Another story ~ 2-43
ほぼ1年振りに彼に呼ばれた、私の名前。
苗字の呼び捨てなんて、実に他人行儀で親愛の欠片もないと思うのが普通だろうけれど、私は彼が、マツオカ、と呼んでくれることが嬉しかった。近くにいる友人には名前を呼び捨てにされるものの、大多数の人間には、同級生なのに、敬称をつけられてきた私にとって、マツオカ、って呼ばれたことは初めてだったから。
今でも私をそう呼ぶのは、サクライくんだけだ。それが何だか、特別めいたもののように思えて、ちょっと嬉しい。
「今年初めてかもしれないね。サクライくんが私の名前呼んだの」
名前を呼んでもらえて、無視されなくてよかった、と思った私は、とにかく笑顔を心がける。それと同時に、今まで私を避けてきた彼に、何となくカマをかけてみる。
「そう――だったっけ」
サクライくんはその問いかけに、後頭部を掻いた。
「というか、君以外の女子の名前も、最近呼んだ記憶がないな」
「……」
まさかそう言われるとは思わなかった。
でも――これって、それとなくフォローを入れてくれてるのかな。私は割と勇気を出して、半年以上続いた無視について踏み込んだのに、そんな天然じみたリアクションで返されると、肩の力が抜けてしまった。
「あ、ありがと」
私は意味も分からず、そう呟いてしまった。
言ってから、何がありがとうなのよ、と、緊張すると変なことを口走る、自分のいつもの悪癖を責めたけれど、彼もあまりそれについては気にしていないようだった。疲れていて、あまり私のことを深く考えていないのか。
でも――よかった。とりあえず、いきなりただのお客として、赤の他人として接されるんじゃなくて。私のこと、覚えていないような反応されたらと思うと、怖かったから。
学校以外の場所なら、彼もこうして話してくれるのかな……
「……」
そんなことを考えながら、私は入り口に立ち尽くす。一度ここで立ち止まってしまい、お店の中に入るタイミングを逃してしまったのだ。どうやったらこれから自然にお店の中に入れるか、私の頭の中はぐるぐる回っていた。
で、でも、ちゃんと今日は、私のことを無視しないで、話をしてくれた。
このまま、何とか話をつながないと……
私は入り口に立ち尽くしたまま、何か、話をするきっかけを探した。すると、サクライくんの髪が少し濡れているのに気付いた。
「サクライくん、髪が少し濡れてるね」
とっさに私はそんな話を振った。声が裏返りそうだった。
「あぁ……ここに来る前に、シャワー浴びたから」
言われてから気付いたように、彼は自分の前髪をつまんだ。今でも後輩を中心に、彼の容姿には多くのファンがいるのに、自分の容姿や外見とかに、あまり興味がないんだよね。
「最近寒くなっているから、風邪をひかないようにね」
そんな些細な会話でも、相変わらずの彼の姿を垣間見れて、少しほっとする。私もそんな会話を交わしながら、自然に店の中に入れたし。
私の足は、自然に店の真ん中辺りにあるお菓子のコーナーに向く。私は味音痴だけれど、甘いものは好きだ。コンビニで買うとしたら、大体がお菓子だし。
というのもあるけれど、正直サクライくんのいるレジカウンターからじゃ、どこにいても私の姿が丸見えなんだよね……他にお客さんもいないし。それがちょっと恥ずかしくて、せめて棚に挟まれている場所で、自分の姿を少しは隠したかったのだ。私、今緊張しているから、変な挙動とか出ちゃうかもしれないし。
「――サクライくん、バイトしているって私の友達から聞いていたけれど、ここだったのね」
私はそう口にする。本当は去年から知っていたのだけれど、私が彼に無視されていたから、問い詰めに来たのだと思われると、何だか空気が重くなりそうだったので、あくまで私は偶然ここに来た、という体を装うために。
でも、多分サクライくんはそんなこと、気にしてないんだよね……言ってから気付く。
「……」
やっぱり、1年まともに喋れていないというのは大きい。
