第3部序章 4th-person
昨日、この街の夢を見た。
僕はまだ17だった。
この街で生き、この街で暮らし、この街でもがいていた。
そして、この街で僕は幸せと巡り会い。
この街で、その幸せを見失った。
あれから沢山の街を流れた。そのほとんどが、貧しい街だったけれど、どの街にもそれなりにいいところがあったように思う。特に僕が1年間過ごしたフランスと、2年間過ごしたイギリスの街並みは、自然を生かした魅力的な街作りをしていて、何度歩いても飽きることはなかった。
故郷なんて、住んでいる時は意識しなかった。
でも、思い返せば、僕はこの街で見たものを、どの街のものよりも、よく覚えている。
この街に降った雪も、この街に咲いた桜も、土手の川べりに咲いていた菜の花も――
ただ、その記憶が、今では僕の中にどういう理由を持って脳裏に刻まれているのか、それはもう、今の僕には分からないけれど。
黒のリムジンが、僕の故郷、埼玉・川越市を走る。
僕の生まれた商店街は、川越がまだ城下町だった頃の名残を残す古い街並みが残っていて、それが売りの観光地だ。電線も石畳の下――地中に埋めて、昔の景観をよく見せようと、自治体も協力している。
道路が狭くて、街路樹がなく、街並み自体が文化財に認定されているから、新しい建物を建てることが出来ない。
僕の生まれた街は、そんな殺風景で、自ら変わることを拒否した街だ。
僕がそんな街を出てから、既に7年の時が過ぎていた。
リムジンの広々とした後部座席――マジックミラー越しから見える故郷は、何一つ変わっていない。僕がバイトしていたコンビニまで残っている。
そうだ、この街は、あの時と何も変わっていないんだ。ただひとつだけを除いて。
出立が慌しくて、この街と何もお別れをしていなかった。この街の人達は、僕をまだ覚えているだろうか――
――ふふふふ……忘れるわけはないか。
だって、今の僕は……
「――あの」
窓の外を眺める僕に、声をかける女性。リムジンの向かいの席に座って、僕の様子をずっと窺っていた。
「本当に、行くんですか? 今から……」
「……」
僕は変わらず、窓の外を見続ける。これから向かう先のことに、もう僕の頭は飛んでいて、ここへ向かう1時間、ずっと黙りっぱなしだった。
「――すみません」
僕の気を損ねたと思ったのか、女性は僕に謝った。
「あ、いや、別に怒ったり、気が立っているわけでもないんで。謝らないでください」
僕はそんな女性の表情を見て、顔を上げ、笑顔を作って見せる。
「……」
それでも女性は僕に、心配そうな面持ちを向け続けたままだ。
「心配しないでも、大丈夫ですよ」
「いえ、別に行くなとは言いません。ただ……これを」
そう言って、彼女は僕に、グラスに入ったピンク色の液体を差し出した。リムジンだから、中には冷蔵庫もグラスも用意されている。
「何ですか? これ」
そう訊きながら、グラスに口をつける。
「……」
とても甘い、ほのかに酸っぱい。
「フルーツジュースです」
「……」
「甘いもの取って、脳に糖分を入れた方がいいですよ」
「……」
「――お酒の方が、よかったですか?」
「ああ、いえ、ありがとうございます。わざわざこんな……」
相変わらず、気の効く女の子だ。彼女を雇ったのは僕じゃないが、なかなか優秀と言うべきか。
忠告痛み入る――
だけど、的外れだな。きっと彼女は、僕を鎮めようとやったことなのだろうが。
今の僕は、自分でもびっくりするくらい冷静なんだ。
もう僕の抱える感情は、そんなレベルをとっくに超えているんだ。
7年間、僕はこの感情を片時も忘れることはできなかった。いつの間にか自分の血となり肉となり――自分の日常のひとつとなってしまった。
一度だってそれを望んだわけでもないのに……
リムジンは、商店街を通り過ぎた。
川越市の境は、市街地と比べると、随分と田舎だ。その日陰臭いにおいのする田舎町の隅に、忘れられたように建つアパートがあった。その前にリムジンを止める。
まだ真新しい制服に、冴えた白の手袋をはめた運転手が降りて、僕の乗っている後部座席のドアを開けた。
「ご苦労さまです。10分もすれば終わりますから」
「はい!」
運転手の声は明朗だった。
「社長」
さっきまで僕の横にいた女性が声をかける。リムジンから、ジュラルミンケースを引っ張り出しているのだ。
だけどトランクに体を乗り出している彼女は、じたばたするばかりで、全然顔を出す気配がない。やがて諦めて、僕の方へやってきた。
「あれ……なんですか? 重過ぎ……」
既に息を切らしている彼女に代わって、僕は右手でトランクに入っているジュラルミンケースを受け取る。ケースはズシリと重い。
「そんな重いの、片手で……さすがスポーツマン」
女性は舌を巻く。
「――昔の話ですよ」
そう言い残して、僕はアパートの2階に上る。
アパートは2階建てで、昭和の半ばに造られたボロ家だ。アパートの脇に階段がついていて、各階3つずつドアが付いている。2階に上る階段は、青いペンキが既に剥げていて、赤錆だらけだ。
2階の一番奥のドア――表札はない。ドアの脇の郵便受けには、赤やら黒やら、ビビッドな封筒が大量に押し込まれている。
「……」
僕は、粗末な木製のドアをノックする。
「……」
返事がない。
今度は拳で、強くノックしてみる。
「……」
返事がない。
僕は、ちっと舌打ちすると……
目を閉じて、体の力を抜き、深く息を吸う……
そしてドアに対し背を向けると、右足のつま先を軸に体を回転させ、その遠心力を使った後ろ回し蹴りをドアに叩き込んだ。
ドガン、と言う大きな音がして、僕の左足が木のドアを真っ二つにしたと同時に、錆びた蝶番が吹っ飛び、ドアノブのついた木の板が部屋の中にダイブしていた。
ドアの先は、ゴミ袋が雑然と積まれ、異臭を放っている。ゴミ袋の間を、ゴキブリが何匹も這いまわっている。あまりに不衛生なためか、どのゴキブリも餌に事欠かず、進化を遂げたかのように巨大だ。
そして、その奥、井草のほつれきった畳の和室……
そこに、まるで斬首を待つかのように、生気を失って座り込む一人の男がいた。
そんなわけで、最終章、第3部がスタートです。
ついでですが、another story最終話でこの物語もついに100万文字を突破してしまいました。読者の方々は、本編第2部の内容を覚えているのでしょうか?読み返すのも大変すぎる作品ですが、もう少しお付き合いいただけたら幸いです。
感想も随時お待ちしております。