Another story ~ 2-32
そのヒラヤマくんの言葉を訊いて、分かった。
私がずっとアオイに対して、痛みを抱えていた理由が。
アオイの想いを応援したいという私の気持ちは、嘘ではない。
だけど、私はもう、心のどこかで分かっていたんだ。アオイの想いが、決して彼に届くことはないことを。
「それって……別にアオイが悪いってことじゃないよね」
「ああ」
ヒラヤマくんは山茶花の木の向こうから、詩仙道の庭園をクラスメイトと散策しているアオイの方を窺っている。
「今のサクライくんには、誰が行っても無理……」
「だな。グラビアアイドル10人がキワドイ水着着て、私達のこと、好きにしてください。て言うかメチャクチャにしてください、って迫ってもダメだろうな」
ヒラヤマくんのその例えは、女の私にはいまいちピンと来なかったけれど、言葉面から何となくすごい展開なのは伝わった。
言いたいことは分かる――サクライくんの心をものにするのは、それだけ難しいということ。
「――なんだ。分かってなかったのかと思ってた。シオリさんも分かってるんじゃないか」
ヒラヤマくんが息をついた。
「残念だけどよ、あいつには何人たりとも踏み込めない領域を持ってるんだよ。そして、そんなあいつが誰かの説得程度で、あいつが今見ているものから目を背けるとは思えない。誰にも邪魔できない何かを背負ってるんだよ。あいつは」
「……」
ヒラヤマくんのその、力ない呟きが、私の胸を疼かせる。
ずっと私が彼を見る視線の先――彼の纏う美しい空気の向こうに、いつもおぼろげに見ていたもの――それをヒラヤマくんの言葉が、私の目に写してくれた。
彼は一緒にいる時、とても優しいけれど……
「――そっか。サクライくん、二人にもやっぱりそうなんだね。私くらいじゃまだ心を開いてくれてないの、分かってたけれど、二人にはそれなりに心を開いているのかと思った」
私は手に持つ山茶花の花に目を落とす。
「それが分かっているのに、ヒラヤマくんはどうして、アオイに協力する、って、言ったの?」
私は訊いた。
「――まあ、あの状況で、協力しないとは言いにくいかもしれないけれど……」
「協力はする気はあまりないよ」
ヒラヤマくんは言った。
「ジュンのバカ野郎は、ケースケに彼女が出来たらきっと面白いって思って、マジで協力する気みたいだけどな――俺がするのは、アオイさんを以下に傷つけずに、ケースケを諦めさせる協力さ」
「……」
「アオイさんが健気でいい娘だってのは、俺だって分かるからな。あまり傷つけたくはない――だからアオイさんをケースケに近付けて、ケースケの本当の姿を近くで見せてやる。そしたらアオイさんもいつか気付くだろう。ケースケに自分の気持ちが決して届くことはないって。それで告白をためらって、告白をしないまま、ケースケを諦めるのが、一番あの娘の痛みが軽くて済むだろうと思ってな」
「……」
その言葉を訊いて、私の脳裏に、サクライくんと一緒にいる、雨の日の学校の図書室が思い浮かんだ。
文化祭以降、彼と少しの間でも、二人きりでいられる時は、時間がゆっくりと流れて、なんとも幸せな気分になれた。
でも――いつからだろう。
一緒にいればいる程、彼の心が私にそれ以上の踏み込みを許さないのが、彼が何も言わなくても伝わってきて――それが心に痛みを与えるようになったのは。
その痛みを、これからアオイも味わうのだと思った。いや、アオイの今の想いを慮れば、その傷みは私の比ではないのかも知れない。
「――じゃあ、昨日ヒラヤマくんが、アオイにあれだけ告白しろって念を押したのは」
「そう、脅しだよ」
ヒラヤマくんが私の目を見る。
「アオイさんに、ケースケと結ばれるには、告白しかないって強迫観念を植え付けた。でも、アオイさんもこれからケースケと一緒にいられるようになったら、告白がどんどん怖くなるに決まってるんだ。そうなって、ケースケがいつか自分の想いに気付いてくれるなんて期待して、待ちに徹してズルズル行っちまったら、アオイさんは一層、自分の気持ちがケースケに届くことはないって、現実に打ちのめされちまう。アオイさんはケースケに費やした時間の分だけ傷つくことになる。だから、早いうちに無理だって悟らせるには、告白しかないって部分に念を押しておく方がいいのさ。その方が傷が浅い」
「……」
沈黙。
「――でも、それでアオイが、告白を諦められなかったら?」
私は訊いた。
「そうなったら、もう当事者の問題だな。ケースケの腕に期待するしかないだろ」
「……」
