Revenge
男の肌は荒れ、7年の歳月が流れてはいるが、年数以上の老け方をしていた。白髪混じりの髪はもつれ、顔中に皺が深く刻まれ、100キロを超える体格はそのままだが、まるで猩々のように背中を丸め、酷く衰え小さく見えた。
「……」
俺は足下のゴミ袋を左足で蹴り上げる。宙を舞うゴミ袋は、男の横顔にヒットした。それでも男は、げっそりとうつろな視線を畳に落とすのみだ。
そのまま俺は土足でずかずか上がった。こんなゴキブリだらけの部屋じゃ、もはや靴を履いていようがいまいが、大した差はない。
3畳一間、トイレ共同、風呂なしのアパート。狭いキッチンと、薄い引き戸一枚隔てた部屋は、テレビもなく、黄ばんだ万年床と、小さなちゃぶ台が置かれているだけ。キッチンからはゴミが異臭を放っているし。まるで豚小屋だ。
引き戸を閉め、座布団のない、井草のほつれきった畳の上に腰を下ろした。ジュラルミンケースを脇に置き、男を適当に睨むと、男も俺と向かい合って座った。
「……」
男は俺を睨む。久し振りだな、などの社交辞令を端折っているが、俺もそんなことを言うつもりは毛頭なかった。菓子折りのひとつも用意していない。これは俺と男の血のつながりが、25年の中で初めて一致させた行動だったと言うべきだった。
「気分はどうだ?」
俺は言った。
「こんなかび臭いアパートが、人生の終の住処になった気分は」
「……」
そう。あの失踪から後――
俺の生家の前には、毎日俺のファンが殺到し、怨嗟の声が絶えなかった。家の外に出ようものなら、そのまま俺のファンに袋叩きにされかねない有様だった。
俺の祖母は篭城生活中、そのあまりの過激な現実に狼狽し、そのままショックからの心不全で死んでしまった。
この男はユータなど、数人に暴行を加えたことで、俺に半殺しにされ、病院に運ばれた間に、逮捕状が出て、5年を刑務所で過ごした。勿論、商売どころではなくなり、100年の歴史を重ねた老舗は、もろくも崩れた。
男が拘置所にいる間に、この男の女房の親族は娘を強引に引き取り離婚が成立。
その後も悪夢は続く。
この一家がいる限り、商店街に客が寄り付かなくなる、と考えた商店街が一致団結し、立ち退きを裁判所に嘆願したのだった。結果は僕を虐待していたことで、世論が味方し、商店街の勝訴となり、親父は家を追い出され、今ではこんなボロアパートに身を隠しているというわけだ。
俺の生まれた商店街は、何も変わっていない。そう。俺の生まれ育った家が、あの事件の後取り壊され、消滅した事を除いて。
この男は、マスコミの扇動による公開処刑により、いまや全てを失っている。郵便受けに入っている赤や黒の封筒は、金を返せなくなった故の督促状だ。当然俺を虐待していたなんてでかいニュースになれば、この男の顔は日本中に知れ渡っている。再就職の道など残されているはずがない。清掃員で何とか食いつなぎ、それ以外ではほとんど外にも出られない。今や肝臓を売る寸前の生活をしているわけだ。
男は落ちくぼんだ目で僕を睨むと、一見ご立派な啖呵を切った。
「用がないなら、とっとと失せろ」
「……」
7年ぶりに聞く親父の声。
「貴様、まだ自分が俺よりも優位にいると思っているのか?」
俺は冷ややかにとって返す。
「7年前、あれだけ俺にやられたのを、忘れたわけでもあるまい」
「……」
男の目に、恐怖の色が滲み始める。
「安心しろ。別にあの日の続きをやろうってわけでもない」
僕は、ジュラルミンケースをちゃぶ台に置き、ポケットから鍵を出し、鍵を開けると、中身がよく見えるようにケースを半転させ、上蓋を持ち上げた。
みっしりと札束が入っている。
「1億ある」
男が生唾を飲んだ。
「貴様、今金利合わせて月数十万の借金を背負っているらしいな。そのせいで俺のところにも、取立て屋が来ていてな。迷惑極まりない」
「……」
「だから――手切れ金だ。二度と俺の親を名乗らないでもらおうか。そう取り立て屋に伝えろ」
「……」
「額が不満なら、本社に来るなり、弁護士に頼むなり、お好きなように」
ジュラルミンケースの上蓋越しに、俺は男の顔を覗いた。あまりに非現実的な額に、胆を潰しているのか、何も答えない。何も反応しない。
しかし、何か反応しないと、じり貧だと思ったのだろう、男は思いつく限りの虚勢を張った。
「これっぱかしで手切れ金のつもりか? 俺をこれだけどん底に落としておいて……」
「そうか、じゃあもう一億」
