僕はそんな奴等に蹂躙され続けてきた。
だから――心のどこかで僕はずっと、正しくありたい、と思っていた。家族という無法を認めなかった分、自分は正しい存在――正義を成す存在でありたいと思った。『正義』という概念に、僕はずっと憧れていたんだ。
その無法者である人間が、僕の大切な人達を傷つけた。誕生日ケーキのろうそくを、ひとつひとつ灯していくような、ちっぽけだけど、暖かな幸せも、秋になったら、二人で竜胆の花を見に行こうといった約束も、そいつらにケーキごと踏み潰された。
あいつらは、やってはいけないことをした。だから、僕があいつを倒さなければと思った。そのためだけに7年間、生き続けてきた。この7年、そのための自己研鑽にのみ生きてきた。
だが――頭のどこかでは分かっていた。
僕は、あの家族を全力で潰すには、強大すぎるくらいの力を既に手に入れていて。
もうあんな連中、僕が人生の全てを賭けて潰す価値もないこと。
そして――今日、7年ぶりに両親に会って、改めて分かった。
あいつらは、もうとっくに死んでいた。もう全てを奪われ、淘汰され、明日への希望もなく、ただ虫けらのように生きているだけ。
そんな連中に、僕は更に痛みを与えようとした。強大すぎる力を以って。
僕のしたことは、弱いものいじめか、それとも死体弄りか――7年もかけてつけた力で、やっていることは、そんなことでしかない。
そうなることは、薄々僕自身、気づいていた。僕の今の力で個人に喧嘩を売ったら、もうそれは、単なる虐殺にしかならないと。既に死んでいるだろう相手なら、尚更だ。
でも、だからといって、復讐をやめることもできなかった。
復讐をやめたら、僕は何のために、日本を出たのか――無意味だとしても、家族に大切なものを生まれながらに奪われ続けてきたことをなかったことにできるのか。何より、僕の大切なものを傷つけられた怒りを、どうやって処理すればいいのか。
それがなくなってしまえば、僕が生きる意味を見失ってしまう――だから、復讐に生き続けた。
僕は自分のために、家族を傷つけた。たいした意味もなく。
それが『正義』か? 僕のしたことは、本当に正しかったのか?
「……」
7年前、あいつらのことを許せないと思った。あいつらを生かしておけないと思った。あいつらはいつだって僕の邪魔をする。僕の大切なものを傷つけてでも、僕を従わせようとする。だから、あいつらを駆除するのが一番いいと思った。
でも――何もよくならなかった。あいつらを殺したところで、僕の人生は明日も続く……
その明日を、僕はどうやって生きていけばいい? 明日も変わらず、僕の大切なものはもうないし、この7年、復讐のために生きた僕は、人生を清々しく、楽しく生きるなんて気持ちも、とうに忘れてしまった。
くぅん、と、鼻を鳴らして、リュートが僕の元へ擦り寄ってくる。どうやら僕が落ち込んでいるのを見抜いたようだ。
僕はリュートの頭を撫でた。そして、気分転換に、部屋に置いてあるラジオをつけてみた。
リスナーがファックスで曲をリクエストするコーナーをやっていて、僕が日本にいた頃のJ-POPが流れている。失恋した時に聴いた思い出の曲らしい。
「……」
僕はビールを再びあおると、自分の背広の内ポケットから、一枚の写真を取り出した。
7年前から肌身離さず持っていて、既に風雨にやられてくしゃくしゃで、色も少しあせていたけれど、そこには7年前の僕達が映っている。サッカーの全国大会決勝で負けて、準優勝に終わったものの、そこには満面の笑みを浮かべる僕と親友、そして愛する人の姿があった。
「……」
親友は、僕を信じると言ってくれた。
愛する人も、僕を守ってくれた。
こいつらがいなかったら、僕の人生も、もう終わっていた。こいつらが僕を信じてくれたからこそ、今の僕はこうして今も生きている。
だから――僕はせめて、あいつらが僕を信じてくれたことに報いることのできる人間になりたかった。それは復讐と同じくらい――いや、それよりももっと僕にとって、大事なことだった。
そのために、僕は常に正しくありたかった。弱きを助け、悪しきを挫く――あいつらが、僕を助けてよかったと思えるような人間になりたかった。そう思えるようなことを成したかった。
そして、今日、僕の故郷の人間は、僕を『正義の味方』と言ってくれた。
だが――今の僕は、あいつらが信じるに足る人間になれているだろうか。
あいつらが、僕を誇りに思うような人間に、なれているだろうか……
「リュート。お前はどうして僕にずっとついてきたんだ?」
誰に言うでもなく、僕はそう呟いた。
「お前も、僕を信じてくれたのか? 今のお前には、僕はどう映るんだろう」
金もいらない。力もいらない。だがせめて、大切な人の思いに報いられる人間になりたい……
それなのに、今の僕はこの様だ。みんなもう、それぞれの場所で頑張っているっていうのに、僕一人だけ、7年前から一歩も前に進んじゃいない。
できることは、こうして酒をあおって、一気に眠ってしまうことだけ――
こうでもしないと、いつも夢を見るんだ。7年前、自分の世界で一番愛した女を殴ってしまった時の夢を……
「――情けねえ」
ビールを飲みながら、俺の体は震えた。
相変わらず、下戸に近いくらい弱いのに、酒に頼って、嫌なことを忘れようとしている自分に。女に都合よく、自分を慰めてもらおうと、一瞬でも考えてしまった自分に、酷く腹が立った。
リュートはそんな俺を暖めるように、俺に寄り添った。
でも、いいんだ。もう。
少なくとも、仇は取った。もう、あいつらを理不尽に傷つける存在は、もういない。
あとは、あいつらが少しでも幸せになってくれればいい。
そのためなら、俺はこの手を血に染めても、一生この深い氷のような冷たい世界にいても構わない。
自分が正しいのか、自分がこの先、どう生きればいいのか、分からないけれど……
ただ、まだ志は捨てない。
あいつらに、胸を張れるような人間になれるその日まで。
それだけを、今は信じるしかないんだ。
俺の人生は、まだまだ続く。
7年前、愛する人がいた時の俺にも、今の俺にも、平等に明日はやってくる。
今日がどんなに最悪の日でも、最高の日でも、それだけは平等だから。
いつか、そんな明日――僕の未来に花が咲く時を、今は信じて、明日も生きていく……
この回で、ケースケの部屋に、ラジオで流れていた曲は、奥華子さんの「やさしい花」という曲です。歌詞の無断転載が出来ないので、載せられませんが。
この曲の歌詞は、ケースケの今の気持ちをそのまま現しているような曲で、第3部のケースケのテーマソングともいえると思います。よろしければ、ぜひ聴いてみて下さい。