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Another story ~ 2-37

 私の買ってきたコーヒーを、彼は一口あおった。彼は甘いものが苦手みたいだ。どちらかといえば、微糖とか、ブラックコーヒーを好む。そんなコーヒーで眠気を覚ましながら、夜遅くまでアルバイトや勉強をしてきた彼の姿が目に浮かぶ。

 私も今日は、彼を真似して、今日は苦いコーヒーを買ってみた。一口飲むと、甘党の私には酷くこれが苦いもののように感じた。

「――そう言えば、君、ずっと図書室に来てなかったな」

 彼は言った。

「だって――あなたとアオイが……」

 私は思わずそこで口を止める。今、アオイの名前を出すのはまずいと思ったけれど、口に出てしまった。

「――そうか」

 サクライくんは、柵の上にコーヒーを置いた。

「サガラ――どうしてた?」

 サクライくんは私に背を向けて、また景色の方を見る。

「――泣いてたわ。裏庭で、一人。膝を抱えて」

「――そうか」

 力ない彼の声。

「……」

 沈黙。

「さっきのミズキ達の繰り返しになっちゃうけどさ――」

 私はそんな彼の背中に声をかける。

「アオイは、あの娘なりに、あなたのこと、本当に好きだったのよ」

「知ってるよ」

 彼は言った。

「え?」

「――と言っても、本当はもっと前に気付きべきだったのかな。気付いたのは、ついさっきだ。今日の朝、図書室でサガラに告白された時に」

「……」

 ちょっと意外な返答。

「もしかして――ちょっとは心、動いたの? アオイの告白に」

 私はその意外さを駆って、もうひとつ訊いてみた。

「――どうかな。感情の言語化は苦手だ」

 彼は言った。

「だが、申し訳ないことをしたな。彼女には」

 また彼の力ない呟き。

「……」

 どうしたんだろう。やっぱり彼の様子がおかしい。

「――そう思うなら、何で断ったの?」

 私はまた彼の背中に訊いた。

「て言うか――本当なの? アオイに酷いことを言ったって」

「――ああ」

「何で? 分かってたんでしょ? アオイの気持ちも、それを言えばアオイが傷つくってことも」

「……」

 彼の溜め息をつく声。

「――だから言ったんだよ」

「え?」

「あの娘はいい娘だ。一緒にいて、それくらいのことは僕にも分かる。だからな」

「……」

「言っただろ? 恋は寂しがり屋とするべきだ、って」

 彼は言った。

「残念だが、僕はサガラが、一度きりの高校生活を捨ててまで追いかけるべき相手じゃない。どうやら彼女は僕を見誤っていた。今の僕を形作るものの大部分は、サガラが知らなくていい――知る必要のないものだ。だけど、告白してきた時のあの娘の眼は、僕にもっとロマンチックなものを見ていたからな……そんな眼に、実際の僕なんかを映させるのが忍びなくなってな」

「……」

「でも――少しやり方を間違えたかな。サガラがもう少し立ち直りやすい言葉を、もっと選べばよかったかもしれないな。可哀想なことをしたと思うよ」

 その時、ふと彼がコーヒーの缶を手に取って、それを一口飲んだ時。

 秋の陽光に朧に照らされた、彼の横顔が見えた。

 そして私は、その彼の横顔に、息を呑んだ。

 とても強い意志に満ちた、彼の静かな目は、何だか酷く悲しそうで。自分のためには仕方のないことだと言い聞かせていても、それでも心の痛みに声を上げてしまいそうな――それを必死に耐えているような、そんな目をしていた。

 初めて見る、彼のそんな表情。

 それを見て、私は初めて気付く。

「……」

 ――この人、今、すごく傷付いている。

 この人だって、アオイを出来ることなら傷つけたくはなかったんだ。何とかしようと思ったけれど、どうしようも出来なかった。彼が嘘をついてアオイに合わせて関係を作ることは出来たかもしれない。でも、そんなことをしても、アオイの想いを踏みにじり、今よりずっと深い傷を与えることは分かっていたから。