間髪入れずにそう答え、俺はスーツのポケットから、あらかじめ用意していた一億円の小切手を、ジュラルミンケースの横に叩きつけた。こんな馬鹿とのやり取りなんかに、時間をとっていられない、という具合に、いかにも気だるそうな仕草を作って。
まるで紙屑のように億単位の金を投げ捨てるように見えたのだろう。即座に一億を用意する俺の攻めに、男はまた押し黙ってしまった。手切れ金といえど、法外な額であることは間違いない。この男がいくら非常識でも、十分それは理解している。負け惜しみを言うにも、次の句が思い浮かばないのだ。
「5……」
「――ん」
「4……3……2……1……」
俺は時を刻む。
それが終わると、ゆっくりとちゃぶ台に置かれている小切手を引っ込め、スーツのポケットに入れ、ジュラルミンケースの蓋をこちら側へ向け、鍵をかけ直した。
「ま、待て」
男はそこでやっと、プライドを捨てたらしい。俺を呼び止める。
「……」
僕は立ち上がり、閉じられたジュラルミンケースを男の前に差し出す。
男の目は、もはや俗を通り越して愚だった。きっと7年前、俺の名で賄賂を受け取っていた時も、こんな顔をしていただろう。
男も立ち上がり、俺の持つジュラルミンケースに手を伸ばした。
その時。
俺は男の手がケースに触れる前に、ケースを持つ手を離していた。
重力により自由落下するケースは、そのまま男の両足の指に落ちた。ボキっという音がした。
「ぐあ……」
男はその場に膝を突いた。既にこの時、男の両足の指は全て粉砕していた。
「言っておくが、俺はこの中身をやるなんて、一言も言ってないぜ。手切れ金なんて払わなくても、世間的に誰もお前が俺の親だなんて、今や誰も信じないしな。金を払う意味がない。俺のところに、貴様の取り立て屋が来たのは本当だがな」
そう言うと、僕は革靴で男の顎を蹴り飛ばしていた。男の体はあっけなく吹っ飛び、仰向けに倒された。
「普通に考えたら、俺が貴様に金を払うはずないし、借金取りを黙らせるためなら、わざわざお前に金なんて渡しに来ないで、直接借金取りに金を渡す――そんなことも頭から吹っ飛ぶくらい、金に目がくらんでいたんだな。よっぽど金が欲しいと見える」
俺は親父の肋骨を踏みつける。
「まあ、金が欲しくて欲しくてたまらず、俺を売り飛ばそうとした男だ。貴様の好きな金はいくらでもくれてやろう」
そう言う頃には、俺は男の頭上で、ジュラルミンケースを手に持っていた。
「な……ちょっ、やめ……」
男がそう言う頃には、俺はまた、ケースを持つ手を離していた。
グシャ。
男の顔に、ジュラルミンケースがめり込む。
正確に言えば、この箱には一億分の札束の重量に加え、鉛の板を仕込み、重量を20キロにまで増してある。両手を使っても、女性には持てないわけだ。
鼻の骨も折れ、歯も何本か折れ、顔の骨格が変わってしまっただろうけれど、ケースがずるりと顔から滑り落ちた時、男の顔は鼻血で真っ赤に染まっていた。
俺はその顔を、革靴で踏みつける。鼻の骨が折れているから、靴底にぐにゃぐにゃした感触が伝わる。
「――申し訳ない。ケースの重さに、二度も手が滑った」
俺は男を見下ろしたまま言う。
「だが、金の重さに潰される――金の大好きな貴様にとっては、至福の時だろう? 金食い虫は、金の重さに潰されて死ぬのが似合いだ」
そう言うと俺は、親父の顔からケースをどける。持参した布でケースに付着した血を拭く。
そして俺は、親父の胸倉を掴んで、体を無理やり引き上げた。
「ひっ! ひいいいいいっ」
「黙れ」
血まみれの顔で狼狽する親父を、俺は睨みつける。
「……」
ざまあねえや、と思う。
この7年――いや、あの事件のもっとずっと前から、この男を俺は、恨んで呪ってきた。
それが、今はこの様だ。いつの間にか俺とこいつの間には、天地以上の差が開いていて。
日本を出ている間、この男は全てを失っていて、もはやゴミ同然の命を持て余しているだけだった。
今ではこの男は、俺にとっては殴る価値さえない男になっていた。
そんなことも、頭では分かっていたはずだけれど――
「もうひとつ用件がある。ひとつ伝えたいことがあってな」
俺は胸倉を掴んだまま、言った。
「略式だが、辞令だ。貴様が契約している清掃会社――本日を以って、貴様を解雇する」
「な……」
「俺がその清掃会社を買収したんだ。はっきり言って、二束三文だったがな。貴様のいた会社の経営責任者は、俺になったんだ」
