Another story ~ 2-34
「訊く人間の選択を間違えていると思うが」
サクライくんは言った。
「そ、そうかな……」
私は彼のその言葉に尻込みする。その言葉を続けると、彼に拒絶の意を示されるんじゃないかと思って、ちょっと怖くなる……
「……」
沈黙。
「――何だ? 修学旅行で好きな男でも出来たか?」
「え?」
「そいつののろけでも訊いてほしい、とか、そういうのだったら勘弁してくれ。退屈だから」
「ち、違うの。そういう話じゃなくて……」
「ん?」
何とか言葉を搾り出す私を、サクライくんは屋上の鉄柵に寄りかかって待つ。
「は、恥ずかしいこと言ったっていうのは自覚しているんだ。でもすごく真剣なの。すごく……すごく真面目な話なの。私の言葉が稚拙だから、そうは訊いてもらえないかもしれないけれど……そんな話を聞かせられる人、私、あなたしかいなくて……」
彼は他人ののろけ話を聞くなんて、時間の無駄としか思っていないだろうから、何とか自分の気持ちが、そういう話をしたいのではないということを伝えるが、上手く気持ちがまとまらない。
はじめはアオイのために、彼の恋愛に対する考えを訊きたいと思った。それを訊いて私は、アオイに対して、エンドウくんのように、本気でアオイが彼と付き合えるように尽力するか、ヒラヤマくんのように、如何にアオイを傷つけずに彼を諦めさせるかに徹するか、決めようと思った。
でも――今となっては、よく分からない。
アオイのためと銘打っていても、本当は私が彼のことをもっと知りたいだけなのかもしれない。そんな気持ちが私のどこから沸いてくるのかも、私は分からないのだ。そんな気持ちを他人に上手く説明できるわけがないのだ。
「――君と話すなら、できれば僕もそういう話の方がいいな」
そんな私に、サクライくんが言った。
「え?」
「アホな話を出来る奴なんていくらでもいるけど、真面目な話が出来る奴ってのは貴重だ。僕もこの学校じゃ、君が一番そういう話がしやすい」
「……」
「いいよ。話を拝聴しよう。あまり僕の答えに期待しない方がいいと思うがな」
サクライくんは、木枯らしの吹く屋上は、女の子には寒かろうと移動を勧めてくれたが、私はここでいいと言った。確かにちょっと風は冷たいけれど、コートを着ていれば、それ程寒くはないし、さっき私もホットミルクティーを買ってきた。私はこの学校の屋上に上ったのは初めてだったし、この屋上から見える朝日が綺麗だったから、もうちょっとここにいたい気分だった。
サクライくんは私に背を向けて、柵に両腕を乗せ、少し前かがみになって、朝日の方に目を向けている。オレンジ色に照らされる街並み、彼と二人きり――そんな早朝の時間は、ずっとこうしていたいような気持ちになる反面、一度も振り向いてくれない彼が何を考えているのか全然分からなくて、この場から逃げ出したいような気持ちにさせられる……
それに、さっきの言葉――私が学校で一番真面目な話がしやすいっていうのは、ちょっとは特別に見られているって事なのかな……
「は、はい」
私は買ってきた缶コーヒーを彼に差し出す。
「ありがとう」
彼はそれを受け取ったが、まだプルタブを開けなかった。
「じゃあ、僕は君にこれをやろう」
そう言って彼は、小さく包装された袋をいくつか取り出した。
「八つ橋。ジュンイチの土産だけど、ひとりじゃ食いきれないから」
「あ、ありがとう」
彼から何かを貰うのは初めてだ。八つ橋は私も家のお土産で食べたばかりなのだけど、何だかちょっと嬉しい。受け取るとき、自然と彼の隣に来れたのも、またちょっと嬉しい……
――彼と一緒にいると、嬉しい。今でも私はそう感じる。
「そういえば、あいつらが土産を届けてくれた時、君もいたな。何で?」
サクライくんはそんな私の方を見ずに言った。
