Blood-of-youth
「ちょっと、見直しましたよ」
商店街を出て、静かな住宅地を歩きながら、トモミは僕に言った。
「人気あるんですね。社長って。地元の人に」
「どうですかね」
「でも、私知りませんでしたよ。社長が個人で商店街に寄付していたなんて」
トモミとは約2年の付き合いだ。僕が商店街に寄付をしたのは去年だから、トモミと仕事をしていた時期の出来事だった。
「私はともかく、メディアにもっと取り上げてもらえばよかったのに。社長が故郷に寄付をしたとなれば、社長のこと、もっと色んな人に知ってもらえるし、宣伝にもなるチャンスだったのに」
「――あの商店街のことは、僕個人の問題ですから。それを自分の売名のために都合よく利用するのは、主義に反します」
「……」
「自分の間違いを、都合のいい解釈で歪めるのは、僕には出来ませんよ」
「でも――自分の姓で苦しんだ人のことを、ちゃんと覚えていて、救おうとした」
トモミは言った。
「優しいんですね。社長って」
「……」
沈黙。僕のローファーと、シオリのヒールが鳴らす音が、二人の間を包む。
「商店街の人達も言ってたじゃないですか。社長のこと『正義の味方』だって。分かる人には分かってもらえてるんですよ。社長のこと」
「……」
「――本当、これで鈍感じゃなければもっといいのに……」
「え?」
「何でもないです」
――そんなやり取りをしながら、僕が次に向かったのは、埼玉高校だった。
平日だが、もう3時を過ぎている。この学校では部活動に入っていない生徒が過半数なので、下校する生徒とさっきから何度もすれ違った。
「へえ、制服じゃなくて、私服登校なんですか。いいなぁ」
「よくないですよ。服をあまり持ってない奴は、洗濯しないで何日も同じ服とかよく来てましたよ」
トモミと話しながら、僕が最初に向かったのは、サッカー部の部室だ。
部室には、僕が所属していた時と同じ南京錠がかかっている。高校時代、ほぼ毎日朝練をしていたから、この上を何度も開けていた。まだ番号を覚えている。
南京錠を開ける、薄い扉を開いた。
「何これー、すごい汚い……」
トモミはその部室の有様を見て、目を覆った。そこには、橋の下のボクシングジムか、アヘン窟もかくやと思わせるほどの腐海が広がっていたからだ。潰れたボールや割れたサポーター、その他諸々の道具が埃をかぶって山のように積まれ、暗い部屋は裸電球ひとつが照らすのみ。太陽の光が差さないから、中はじめっとして、汗臭い。
「懐かしいな。全然変わってない」
「ちょ、ちょっと社長、何見てるんですか!」
トモミは僕の手に取ったものを見て、声を上げた。
「ん? ああ……」
僕の持っていたもの――それは、いわゆるひとつの、エッチな本というやつだった。
「この部室にも、こういう本の隠し場所がありましてね。後輩もここに隠しているのかと思って。どうやら埼玉高校の伝統は守られているみたいですね」
「何の伝統ですか!」
トモミはご立腹だ。
「――別に、お互い25なんですし、今更こんな本で……」
「そうじゃなくって、女の前で――デリカシーの問題です!」
「……」
――でも、そうかもしれないな。この7年で僕も、随分と浮世離れが酷くなったし、確かに女性の前で配慮不足だったのかもしれない。僕は本をもとある場所に戻す。
そんなやり取りをかわし、一通り部室を物色した後、僕はグラウンドに回ってみた。
最近では、良くてベスト8止まりの埼玉高校は、僕達がいた頃と比べては、鈴なりになるファンもなく、活気は寒げだったが、あの時を基準にするのは、後輩に気の毒だ。
変わらずベンチに座る、肉体労働者のように日焼けをした男を見ると、邂逅の念に誘われた。
グラウンドの入り口である、車輪付の鉄柵を引いた。頬袋のある、ぎょろりとした目の男が、サイドラインに置いてあるベンチに座っている。すぐにその音に気が付いたらしく、何気なくこちらを向くと、驚いたような表情をして、がばと立ち上がった。
「おお! サクライじゃないか!」
僕は側へ行き、イイジマに握手の手を差し伸べると、イイジマは痛いほどに、僕の手を握った。
