Another story ~ 2-38
「女子達が帰ってこないんで、ケースケに文句を言いに行ったのかと思って心配になってな。授業を抜け出して、様子を見に来たんだが――あれ?」
こちらに歩を向ける途中、彼は足を止めた。
さっきまで泣いていた私の目の周りの、涙を拭いた跡に気づいたのだ。
「……」
沈黙。
「はぁ……上手くいかないもんだな。淡い期待をしていたわけじゃないが、予想通りの展開だ」
ヒラヤマくんが言った。
「……」
「あいつ、変なところ優しいからなぁ。その癖言い訳しないし。自分が背負い込むことでしか、人に優しくできない奴だからな」
「……」
ヒラヤマくんのその言葉に、私は全てを理解した。
私もヒラヤマくんも、サクライくんがアオイの告白を断ることは分かっていたけれど。
私は彼が告白を断る理由を見誤った。
「サクライくんがどんな行動を取るか――全部予測していたのね」
私は顔を上げた。
「これでもシオリさんよりは、あのバカとの付き合いも少しは長いしね。あいつ、付き合ってみると、行動原理はシンプルだし、分かりやすいところ、あるんだよ」
「……」
私は彼の生活に、少しだってアオイや、他の人間の入り込む余地はないのだと思っていた。告白を断るのだって、彼自身に余裕が無くて、自分のためにアオイを切り捨てるのだと思っていた。
でも――違った。彼はアオイのことをちゃんと考えていた。自分のことなんて二の次にして、彼はアオイを救おうとした。それがアオイに伝わるかは分からないけれど……ヒラヤマくんも彼がそんな行動を取るだろうと思っていた。私だけが、彼の行動を見誤っていた。
「で? シオリさんは今回のことがあって、どうだ? ケースケへの気持ちは変わったか?」
ヒラヤマくんは屋上の柵に背を預けて、両肘を柵の上に乗せた。
「え……」
私は泣き腫らした顔を上げる。
「だってシオリさん、ケースケのこと、好きなんだろ」
「!」
「あ、好きって言っても、恋愛感情だぜ。いいお友達とか、そういうの無しな」
それを言われて、私の胸が締め付けられるように痛んだ。
「ち、違うよ、わ、私はサクライくんのこと、すごいな、って思ってるだけで……」
「――なのにシオリさん、アオイさんの恋を応援するなんて、不可思議なことを言ってたからさ」
否定する私の言葉を歯牙にもかけずに、ヒラヤマくんはそのまま話し続ける。私の言葉はヒラヤマくんの言葉にかき消され、声が止まってしまう。
「シオリさんがアオイさんの恋に協力しようなんて言ってなければ、俺はアオイさんに、ケースケはやめておけって忠告してた。ジュンをやりたいようにさせてたのも、シオリさんに距離を縮めていくケースケとアオイさんを見せるためさ。だって、このままほっといたら、アオイさんのためにも、シオリさんのためにもならないからさ」
「……」
「シオリさん、随分二人のこと、気になってたみたいじゃないか。朝の図書室を覗きに行ったり……」
「そ、それは……」
「はじめは協力するなんて言ったけど、最後の方、少し後悔したんじゃないか? ケースケの側にいるアオイさんに、嫉妬したり……」
「わ、私は……」
私はその場から逃げ出したい衝動を振り払うように、かぶりを振る。
「じゃあ、ケースケのこと、嫌いか?」
「き、嫌いじゃない。嫌いじゃないよ」
「じゃあ、好き?」
「……」
そんなまさか――わ、私は男の子が苦手なんだ。そんな私が……
でも、ヒラヤマくんはこのまま私を逃がしてはくれない。
サクライくんのことを、私は……
「違うって否定できるほど、シオリさんはまだ自分の気持ちとちゃんと向き合っていないんじゃない?」
頭がごちゃごちゃになっている私に、ヒラヤマくんが落ち着いた声で言った。
「別にケースケが好きじゃないって結論付けるならそれでもいいさ。でもね、それをするなら、まずは真剣にケースケと向き合ってからだ。それをしてからでも結論を出すのは遅くはない。だけど、頑張ることもなく、勇気を出すこともなく選んだ道ってのは、必ず後悔につながっているんだ。実際今、シオリさんはアオイさんに、自分の気持ちを無視して、協力するなんて言って、後悔してるだろ」
「……」
沈黙。
「――なんてな」
ヒラヤマくんがふっと力なく笑った。
「今の言葉は、俺のセリフじゃないんだ。中学時代、俺の大好きだった女の子の受け売りだ」
「……」
ヒラヤマくんは空を見上げた。
「――少し、俺の話をしていいか?」
それからヒラヤマくんは、自分の中学時代のことを語り始めた。