そうなったら、間違いなくアオイは傷つくだろう。アオイはまだ、サクライくんの本質を知らないのだ。文化祭前の私のように、ただ憧憬だけで彼を見ている。
「でも、ヒラヤマくんはそうさせないように動くのね。昨日もアオイに、悩みがあれば、何でも話してくれ、って言ってたし……」
「――まあ、な」
「――優しいね」
「俺はフェミニストだからな」
ちょっと意外だった。ヒラヤマくんはプレイボーイというイメージで、もう既に何人もの女性と付き合っては別れを繰り返している。女の子を振ることなんか、なんとも思っていないのかと思っていた。
「しかしシオリさん、そこまで分かっているなら、何でアオイさんに協力するなんて言ったんだよ」
今度はヒラヤマくんに私が質問された。
「……」
本当に――私のとった行動は、ヒラヤマくんからしたら、軽率そのものだろう。
私が彼の本質を、まだ十分捉えきれていないというのもある。
でも……
「アオイが、サクライくんのことを、大好き、って言ったのよ」
「ん?」
「あの大人しいアオイが、サクライくんのことをそんな風に、みんなの前で言ったの。それを見て、ああ、すごいな、って、思って。同時に、私はアオイがうらやましかったんだと思う」
「うらやましい?」
「私、恋愛とかを上手く捉えられていないけれど、そういう概念自体は信じているの。家族愛とか、そういう愛の形は信じているから、きっと、異性の間の愛の形も、存在するんだと思う――だから、アオイの今抱いている愛情を、否定したくなかったのかな。あの大人しいアオイが、あんなに勇気を振り絞れたんだから。誰かを好きになることが悪いわけじゃないんだから。確かに可能性は低いかもしれないけれど、サクライくんにも、それが伝わってくれたら、最高だと思う」
「――意外だな。シオリさんはケースケを好きなのかと思っていたけれど」
「……」
文化祭で、私が彼に、あなたを見極めたい、と言った時――
あの時の私は、ただ現状にいっぱいいっぱいで、彼と付き合いたい、特別な関係になりたいなんて、そんな未来を1ミリだって想像できなかった。多分、今もそうなのだと思う。
そんな私の想いが、アオイの真剣な想いに、どうして割り込めるだろう……
「まあいいさ。俺だってアオイさんの想いがケースケに届けば、それはそれで最高だと思ってる。シオリさんと気持ちは一緒だよ」
ヒラヤマくんが言った。
そんな言葉を最後に、私達の京都での修学旅行は終わった。
この時の私は、アオイの想いの強さを知って、臆病になった。
私はこの時、自分の気持から目を背けようとした。
まだ私自身、そのことに気付いていなかったけれど……
修学旅行では、私はたくさんのお土産を買った。八つ橋や阿闇梨餅――家族や親戚、部活の先輩達の分も。
その中にひとつ――ひとつだけ食べ物ではない、小さなお守りがある。
幸福招来――私がお寺で買ったお守り。
サクライくんに渡そうと思って買ったお守りだった。
なんだかんだ言っても、私は彼にお世話になっているから。でも、食べ物はエンドウくん達があげるだろうから、あえて裏を狙った、というものなのだけれど。
でも――どうやって渡そう。
そんなことを、帰りの車中で考えていた。
アオイに協力すると言った以上、私は彼とこれ以上、二人きりになるのは避けるべきだ。かといって、人前で彼にお土産を渡す勇気もない。
どうしよう――
そんなことを考えているうちに、私達は学校に到着し、その場でみんな現地解散となってしまった。
「あ、シオリさん」
学校で解散になり、みんなが校門の方へと歩いていく人ごみの中、私はエンドウくんに呼び止められる。エンドウくんの後ろには、ヒラヤマくんもいる。
「つかぬ事をお伺いしますが、川越駅の近くで、今工事しているマンションに心当たり、ないかな?」
「え?」
「実はケースケの奴が、そこで今日働いているらしいんだよね。このまま帰るついでに、土産を渡しに行く、って、行っててさ。でも俺達、正確な場所知らないし、ケースケは携帯持ってないから、連絡できないし……」
「サクライくん、携帯持ってないの?」
私はその事実を初めて知った。
「必要ない、って。バイトしてて携帯持ってないなんて、日本中でいまどきあいつくらいのもんだと思うけどね」
「……」
――それはつまり、携帯にお金を払ってまで連絡を他人と取る気はない、ということか。
――でも。
私も丁度、彼へのお土産をどうしようかと思っていたところだった。
日を空ければ空けるほど、渡しづらくなるのがお土産というし――この誘いに乗って、一気に渡してしまおうと思った。