「監督、老けましたね」
イイジマの髪には、白髪がちらほらうかがえた。
「いやぁ、7年ぶりだな……隣のとんでもない美人は彼女か?」
「いや、彼女は……」
僕は口ごもる。
しかし、確かにトモミは少し癇癪持ちで、おせっかいだけれど、黙っていれば美人だよな。イイジマの反応ももっともだ。
可愛いというよりは、美人。顔の全てのパーツに、切れがあって、だけど仕草が子供っぽい時が会って、そのギャップがなんともいえない彼女の魅力でもある。
イイジマはやっと僕の手を離すと、僕とトモミにベンチを一つ譲ってくれて、僕らの代と比べると、稚拙な後輩の実戦練習を見物しながら、世間話などを繰り返した。
後輩達は練習中も、ベンチにいる僕の方を窺っている。
「しかし、お前、勿体ないよな」
イイジマが言った。
「お前、もうサッカーやらないのか?」
「――残念ですが、する暇がありませんよ」
僕は言った。
「しかし、お前、3年前にイギリスで、すげえことをやってのけたもんな。JFA(日本サッカー協会)もお前に何度もA代表のオファーを出したけれど、お前はずっと断り続けたって話だし」
「……」
「それだけじゃない。お前、あの頃も、日本に帰ってからも、全然メディア露出をしないんだな。日本のメディアがお前を追っても、何もお前は答えないから、随分日本のお前のファンはやきもきしてたぞ」
「……」
それは、常日頃からトモミに言われることでもある。たまには世間に自分の考えを知らせるツールを持った方がいい、と。ブログとか、ツイッターとか、そういうものを利用した方が、仕事もやりやすくなるから、と。
確かにその通りだ。僕の仕事上、そうしたほうが格段に仕事はやりやすくなるだろうことも、分かっている。
――けど、僕はそれをずっと前から拒否してきた。一度家族への復讐のために生きると誓ってから、それを成し遂げるまで、人前で自分のことをぺらぺら話すつもりはなかった。それをしてしまえば、わざわざ僕が外国に出てまで、あの家族を裁こうとした意味がない。
自分の考え自体が間違っていることなんて、とっくに承知している。そんなものをメディアに流そうという気には、どうしてもなれなかったのだ。
「――まあいい。いずれにせよ、お前はあのどん底から、たった一人、それも僅か7年でとんでもないところまで上り詰めたんだ。人生をやり直せたんだ。高校で出来なかった青春だって、きっとやり直せる。お前の人生もきっと、これからなんだ。それを忘れるなよ」
イイジマが言った。
「……」
随分丸くなったな、イイジマも。こんなことを言うなんて。
でも――青春か。
7年前、このグラウンドで友と走り回っていた頃は、確かにそんな時代だったのかもしれない。心からサッカーを好きだと思えていた。友と同じピッチに立つことが楽しみであり、誇りだった。
今は……
僕は立ち上がって、着ていた上着を脱いだ。怪訝そうな顔をしていたトモミに、黙って上着を手渡すと、僕はローファーのまま、ピッチ内に駆け込んだ。
下手なボール回しをしている後輩から、僕はボールをインターセプトした。後輩達は、僕の突然の行動に、一瞬足が止まったが、イイジマが指示を出した。
「そいつからボールを奪ってみろ! 何人でかかってもかまわん!」
その指示に、後輩は寄ってたかってかかってきたが、誰も僕を止めることが出来なかった。前を塞ぐディフェンダーを、ルーレットでかわし、最後のゴールキーパーを、エラシコで抜き去り、そのまま無人のゴールにボールを流し込んだ。
「はあ……はあ……」
僕は、もやもやした時、いつも動いてみる。それで気が晴れることは、滅多にないのだけれど、いつもそうするのだ。
今回も走ってみたけれど、当然気持ちは晴れなかった。
僕も変わってしまった。友と、ここでサッカーをしていた時――少し騒がしかったけれど、その時は、心穏やかで、夢中になって、風のようにここを駆けていたのに。
今は、同じことをしても、全然心に響かない。喪失感だけが残った。