それに、この1年で彼の様子は変わった。容姿も少し大人びたというのもあるけれど、何よりも彼の目が、日によって多寡があるものの、常に鋭い光を増している。
以前の彼のことも私はよく知らないけれど、一体彼は今、何を考え、どんな想いを抱えているのか――それを『知らない』のではなく『分からない』というのはかなり大きい。
「こんな夜遅くに、女の子一人でコンビニなのか?」
思案に耽る私に、彼が疑問をぶつけてきた。
それを聞いて私は、ふと店の奥の壁にかかっている時計を見る。
11時35分――確かに、そんな疑問ももっともな時間。
「塾の帰りなの。サクライくんみたいに、行かなくても出来るわけじゃないから」
私は咄嗟にそんな嘘をつく。私の持っている荷物は学校帰りのままだし、何とかそれで通じるかな、なんて思う。
しかし――私の人生で、こんなに咄嗟に嘘を考えなくてはいけない場面は、これが初めてで。私はそれ程口が上手い方じゃないし、変なことを言っているんじゃないか、びくびくしてしまう……
――それでも、今は何か喋っていないと。会話が途切れたまま、出て行ってしまったら、もうそのまま、彼との細いつながりも、完全に断ち切られてしまいそうで。
不安に押しつぶされそうになる。
私は少し屈んで、彼の目から隠れる。
「今日のサッカーの試合、勝ててよかったね」
私は沈黙を恐れて、言った。
「見てたのか?」
「うん、音楽室からだと、テレビと同じアングルでよく見えるの。特等席なんだよ」
「そうか。君は吹奏楽部だったな」
「……」
ダメだ――彼の今の思いを少しでも探ろうと、頑張って喋っていても、彼の言葉に、彼の本心が見えない。喋れば喋る程、口下手な私は余計に不安になってしまう。
それでも――今まではほとんど返事もなかったのに、今日は私の言葉に反応を示してくれることは、素直に嬉しくて。
今、あなたは何を考えているんだろう……
私はお菓子の棚の陰から、ちらりとレジカウンターの彼の姿を窺った。
煙草の並ぶラックに寄りかかって、どこを見るでもなく、遠い目をしている彼は、仕事が暇で、思考が止まっているからか、学校で見る時の鋭さが和らいでいる。1年前より少しやつれたようだったけれど、その顔つきは、逆に彼のその凛とした佇まいを際立たせているようだった。
肌は男子の中では白っぽくて、清潔感がある。細身だけれど、コンビニの制服から覗く腕は、筋肉の筋と血管が浮き出ていて、体が程よい筋肉で覆われて、成長途中の男の子って感じ。今は僅かに髪の毛が濡れていて、それが愁いを帯びたような、疲労の残る表情と合わさって、何だかちょっと色っぽい……
「……」
――ふと、私の胸が、今までの緊張とは違う心臓の鼓動に支配される。
苦しいけれど、何だか胸の奥が高揚する……
懐かしい感覚。私の胸の奥には、彼にだけ反応する回路があって。
彼の前に行くと、胸の奥がざわざわして、苦しくなる――その感覚。
1年前の私も、この胸の切ない感じが何なのか、分からないながらも、胸に抱えていて。
それが何なのか、今度はちゃんと確かめてみようと思った矢先に、私は1年間も、その機を棒に振り続けてきたんだ。そしてその途中に、彼に避けられるようになって……
――そうだ。私はここに、何も取り留めない話に来たわけじゃないんだ。自分の気持ちとか、どうして彼は私を避けるのか、色々なことを確かめに来たんだ。
だったら、こんな回りくどい感じじゃ駄目――ヒラヤマくんも前、言っていた。サクライくんは天然だから、回りくどいやり方は通用しない。ストレートな方法じゃなきゃ駄目だって。
――覚悟、決めなきゃ。
「――こうやって普通に会話するの、久し振りだよね」
私は目の前にある、ムースタイプのポッキーを手に取ると、立ち上がって、そう声に出した。
核心を突く話題――さっきまでとは比べ物にならないほど、胸が高鳴っている。
「――ああ、そうだな」
サクライくんの落ち着いた声がした。
意外とあっさり認めた。