勉強が苦手で、もう学校生活で何をしていいのかわからない。だから自分は得意のサッカー一本で生きていこうとしたけれど、両親がそれを認めてくれなくて――中学のサッカー部を引退して、いざとなればスポーツ推薦で高校には行けるという環境の中で、抜け殻のようになっていて、一歩も前に進めずにいたこと。
そんなある日、当時付き合っていた女の子から、勉強を捨てるのなら、まずはもうこれ以上できないってくらい、勉強と向き合ってから勉強を捨てろと言われた。彼はその言葉を信じて、県下一の進学校、埼玉高校を受験したこと。
「はっきり言って、埼玉高校を受けて、ケースケに出会えたのはタナボタだったけどさ。でも、その女の子に言われて、俺は勉強と向き合って、進路を自分で決めて、よかったと思ってる。俺、あの時自分がサッカー得意だからって、安易に進路を決めようとして、実際は色んなことから逃げてただけだったんだ。楽な道を選んで、苦しいことに目を背けて――きっとそんな気持ちで俺はサッカーの強豪校の寮なんかに入ってたら、ちょっと苦しかったらすぐ逃げ出していたかもしれない。だからさ、その女の子の言ってくれたことは、今も俺、ずっと胸に残ってるんだ」
そんな話をするヒラヤマくんの顔は、少し寂しそうだけれど、何だかとても晴れやかで……
そういう話に疎い私でも、その顔を見ればわかる。プレイボーイと言われるヒラヤマくんだけど、彼にそんな言葉をかけてくれたその女の子は、彼が今も心のどこかで想い続けている女なのだと。
「ヒラヤマくんにとって、その娘って……」
「ああ――その話はとりあえずここまでだ」
ヒラヤマくんは苦笑いを浮かべる。
「シオリさんもさ、確かにきついとは思うよ。はっきり言って、今ケースケを好きだって認めてしまっても、今のあいつにその想いが届くことはないって、さっきアオイさんのことで実証された――それを目の前で見ちまったばかりだ。認めたって、辛くなるだけかもしれない。でもさ、それから目を背けても、何も変わらないけれど、それとしっかり向き合えたら、前に進めるかもしれないんだよ。俺達くらいの年代の心の痛みってのは、きっとそういうものなんだよ。良薬、口に苦し――だっけ? 苦い薬も飲まないと、心のもやもやってのは取れないようになってるんだよ」
「……」
私の胸は、どんどん苦しくなる。
サクライくんのことをどう思っているか――ただそれだけのことを考えるだけなのに。私の心は少しも前に踏み出せない。
好きとか嫌いとか――そんなの、分からない。たとえ好きでも、私は彼にどうしてあげればいいのか、私はどうしたいのか――相変わらず私はそんなことを1ミリだって想像できない。
好きだと認めたって、先のない想いで――だとしたら、諦めた方がと、私を促すのに。
どうしてそれを私自身が受け入れられないんだろう。
「……」
沈黙。
「――じゃあシオリさん、俺と付き合ってみるか?」
ふと、ヒラヤマくんが言った。
「え……」
「ケースケのこと、好きじゃないならさ。シオリさんとしても、ある種の経験にはなると思うぜ」
「ちょ、ちょっと待って!」
「俺のこと、嫌い?」
「き、嫌いじゃないけど……」
「俺は、シオリさんのこと、好きだぜ」
「……」
「可愛くて、優しくて。今もそうして、誰かのために泣いたり出来る、素直なところが、すごく好きだ。出来たらそんなシオリさんの力になってやりたい」
真剣なまなざしでそう言った彼の端正な顔が、私を捉える。
「……」
好き……
昔男子に告白された時は、その言葉は、私の心の側面を滑り落ちていくだけで、その気持ちを上手く理解できなかった。
なのに私、今、すごくどきどきしている。
――確かに、はじめはプレイボーイのヒラヤマくんのことがちょっと苦手だった。けれどアオイのことを通じて、この人が少なくとも、不誠実な人ではないことは分かった。エンドウくんとはまた違う意味で、信用できる人だということも分かる。
この人は背が高くて、運動も出来て、女子だったらこんな人と付き合えたら、きっと心が動かない人はいないのかもしれない。
それなのに……
ヒラヤマくんに好きだと言われた瞬間に、私の脳裏に、確かにあの人が。
はっきりとサクライくんの姿が浮かんだ。
考えがまとまらない私の前に、ヒラヤマくんが近付いて、私の前に立った。
「俺――シオリさんのこと、大事にするよ。泣かせるようなことは、絶対にしないから」
「……」
私は……
その時。
どこかから、ピアノの音色が聴こえ始めた。
私もヒラヤマくんもその音に気付いて、視界をきょろきょろと動かす。