 だから、もう自分がどんな選択をしても、アオイを傷つけるしかないと悟った彼は、わざと辛らつな現実を突きつけて、アオイの想いに止めを刺した。その方が早くアオイは楽になれると思って。

 そして、何も悪くないアオイに対して、そうすることしか出来なかった自分の無力さを、後悔し、憤り、怒りを覚えている……

 屋上で一人彼は、そんな想いを噛み締めていたのだ。アオイのことを、ちゃんと考えていたんだ。

「……」

 今まで私は何を見てきたのだろう。

 今まで私は、アオイが如何に傷付かないかばかり考えていて、彼が傷付くなんてことを、これっぽっちも考えられていなかった。

彼は頭がよくて、切り替えも早い。こういう時に、きっと上手くやってくれると思っていて。

 だけどそんなのは誤魔化しだ。ただ自分が嫌なことを、詭弁を使って彼に押し付けていただけ。

 この人だって一人の人間で、まだ私達と同じ、16歳の男の子なんだ。あまりに彼の能力が高すぎて、学校では誰も彼にそんな心配を向ける者はいないけれど……

 彼にだって、出来ないことはあるし、そんなことで傷付く心があるんだ。

 そして――そんな彼に傷を与えたのは、私だ。

 アオイが彼に好意を寄せていると知った時から、私はその想いが彼に届かないということが分かっていた。

 でも、言えなかった。アオイの想いを踏みにじりたくなかったし、それを言うことで、アオイとの関係が崩れるのも嫌だった。

 でも、それを言わなかったから、サクライくんはアオイを傷つけたくもないのに、無闇に傷つけなくてはならなくなった。

 彼だって、はじめからそうして人を傷つけたくないから、誰かを必要以上に近づけなかったのかもしれないじゃないか。今思えば、彼ははじめから、そういう警告を、私達に出していたじゃないか。

 私さえもっと上手く立ち回っていたら――傷付いて悪者になる覚悟さえ持っていれば、彼は傷付かないで済んだ。どの道アオイが傷付かない方法なんてなかったのだ。だったら傷つけるのは私でよかった。私が私のみを守ったばかりに、代わりに傷付いたのは彼とアオイだ。彼の目に今宿る痛みや悲しみも、本来なら私が受けるべきだったんだ。

 彼は本当の優しさを知っていた。優しい故に、自分が傷付くことも厭わず、アオイを救おうとした。私みたいに、詭弁を使ってアオイを励ましていたのは優しさなんかじゃない。私のしたことは、同じ傷付く人に、もっと深い傷を与えてしまっただけだ。

「――しかし、今思えば君も、ユータやジュンイチも、グルだったんだな」

 そんな考えを巡らせている時、彼が私に背を向けて、屋上からの景色を見つめながら、私に声をかけた。

「だとしたら、申し訳ないことをしたな。労力を割いた割に、こんな結果になっちまって」

「……」

 その声に、私の中の何かが、ぞくっと震えた。視界がじわりと滲んで、目の前の彼の背中がぼやけてくる。

 ――何故、私にそんなことを言うのだろう……

 私は、あなたがアオイの告白を断ることが分かっていた。

 なのにそれから眼を背けて、アオイに協力するなんて詭弁で自分を守って。

 結果、あなたを傷つけた。私がもっと上手くやっていれば、あなたは傷付かずに済んだ。こんな後味の悪いことを、しないで済んだのに。

 ――責めてくれた方がよかった。今更だけど、せめて自分が負うはずだった痛みを、私も負わなければ、二人に申し訳が立たない。今、辛そうに一人で痛みを耐えているあなたの苦しみを、少しでも負ってあげたかった。