「本当、最後に話したのがいつだったか、思い出せないくらい……」
私の口から、今度は自然に声が漏れる。
そんな言葉が口をついたと同時に、私の脳裏に、これまでの高校生活が去来する。
ふと、自分の心に、寂しさが湧き上がった。
「……」
1年前、アオイが彼に告白しようとして、それを見ていた時も、同じことを思った。だけど私は、その時、その気持ちから目を背けようとした。
でも――今のこの気持ちは、目を背けようと思うと、背ける前よりもずっと強い気持ちになって、私の前にすぐ現れてくる……
寂しいなんて、人前で口にするには、子供っぽくて嫌だけれど――改めて彼の前に来て、自分がこの1年、ずっと彼と話せなくて、寂しいと思っていたのだと、私は改めて確信する。
いまだに男子が苦手な私が、こんなことを思うなんて……
――さっきまで、棚の陰に隠れようとした私だけれど、そう思ったら、今の恥ずかしさよりも、彼の近くに行きたいという思いが勝った。
私はムースポッキーを持って、レジへと向かう。
レジカウンターの前で、彼はバーコード読み取り機を、利き手に持っていた。私はカウンターにポッキーを置く。
「これ奢るよ」
不意に、彼の声が私のすぐ近くでした。
「え?」
私は顔を上げると、彼はポッキーのバーコードを読み取り、一度それをカウンターに置いた。
「テープでいいだろ」
そう言って、読み取ったバーコードの上に、コンビニのロゴがプリントされたセロテープを貼って、私の前に、手ずから差し出した。
「……」
私は、ありがとう、という言葉も出ないまま、そのポッキーを受け取る。
あまりに意外な反応だった。この1年、あまりに邪険にされてきた私に、そんなことを言うなんて、彼の意図が読めなかったから。
「そんな顔するなよ。いつもプリント届けてくれたりしてくれてるし、たまにはな」
彼はそう言った。
「……」
一年ぶりに、こんな近くで話す彼からは、この1年、ずっと学校で感じていた鋭さがなくなっていて、疲れてはいるものの、少し穏やかな表情をしていた。
そんな彼が、1年振りに私に少し優しくしてくれて――でも、嬉しいというよりは、戸惑いの気持ちの方が強い……
今、私はどんな顔をしているのか――私は再び、伏し目がちになってしまう。
「別に僕は君のことを嫌いなわけじゃないさ」
ずっと黙っている私に、彼はそう言った。
思わず私は、顔を上げた。
「その、僕は単に気分屋なだけでさ。あの、人と話すのも得意じゃないし……」
「……」
いつも学校ではクールなサクライくんが、当惑したように、私から目を背けて、頭を掻いている。
「とにかく、僕のことを気にするのは、時間の無駄ってこと」
やがて彼は、そんな自分に焦れたように、強制的に話をまとめた。
「……」
私はそれを見て、くすっと笑ってしまった。
不器用な人――全然1年前と変わってない。
ずっと思っていた。1年前よりも、ずっと纏う空気の澱んでしまったあなたは、何だか私が知っている人とは別人のように感じてしまうこともあったけれど。
綺麗な顔をしているのに、髪型とかに無頓着なところも、ぶっきらぼうだけれど、優しいところも、他のことは何でも出来るのに、他人と関わる時だけは、不器用なところも。
何だか、それが分かって安心する――
そして、彼のその優しさは、エンドウくんのような、気の効いた気配りとはまた違う嬉しさを、私の胸に満たしてくれる……
どうしてだろう……
――コンビニの中に流れる有線放送の中、沈黙する私達。
その中で、不意に私の耳に、何かを叩くような音が聞こえて、私は自動ドアの方を見る。
「あ、雨……」
「え?」
彼も店の外を見た。もう街路灯以外の明かりもないくらい商店街の中でも、僅かな光の中、落ちてくる水滴が目に見えるほどの大粒の雨が、いきなり降ってきていた。
「雨か……」
彼はそう呟く。
「……」
――しまった。今日は傘を持っていない。ここから家まで、走れば10分足らずの場所にあるけれど、この雨では帰る頃にはびしょ濡れだ。