――地元民の私は、駅前のマンションの場所は、大体知っている。駅前の一等地に高層マンションが出来ると、話題になっていた場所だ。
駅から歩いて10分、私達は重い荷物と、旅行で疲れた体を引きずって、その工事現場にやってきていた。
もうマンションは、概観は殆ど竣工したといっていいほどの状態だったけれど、いまだにマンションの周りには、ヘルメットを被って作業着を着ている人が多くいた。鉄骨やら、そういうものがごちゃごちゃしている状態ではなく、今は内装工事の段階に入っているようだった。マンションの周りには、白い折りたたみ式の敷居が設けられている。
「ありがとう。どうやらここみたいだよ」
ここまで道案内した私に、エンドウくんがお礼を言った。
「しかし、ここでケースケを見つけるのは大変かもな。どうする?」
ヒラヤマくんが訊いた。
「誰かに訊けばいいだろ」
エンドウくんがそう言った折節、そのマンションを囲う敷居の中に入っていく、作業着の男の人を見かける。
「すいませーん」
エンドウくんは迷わずその男の人に声をかけた。見た目はヒラヤマくんと同じくらいの背丈だが、筋肉もがっしりしていて、特に腕は丸太のように太い、体重100キロはありそうな大きな人だった。
「あの、ここで今、サクライって奴が働いていませんか?」
「サクライ――ああ、坊ちゃんか」
大柄な男の人は、ひとつ頷く。
「じゃあ、親方のところに案内するから、坊ちゃんに用があるなら、親方に交渉してくれ」
そう言って、その男の人は、私達に、一応決まりだからと、予備のヘルメットをくれて、私達も敷居の中に入れてくれた。
工事現場の中に設けられた、プレハブのような休憩場の横にトラックが止まっていて、その横に、40代くらいの日に焼けたたくましい中年の男性がいた。どうやらこの人が親方という人らしい。さっきの人がその人に口を聞いてくれた。大柄な男性はそれを伝えると、マンションの方へと行ってしまう。
「ほぉ、坊ちゃんのお友達か。それにしても二人とも、ガタイいいねぇ。うちで働いてほしいくらいだよ」
親方は私の横の二人をしげしげと見回した。
坊ちゃん――どうやらそれが彼のこの仕事場での愛称らしい。そして、この職場でも、随分と好かれているようだ。この反応を見れば、少しは分かる。
「もう少ししたら坊ちゃんも、一度ここに降りてくるだろうからね。それまで待っているといい」
親方はそう言った。
その親方の隣に止まっている大きなトラックは、荷台が解放されていて、そこには分厚いベニヤ板のようなものが沢山積まれている。
「あの、今は何の仕事をしているんですか?」
エンドウくんが世間話のように、親方に訊いた。
「ああ、マンションの壁に入れる断熱材を運んでいるんだよ」
「断熱材?」
「おお、そうだ。君、試しにこれ、持ってみないか?」
そう言って親方は、トラックの荷台に乗って、その中に入っているベニヤ板のようなものを1枚取り出して見せ、それをエンドウくんに差し出して見せた。
「うおっ!」
エンドウくんはそれを受け取ると、親方が手を離した瞬間に体をよろけさせた。
「重てぇ!」
大柄で、手を使わないサッカーとはいえ、スポーツをしているエンドウくんでさえ、そう言った。
「それ1枚で20キロあるんだ」
親方が言った。
「しかし断熱材ってのは厄介な代物でね。クレーンで吊って、高層の階に運ぼうとすると、重みや衝撃で割れてしまう、脆い出来のものなんだ。だから人間がいちいち階段を上って、手作業で中に運ぶんだよ」
「え? じゃあこんな重いのを、手で運んで、しかも階段を上るのを、何度も?」
「ああ、それもそれ1枚じゃない。坊ちゃんはそれを3枚いっぺんに運ぶぞ」
「……」
その説明を聞いた折、さっきとは別の大柄な黒いTシャツを来た男の人がやってくる。その男の人も、丸太のような太い腕で、その断熱材を4枚一気に持ち、うおおっと掛け声一番、両手でそれを引き上げ、そのままマンションの方へ向かっていった。
「すげぇ。4枚も」
1枚持ったエンドウくんは、その光景に驚嘆していた。
「もちろん、ただ運ぶだけじゃダメだ。重みで階段に落として、断熱材を傷つけたり、割ってしまってもダメ。運びながら、途中で置いて休憩しながら運んでもダメ。パワーと迅速さ、スタミナがいる仕事なんだよ。誰でもできる仕事じゃない。その代わり時給はいいぞ。1時間3500円だ」
「……」
「お、来た。おーい、坊ちゃん!」
呆然と立ち尽くす私達の向こうに、親方が手を振る。