 でも――痛みを分かち合うことも、あなたは私に許してはくれない。

 それどころか、自分に痛みを与えた女のことを、あなたは……

 ――そんな気持ちがはじけて、私の目から涙が零れ落ちてくる。

 涙は次々に溢れる。私は背を向ける彼が気付く前に、泣き止まなくちゃと、必死で嗚咽が漏れるのをこらえるけれど……

「お――おい……」

 サクライくんが、そんな私に気付いて、私の方に近付いてくる。

 だめ――だめ。来ないで。今の顔、あなたに見られたくない……

「いきなりどうした? 僕、君にも何かしたか?」

 見に覚えがない彼は、それでも自分の非を疑う。

「ごめんなさい……何でもないの……だから……」

 ――優しくしないで。

 私は、あなたに何もできない。あなたが苦しい時、その苦しみを和らげてあげることも出来ない。

 あなたの胸の中に残る棘を、少しでも抜いてあげたいのに、あなたには届かない。

 それを思い知らされるだけだから。

 だからもう、これ以上私に、優しくしないで……

「――泣くなよ。君まで」

 彼は言う。

「もう今日は、サガラの泣き顔を見て、気が滅入っているんだ。なのに、何で君まで……」

「――ごめん……ごめんね……」

 私は何とかそんな言葉を搾り出すので精一杯だった。

 こうして泣いていても、彼を困らせるだけなのに――分かっていても私は、今までの自分の行動の慙愧の念に耐えられなかった。

「――ほら。涙を拭け」

 そう言って彼は、私に近付いて、自分のピーコートのポケットから、駅前で配っているようなポケットティッシュを取り出して、私に差し出した。

「ハンカチなんて気の効いたもの、持ってないからな」

 彼はそう言った。

「……」

 彼の声が、この学校に来て初めて、優しかった。

 冷静で、時には非情な決断を迷い無く下せる人だと思っていたのに……

 私は彼からポケットティッシュを受け取って、自分の眦を拭った。

 それを見たサクライくんは、ふっと息をついて、踵を返して、屋上のプレハブへと足を向けた。

「……」

 その彼の背中は、一人にしてくれ、という拒絶を強烈に表していた。この非、彼は見たくもない女の子の泣き顔を、二人も見てしまった。何だかこの短い時間で、酷く疲れているようだった。

「ああ、そうだ」

 屋上のドアノブに手をかけた時、彼は一度立ち止まり、私の方を見ずに言った。

「今言ったことは、誰にも言うなよ。サガラにも、他のクラスの連中にも」

 それだけ言って、彼は屋上を出て行く。

 屋上に、私一人が残される……

「……」

 まだ教室では、2限目の真っ最中だろう。アオイは――まだ保健室だろうか。それとも――早退しただろうか。

 私は屋上に、ぺたんと座り込む。

 さっきのサクライくんの、悲しげな顔が、今も心の中に強く残留していて……

 あの顔を見た時から、胸が苦しい。

 触れられたわけでもないのに、胸が熱くて……照れたときにも少し似ているけれど、ちょっと違う……

「サクライくん……」

 私は呟いた。

 彼の今の心の中は、どうなっているのだろう。

 元々連日の労働と自己研鑽の努力で、疲労困憊の中で、優しい彼が、こんなことをして……

 ――彼を見極めたいなんて言っていた私が、実は一番彼のことを知らなかったんだ。

 憧れの眼で見ていたばっかりに、私は彼のことを、本当の完璧な超人のように思っていて。

 彼に任せれば何も心配要らない。彼に不可能はなく、どんなことでもやってくれると、勝手に思い込んでいた。

 そんなことはないのに。彼だってまだ16歳で。おまけに苦行のような毎日の中で、他人に心を配れる余裕なんて、無かったはずだ。

 何でそれにもっと早く、気付かなかったんだろう……

 ――その折節。

 屋上の入り口の扉が開いて、一人の生徒が屋上に姿を現した。

 扉の音に私は振り向くと。

「ああ、やっぱりここか」

 そこにはヒラヤマくんが立っていた。


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