「え? あぁ――み、道案内。あの二人、あなたに会いたがってたんだけど、駅前の工事現場としか、聞いてなくて、場所が分からなかったらしいから、地元の私に道を聞きに……」
「ふぅん」
あまり関心がなさそうに、彼は合いの手を打つ。
「僕はてっきり、あの二人のどちらかと君がくっついたのかと思ったよ。あの二人も君のファンらしいし」
「……」
――いつもこう。一緒にいられるのは嬉しいけれど、彼が私の事を何とも思っていないとすぐに気付かされる。
この人にとっては、私が誰と付き合おうと、関心ないんだよね……
――もうちょっとくらい、反応があってもいいじゃない……
そんな私を尻目に、彼は缶コーヒーを空けて、一口飲んだ。
「――でも、みんなサクライくんが修学旅行に来なくて、寂しいって言ってた」
修学旅行の話題が出たところで、私はひとつ考えを巡らせた。この話から、彼の様子をさりげなく探ってみようと思って。
「サクライくん、今女子の間ですごく人気あるのよ。多分修学旅行で、あなたに告白しようって考えてた娘、いたと思う」
言いながら、きっとアオイもそうだったのかな、と思う。
「――そう」
だけど、サクライくんの反応はそれだけだった。
「――それだけ?」
私は首を傾げる。
「それだけも何も――どう反応すればいいのか、分からないし」
「……」
やっぱりこの人、普通の同い年の男子とは、ちょっと違うみたいだ。普通の男の子――エンドウくんやヒラヤマくんだって、みんな多少は女の子にもてたいとか、そういう気持ちが見え隠れしているのに、彼にはそれがない。
彼にとって恋愛感情は、完全に対岸の火事のようなものなのだろうか。だとしたら、やっぱりヒラヤマくんの言うとおり、アオイの恋の運命は……
「――ねえ、サクライくん」
私は彼の目を覗き込む。
「もしあなたのことを、好きで好きでしょうがないっていう娘が、あなたに真剣に告白してきたら――あなたはどうする?」
私はアオイの名前を出さずに、その告白の結果に踏み込んだ、もうこれは、ストレートに、アオイの告白を受けるか受けないかという問いに等しかった。
「は?」
彼は首を傾げる。
「ごめん――呆れたりしないで。真剣な問いなの」
私は彼を諌める言葉を反射的に投げかける。
「答えるにも、その娘が好きで好きでしょうがないってのは、主観的視点だろ? それじゃ僕は判断のしようがない」
しかし彼は冷静にそう言った。
「失礼だが、君だってミスコンで優勝してから、沢山の男に告白されたはずだ。その中には、君のことを好きで好きでしょうがない奴だっていたはずだ。でも今君には彼氏はいない……つまり相手が自分のことを好きかどうかなんていうのは、あまり自分にとっては影響のない要素ってことだ。君だってそれが分かってるんだろ」
「……」
実に理路整然。しかも私の行動を例に挙げられて言われてしまっては、もう私は何も言えない。
「――そうだよね。ごめんなさい。変な質問して」
「別に謝らなくてもいいけど」
彼は首が凝っているのか、首を左右に動かす仕草をした。
「――しかし、君も恋愛とか、その手の話は向いてないんだな」
そうしながら彼は言った。
「え?」
「そういう話題の振り方が苦手そうだ。ミスコン優勝して、彼氏が出来ないのも合点がいった」
「……」
間違ってはいない。正しい指摘だ。自分でも自覚はある。
でも、彼にはこんなに簡単に私のことを見抜かれてしまうのが、ちょっと悔しい――私はあなたのことが分からなくて、こんなに……
朝日に照らされる、彼の横顔を窺う。
「安心しろよ。僕もそういう話、苦手だから」
彼は私にそう言った。
「だから君の話に文句をつける気もない」
「……」
彼の言葉は、周りの空気を変える。