そしてそうしてから、ようやくピアノの音色に耳を傾けられるようになって。
その音色の美しさに、心を奪われる。
少し悲しげで――素朴で。それでもどこか懐かしいような、胸の奥がじんわり温かくなるような、そんな憧憬と、優しさに満ち溢れた音色。
聴いたことのないメロディ。まるで路傍の影に忘れられたように咲く花に向けられたような……
――サクライくんのピアノだ。
きっと、アオイのことを思って、この曲を弾いているのだと、私はその時思った。
自分がアオイの隣を歩いてあげることは出来ないけれど、せめてアオイの未来に幸あらんことをと。
そんな願いが込められたような、優しい音色だった。
「……」
彼のピアノの音色を聴いて、私の胸は一度、とくんと高鳴る。
その音色の中に、私が最初に彼の中に見た、花の美しさがあったからだ。
きっと今、あなたの心は憤りで、酷く掻き乱れているに違いない。それでなくてもあなたの今の心には、少しも余裕はなく、疲れきっているはず。
でも、そんな時でも彼はアオイのことを思っていた。ミズキ達に罵られても、言い訳ひとつせず、誰も見ていないところで、彼は誰よりも優しかった。
そんな、自分が辛い時でも、他人に優しく出来る彼が……
その時、とても愛しく思えた。
きっと彼は自分が優しいなんて自覚していない。誰かに自分をよく見せようとか、誰かに気に入られようとか、そんな思いは一切ない。このピアノだって、ただ何となく弾いているのかもしれない。ただ、今のもやもやを吹き飛ばすための慰みに。
でも、そう思っていないからこそ、正直で、一途で――
花だって、誰かのために美しく咲こうなんて考えてはいない。彼の中に咲く花も、きっと同じ……
私は、そんな綺麗な花を持つあなたを見る度に、気持ちが上を向いた。
そんな気持ちを『愛しさ』と呼ぶのだろうか。まだ私には分からないけれど……
「あ、あの」
私はヒラヤマくんの目を見る。
「ごめんなさい――ヒラヤマくんのその想いに、今の私は、返事できない」
私は言った。
「好きとか、嫌いとか、分からない。でも――私、サクライくんのこと、すごく気になる。それだけは現時点で確かなこと――だと思う。だ、だから……」
「そうだな。それでいい」
告白を断る、いつもの後味の悪い展開を予想していた私だったけれど、ヒラヤマくんの声は、それに反してすごく爽やかだった。
「俺としても、本当に気に入った女の子とは、こんなドサクサ紛れで付き合えても、嬉しくないからな。時間がかかっても、ちゃんと答えを出してもらって、選んでもらった方が望ましい」
「……」
「て言うか、これでシオリさんが思わず、うん、って言ったらどうしようかと思ったぜ、はは」
「……」
――好きだなんて言ったのは、私にカマをかけるためか。
私に、サクライくんのことをちゃんと考えさせるために、芝居を打ったんだ。
「あ、でも、シオリさんのことを好きだってのは、本当だぜ。いつでもいいから、そのうち返事聞かせてくれよ。ケースケがダメだった時のキープでもいいし、卒業まで待つのも一興だしな」
「う、うん」
「さて、とりあえず話も済んだところで、教室戻ろうぜ。もう授業終わっちまうけどさ」
そう言って、ヒラヤマくんは踵を返した。
「あ、あの、ヒラヤマくん」
私はそんな彼に声をかけた。
「あ、ありがとう。色々……」
私はそう言った。するとヒラヤマくんは、ふっと力ない笑みを浮かべた。
「――シオリさんってさ、昔俺が大好きだった女の子に、少し雰囲気が似てるんだよ。だからなんかサービスしたくなってさ」
「……」
「自分でも、昔の彼女に似てるからなんて、不純な動機でシオリさんに好きだって言ったと思うよ。でもさ、理由はどうあれ、それで好きになっちまったんだから、仕方ないよな」
「……」
この日、何となく私は、自分の彼への想いを、何となくだけど自覚した。
正直心が揺れた。自分の思いが彼への行為だとして、自分の想いが彼に伝わる可能性が限りなくゼロに近いのは、ついさっき証明されたばかりで。
アオイのこともある。友達が振られたばかりで、私がその隙を狙っているハイエナの如く、彼に接触など、許されることなのか。
でも――今度彼と二人きりになれたら、彼のことをもう少し、よく見てみよう……
恋愛に疎い私は、まだこの時、自分が思い切った行動に出る勇気がなかった。その程度のことでも、まだ精一杯だったのだ。
しかし、私がこの後、彼と二人きりになれるチャンスは、しばらく訪れなかった。
この日から1週間も経たずに、サクライくんに彼女が出来てしまったからだった