振り向くとそこには、白のTシャツにチノパンという格好で、ヘルメットを被ったサクライくんが、こちらに向かってきていた。
「――お前達」
私達の姿を確認して、サクライくんは呟いた。
「坊ちゃんの学校の友達らしいな。坊ちゃんに用があるらしいんでな。坊ちゃんももう仕事終わりだろう?」
親方が言った。
「――いえ、僕のフロアは、もう1往復ですかね」
それだけ言うと、サクライくんはトラックの横に置いてあるヤカンを手に取って、横にある湯飲みに、そのヤカンの氷水を注いで、それを一口飲んだ。
「ちょっと待ってろ」
サクライくんは私達にそれだけ言い残すと、トラックに乗り込んで、断熱材を3枚一気に持ち、それを引き上げ、トラックを降りて、そのまま私達の横を通り過ぎる。
歯を食いしばって、彼の細面な顔は、それでも辛いところを見せないように、平静を装うように――
「……」
私達は、そんなサクライくんの小柄な背中を、じっと見送るしかなかった。
「あいつは――この3日間、ずっとこの仕事を?」
ヒラヤマくんが呟いた。
「ああ、フルタイムでね」
親方は答えた。
「時給がいいから、この仕事、志望者も多いんだが、断熱材を持てなきゃ話にならない。だからまずテストをするんだが、坊ちゃんはあの通り小柄だろ? はじめは僕も、この子はダメだと思ったけれど、あの通りあの細腕で断熱材を持ったんだよ。あの体じゃ人一倍きつい仕事なのに、スピードとスタミナでパワー不足を補って、他の体の大きな仕事仲間よりも働いてる。全く、根性あるよ、坊ちゃんは」
親方が、もうマンションの中に消えたサクライくんの後ろ姿を見送りながら、そう言った。
「……」
こんな辛い仕事を、私達が修学旅行で浮かれている間、ずっと? いや、きっとこの仕事の後、普段のコンビニのバイトも行っているだろう。もう彼の今の肉体は、疲労のピークのはずだ。
そして、さっき私達の横を通り過ぎた彼の姿――
そこには、学校で天才少年と謳われる彼の姿はどこにもない。
まるで、昔の権力者の古墳やピラミッドを作るために駆り出された、奴隷のように見えた。首枷をはめられ、ひたすら石を積む作業に明け暮れる――そんな古代の奴隷のような……
――何故? 何故あなたがそこまでして……
「あ、あの、ごめん。私、帰るね」
「え?」
私はそれだけ言い残すと、エンドウくんのひきとめる言葉も聞かずに、その工事現場を走り出ていってしまった。
――「お姉ちゃん、お帰りー」
家に帰ると、妹のシズカが私を出迎えてくれたけれど、私はそれを通り過ぎて、自分の部屋にこもり、荷物を置くと、電気も点けずに、自分のベッドに倒れこんだ。
右手には、彼に渡すはずだったお守りが握り締められている。
「……」
――とても渡せなかった。
奴隷のように働き続けているあの人に、さっきまで高校生活最後の休暇と羽を伸ばしていた私が、親に貰ったお小遣いで買ったお土産など、とても彼に渡せない……
そして、同時に彼のあの姿を見て、思った。
サクライくんはアオイを99.9%の確率で振るだろうと、ヒラヤマくんは言った。
でも、それは間違いだと、はっきりと分かった。
99.9%なんて、そんな希望が残された数字ではない。
――100%だ。
私はさっきまで、アオイの想いの強さが、彼の心に届くことを、心のどこかで期待していた。彼は優しいところも在るし、きっと大丈夫だと信じ込もうとしていた。
でも――そんなことはない。
どんな素晴らしい愛の言葉も、綺麗ごとも彼の心を癒せはしない。まるで苦行のように彼はこれからもああして生きる。ひとりぼっちで。それがはっきりと、彼の仕事姿を見て、突きつけられた。
「……っ」
私は部屋の窓から溢れる夜空のパノラマ、柔らかい秋の月明かりを見ながら、一人声を押し殺して泣いた。
涙は次々に溢れてくる。これからアオイが、私のせいで残酷な道を歩んでしまうことへの罪悪感と、私の目に焼きついた、さっきのサクライくんの、疲労で鉛のようになった体を引きずって働き続ける、奴隷のような姿が悲しくて、私はいつまでも泣き続けた。
なるべくこのアナザーストーリー第2回を40話までで終わらせようと、最近1話ごとの文字数が多くなってしまい、申し訳ありません。
読者の方にとって、一話ごとに何文字くらいの文章だと読みやすいとかあるんでしょうかね。昔携帯で書いていた時は、作者の携帯スペックだと5000文字が限界だったんですが、PCだと何万文字も打てるわけで…
改行も少ないんで、読みやすい文章にしたいんですが、いかんせん文字が多くなってしまってすいません。