言い方は実にぶっきらぼうで、気を遣う素振りなど何もない。自分の思ったことを言っているだけのようにも見えるけれど、話している方は、彼に気遣われているように感じてしまう。
でも、まだ私は、こういう時、彼が本当に私をフォローしてくれたのか、それとも、そんなことをしても疲れるだけだからと放っておかれただけなのか、まだ分からないでいる。
あの文化祭で、彼を見極めるなんてことを言って、私は確かに彼の影響で、少しだけ変われた。前に進めた気がする。
でも、肝心の彼のことは、まだ何も分かってはいない。あの時と変わらず、憧れの対象ではあるから、彼のことをもっと知りたいとは思うけれど……
「じゃ、じゃあ、質問を変えてもいい?」
私は彼の顔を窺う。
「サクライくんに、恋愛を定義して欲しいの」
我ながら、バカなことを言っているなぁ、と思った。
「――ああ。そういう訊き方の方が、恋愛音痴の僕としてはわかりやすいな」
でも彼は、そんな私の言葉を好印象に捉えた。
「え?」
「大真面目にこんなものを語るとしたら、あなたに好きな人がいたらとか、そういう都合のいい仮定より、そういう固い言い回しの方がいいよ」
「……」
――やっぱりこの人、考え方がずれている。ずれているからこそ、こういう真面目な話がしやすいのかな。
沈黙。
「私ね、今まで恋愛ってものをちゃんと考えたこと、なかったの。ただ、そういう概念自体は前から信じてた。家族愛とか、兄弟愛とか、そういう愛の形は信じているから」
「家族愛ねぇ……」
その言葉を彼が反復した時、一瞬彼の纏う声――空気が変わった気がした。
「続けて」
彼は朝日に目を向けたまま、そう言った。私はその時感じた違和感は、自分の勘違いだったのかと思ってしまった。
「あ――でも、恋愛っていうのは、そういう愛の形とは違う、特別なもののように、最近思えてきて……」
「君も、恋をしたくなったのか?」
「――分からない。まだ私はそうなった時のことは、全然想像できないんだけれど……」
「……」
沈黙。
「――僕にとって愛なんてのは、宗教か流行歌の中の出来事だと思うけどな」
彼は言った。
「要するに、自分がひとりじゃない、って思い込むための幻想さ。宗教だって大体はそういう孤独からの解脱を謳ってるのが起こりだ。でも、実際はそうでもない。実際はひとりで生きている奴なんていっぱいいるよ。誰も愛さなくたって生きていける。日本の未婚率見てみろよ。人間は誰しも番になる運命の人がいるなんて幻想だって、既にデータが証明してるよ。それでも赤い糸とか、そんなことを言っている奴は、その根拠が理屈になっていない。独りよがりのカルト宗教さ」
「……」
「別になくても死ぬわけじゃない。飯を食うとか、寝るとか、そういうものに比べたら、全然優先順位は低い。そんなものを人間の根源的なものと説くのは、僕にはカルトな行為にしか思えないな。残酷だけどね、誰かが愛だ恋だと言っている裏で、誰にも愛されていない奴っていうのは確実に存在している。愛だ恋だと言っている奴は、そういう人間の悲しみを考えもしないだろう。でもね、誰かを愛するってことは、他の誰かを愛さないってことだ。必ず人間全員が平等に得られるものではないんだよ。誰でもみんな愛されるために生まれたなんて言いながら、人は全員を平等に愛することは出来ない。そういう矛盾をはじめから持っているんだ。宗教ってのは、その本質を詭弁で隠してるんだよな」
「……」
彼のその言い方は、愛なんていう形而上学的な観念を全く信じていないどころか、憎んでいるかのような言い方にも聞こえた。
「――悪いな。もっとロマンチックな答えを期待したか?」
彼は訊いた。私は首を横に振った。
「――言っていることは、多少理解できるから」
「理解する必要なんてないぞ」
「え?」