この雨では、傘をここで買っていくしかない……
そんなことを考えていた時。
店の裏に一度入っていた彼は、売り物として並べるビニールが差のラックとは別に、右手に一本、袋に入っていない、使用済みのビニール傘を持っていた。
彼は左手で、傘を覆う埃を手で2、3度払って、私にそれを差し出した。
「持っていきな」
「え? いいの?」
「ああ、裏にいっぱいあるんだ。このままあっても埃被って使えなくなるだけだ」
「でも、コンビニって傘も売るんでしょ? タダであげたりなんかしたら、店長さんとかに怒られるんじゃ……」
「風邪をひくな、と僕に言ったのは、君だろ」
彼はそう言った。
「じゃあもし君が金を持っていなかったら、この雨の中、僕は持たせる傘があるのに、君を外に放り出すことになるだろ。その時僕は何て言って君を見送ればいい?」
「……」
「それに君に風邪をひかせて治療費を払うよりも、傘を奢った方が安いからな」
「……」
雨音。
「――すまない。こんな言い方しか出来なくて」
彼は私から目を背けて、目を覆うように額に手を当てた。
「……」
――いつもの、サクライくんだ。
何でもできる人なのに、何でも無難にこなすことは出来なくて。何でも知っているようで、みんなが当たり前に知っていることを知らない。不器用で、ぶっきらぼうで、負けず嫌いで、意地っ張りで、ちょっと照れ屋で、自分の外見に無頓着で。
そして、誰かが困っていれば、こうしていつだって、口は悪いけれど、黙って助けてくれる――
1年間、話すことの出来なかった間、随分彼は変わってしまったように思えた。今だって、体は鉛のように重くて、心身ともにボロボロだろうに。
そんな時でも、他人のことをいたわらずにはいられない――そういうことに、見て見ぬ振りの出来ない、正義感の強い人……
「――ありがとう」
私の口から、自然にその言葉が漏れる。
そして、その言葉と同時に、私の心は何か、温かいものに包まれたような安心感に包まれて。
今までの緊張が、一気にほどけてしまったのか、私の目から、涙が溢れ出した。
「――おい」
サクライくんが、かすかに気色ばんだ表情になる。
「ご、ごめんなさい……なんか、安心したら急に……えへへ」
苦笑いを浮かべても、涙がごまかせない。
でも――私は今、サクライくんに泣き顔を見られる恥ずかしさも気にならないくらい、今私の胸を満たす安堵感に包まれていて。
同時に、実感する。
ああ――私、この人のことが好き。
この人の優しさは、不器用だけど、まっすぐで、確かなぬくもりがあって。
そんな優しさをいつも心に抱いているあなたのことが、とても好き……
とても……
「――僕には君が分からないよ」
呆れるような顔をしたサクライくんが言った。
「――そんな泣き虫なのに、何で成績学年トップなんてタフなことができるのかってな」
そう言って、サクライくんは自分のポケットから、ポケットティッシュを取り出して、私に差し出した。
「ハンカチなんて気の効いたもの、持ってないからな」
彼は恥ずかしそうにそう言った。
「……」
そんな彼の表情を見ながら、私は色々な人の言葉を思い出していた。
「あの子の目元が柔らかくなったら、きっとすごく素敵なことだと思うのよね」
「俺もあいつの眼が優しくなったところを見てみたいのよ」
彼のことをよく知る人達は、口を揃えて言う。
そう言った人達の気持ちが、今の私にはよく分かる。
こんな優しい人に、今みたいな顔なんてして欲しくない。
一度でもいいから、心から笑った顔が見たい。
固まった普段の冷たい表情が、照れによって崩れて、むき出しの、無垢なあなたの表情が現れて。そんな思いに、強く強く焦がれる。
だけど――
そうして笑った顔を――私一人が見られる時。
あなたの全てを独り占めできる時。
そんなものが欲しいなんて。
そんなこと言ったら、嫌われてしまわないかな。
それでも――欲しい。
あなたのぬくもりも、無垢な表情も、二人だけの時間も、全部。