「そ、そんな……」
男は震えている。
そう、これは借金をして、貯金もない人間への死刑宣告に等しい。懲役を5年も食らった上に、7年前の事件で、既にネットで日本中に顔が知られていて、再就職もままならない中、やっとの思いで見つけた仕事を奪われたのだ。
「あまり変わりはなかろう? 働こうが働くまいが、貴様はもう一生借金を返せない。お前はもう犯罪を犯すか、取立て屋に生き血を啜られるかのどちらかの運命しかない。だから俺がその予定を早めてやった。それだけのことだ」
俺はそう言うと、親父の胸倉を話してぽいと突き放し、ケースを持って立ち上がる。
「7年前にも言ったはずだ。俺は貴様を楽には殺さない――これから全力を以って、貴様をどん底の底が抜けるくらい、お前を叩き潰してやるからな。お前のそのゴミ同然の命、せいぜい燃え尽きる最後まで苦しんで死ね」
「テメエ!」
怒り狂った親父だが、もう足の指が折れていて、俺を追いかけることもできない。
「ふざけやがって! テメエ、覚えてろ! いつかテメエ、ぶっ殺してやるぞ! もう俺は怖いものなんてねぇんだ。テメエを殺すくらい、躊躇なくやってやる!」
俺の背中にそんな罵声を吐きかける。
「殺してやる――か」
俺は立ち止まり、親父を振り返る。
「その意気込み、大いに結構。では訊くが――貴様は俺を殺すとしたら、どうやって殺す? 闇討ちか? 毒でも盛るか? それとも事故死に見せかけて、俺を車で轢き殺すか? いずれにせよ、ろくなやり方ではないだろう」
「……」
「だが、俺は違う。俺は貴様を合法的なやり方で殺すことができる――殺すだけじゃない。いたぶることも、少しだけ慈悲を恵むことも、少し慈悲を与えた後、再び突き落とすのも、簡単に出来る……自由自在だ。貴様は俺を殺しても、ムショに逆戻りするだけだが、俺は貴様を殺すくらい、虫けらを潰すのと大差ないんだ」
俺は哄笑する。
「その意味が分かるか? もう貴様は俺の掌で生かされているに過ぎないってことだ。貴様も生かすも殺すも、俺の御心次第――貴様はもう俺の気分次第でどうにでもなっちまうんだ。その立場を少しは自覚した方がいいぜ」
「……」
「しかし――俺は貴様を殺すこともできるが、救うことだって出来るんだぜ……どうする? 今貴様を救えるのは俺だけだぜ。それでも俺を殺すかい?」
「……」
親父は俺を見て、しばらく逡巡していたが。
「――す、すみませんでした……」
親父は折れた足の指もかばいもせずに、七重の膝を八重に折り、畳に頭をこすり付けた。
「し、7年前のことも、俺が悪かった――もう俺は、この通り、何一つ力はないんだ。だ、だから……」
「馬鹿か、お前は」
そうして憐憫の声を絞り出す親父に、俺は言い放った。
「人間の頼みであれば、俺も耳を傾けよう。だが、貴様は人間じゃない。人の品性を売った、虫けら以下だ。人間が、虫けらの命乞いに耳を貸すと思うか?」
「な……」
恥をしのんで土下座していた親父は、その声に顔を上げた。
「……」
だけど、顔を上げた親父は、怒りを含んだ顔がすぐに凍りつく。
俺が親父の顔を、それ以上の怒りをこめた目で睨みつけていたから、その迫力に気圧されたのだ。
「――7年前のことも、もう謝らなくていいよ。謝ったって、俺の大事なものは戻ってこないから」
俺は自分の拳を握り締めて、目の前の男をグチャグチャに殴り殺したい殺意を堪えた。
「俺だけに危害を加えるならまだしも、貴様は俺の大事なものを全て傷つけた仇だ! もうほとんど絞れるものもないが、これから貴様の僅かな血の一滴、骨の一本まで削ぎ落として、ダルマにしてからじっくり弄り殺してやる! 覚悟しておけ!」
そう言い残して、俺はそのまま、開け放しのドアを抜けて、部屋を出て行く。
うおおおおお、と、親父の断末魔が、しばらく僕の背中に響いていた。泣きたくもなるだろう。最後の俺の言葉は、死刑宣告に等しいのだから。
「……」
リムジンの前では、さっきの女性と運転手が、手持ち無沙汰な様子で待っていた。
「……」
今の僕は、相当酷い顔をしているのだろうか。心配そうな面持ちで、女性は僕の姿を見ていた。
「――平気ですよ。怪我をするようなヘマはしませんから」
僕はそう言って、リムジンに乗り込んだ。
「運転手さん、次はここへお願いします」
僕は後部座席から、運転手に手書きのメモを渡した。それを確認すると、リムジンはゆっくりと発進した。