「この世に絶対的な基準なんて存在しないからな。結局自分の人生経験の中で基準を作り出して、それを信じるってことが、真実っていうんだろうから。誰かの言うことを鵜呑みにする必要はない。納得できないならそれでいいと思う」
「……」
「――失礼。こういう解答じゃ、あまり君の参考にはならないかな」
彼は一度缶コーヒーを口に流し込む。
「愛を完全に否定するわけじゃないんだ。人を好きになるって行為自体を否定はしない。だけどね、必要以上に賛美しないってだけの話だよ」
「……」
沈黙。
「これは私見だから、話半分に聞いていいんだが――マツオカ、もし君がこれから誰かに、愛情なんて概念を抱くとしたら、その相手は寂しがり屋であることをお勧めするよ」
「寂しがり屋?」
「ああ。寂しがりの人間は、相手を強く必要とする――二人の関係を維持するために、努力をする。努力が出来る」
「……」
「僕は愛なんて概念をあまり前向きに信じてないが、あるとしたら人間が根源的に持つものじゃなく、長い時間をかけて育むものって考えの方が自然だと思っている。きっとそれにたどり着くには、そういう努力が不可欠なんだろう。きっと長い時間がかかるもので、その間に継続しようって努力はお互いがすべきことなんだろう。つまり、それにたどり着きたいのであれば、その努力が出来る人間を相手に選ぶのは、最低条件だろう」
「……」
私はそれを訊いて、彼の意図するところが少し見えた気がした。
「つまり、サクライくんの考えだと、寂しいって感情に鈍い人間は、愛って概念には近づけない、と?」
「ああ、寂しいって感情に鈍い人間は、そういう努力が出来ない。誰かを自分が頑張るための動機付けに出来ない。相手を心から必要と思えない。だから少しでも亀裂が生じたら、間違いなくその関係を持続させるよりは、ひとりになることを選ぶだろう。寂しいって感情の薄い人間とは、恋をすべきじゃないし、そういう人間はそもそも恋をしちゃいけない。継続する可能性が低い。寂しがり屋かどうかってのは、恋ってステージに立つ上の最低条件だと思う。それが浮気だとか、誰でもいいってベクトルに行かず、誰か一人だけを真に必要と出来る人間がベストだろうな」
「……」
沈黙。
「あなたは――あなたは自分を、後者と思っているのね」
私は訊いた。
「ん?」
「ごめん――なんか、そんな気がした」
「……」
彼の話ははじめは単純に、愛情という概念の完全否定のように思えた。
でも、話を訊いているうちに思った。これは自分の経験則で、自分のことを話しているような――そんな気がした。
自分は誰かを愛することが出来ない――自分には寂しいという感情がないと、ざんげのように話しているように聞こえた。
「――どうかな。あまり考えたことないから」
そう言うと、彼は踵を返した。缶コーヒーを持って、残りを一気呷りながら、屋上のプレハブの方へと歩いていく。
「マツオカ」
私の方を振り返らずに、プレハブのドアの前で、彼は言った。
「少なくとも、自分が愛情を注いでいれば、必ず相手もそれに報いてくれるなんて、人間はそんな単純なものじゃない。自ら愛情を遠ざける者もいるし、必要としない人間もいる。そういう人間を君はちゃんと見極めて、幸せな恋をしろよ」
「……」
「とりあえず、僕に言えるのはそれだけだ。じゃあな」
そう言って、彼はもう、話すことは終わったと、屋上を出て行ってしまった。
「……」
屋上に取り残された私は、ひどく絶望的な気分を味わっていた。
明言はされなかったけれど、アオイの恋が実る可能性は、完全に彼の口から否定されたように思えたからだ。
その時の私は、まだ自分が何故そう感じたのか、分かっていなかったけれど――彼が何となく、自分を恋愛から遠ざけているということは感じたから。
そんなサクライくんは、絶対にアオイの告白も受けはしないだろう……
私は改めて、そう確信を深めてしまった。