僕はこの7年、僕の幸せを奪った奴への復讐と、大切な人を傷つけた自分の贖罪のために生きてきた。
イイジマは、僕の今が青春だと言ったけれど、そんなものはもう、何もない。
この先、何を目的に生きるんだ? これからの僕は……
既に時刻は5時を回り、埼玉高校を出た僕達は、夕焼け空の中、市街地に向けて歩いていた。
あれから1時間、僕は後輩達を相手に、ひたすら走り続けた。後輩達は、異次元の動きをする僕に感化され、とても喜んでいたが、僕には疲労だけが残った。
「いい監督さんでしたね」
歩きながら、トモミは言った。
「――昔はあんなに丸くなかったんですよ。僕もあんなに丸くなっているとは思わなくて。ちょっと意外でした」
「それ、社長のせいかもしれませんよ」
「え?」
「さっき社長がサッカーしてる間、私、監督さんと話したんです。社長、あの監督さんに高校時代、ディフェンダー転向を言い渡されたらしいですね」
「あぁ……」
「監督さん、言ってましたよ。俺はサクライの才能を見抜けなかった。サクライがメディアの前で、その話をしていたら、俺は高校サッカー史上最悪の監督としてその名を残すところだった。俺の起用に不満もあっただろうに、あいつは有名になってからも、俺を責めるようなことは一言半句言わなかった。だから俺はいまだに高校サッカーの監督をすることができてる、って。そのことがあるから、生徒に対して威張り散らすのをやめたんじゃないんですか?」
「……」
僕はため息をつく。
「しかし社長って、高校時代、随分問題児だったみたいですね。授業のサボりは当たり前、先生達に従わず、先輩との乱闘で停学経験もあるとか」
「――余計なことを」
「でも、それはみんな、家族から酷い仕打ちを受けてきて、生きるために精一杯だったからだったんだって、もうどの先生も知ってるって。あの監督さん、あの頃から社長は俺達にそんなこと、一言も話さなかったし、一度だって俺達に助けを求めず、たった一人でそれを乗り越えちまった。はじめから俺達なんか相手にしてなかった。俺達はあいつに一度も勝てないまま、勝ち逃げされたって。可愛くない奴だって、言ってましたよ」
トモミが、ふふふ、と笑った。
「その気持ち、分かるなぁ。社長は常に勝ち逃げですもんね。一人で何でもやっちゃって、他人を頼ったり、甘えたりは全然してくれないし……」
「……」
甘える、か……
ふと、僕はその時、足を止める。
そこは、僕の住んでいた商店街の隣街――
彼女の住んでいた街だ。
「……」
僕は勝手に、ここに足が向いていたというのか?
彼女の家のある路地も見えている。
僕は一瞬躊躇する。
でも、この7年間、彼女とその家族が息災であるかはずっと気がかりだった。だから、少し遠くから様子を窺うくらいは……
そう自分を納得させてから、僕は彼女の家のある路地へと入った――
「あ、あれ?」
そこにあるものは、駐車場の奥に立った、可愛らしいログハウスではなかった。家はなくなり、砂利の敷き詰められていた駐車場は、アスファルトが敷き詰められ、そこには自販機などが置かれ、どこにでもある、無機質なコインパーキングに変わっていた。
僕はそれを見て、近所にある喫茶店に向かって、彼女の家のことを訊いてみた。
「もう5年位前から、あそこは駐車場だよ。あそこに住んでた人は、ずっと前に引っ越したよ」
「……」
僕は、もう一度その駐車場に戻り、辺りを見回してみた。
しばらくそうして、思った。
今日の精神状態では、再会しない方がよかったのかもしれない。そんな資格はない、という、神の啓示なのかもしれない。
家族への復讐が完了すれば、もうここに長居する用はないはずなのに、仕事をサボってまで、僕が故郷へ戻って、過去を振り返り、ここに足を向けていたのは、きっと、無意識のうちに、彼女に会いたい、と思ったのだろう。ろくでもないことをやったばかりの僕の『居場所』になって欲しいと――そう願ったからだろう。
だけど、会えたとしても、7年ぶりの再会の上、最悪のサヨナラを一方的に告げた僕に、そんなこと許されるはずがなかった。
自分の身勝手さに、吐き気がした。