Anger
やがて勉強会が終わり、二人は再試を何とかクリアした。だけど再試の合格とは、赤点ギリギリの点数をもらう権利が出来るだけで、期末でまた赤点を取れば、赤点が決定する。
その後僕達は、冬の大会に向けて練習に励み、顧問のイイジマは、僕達を実に楽しそうにしごき続け、その疲れから、部員は僕以外にも、授業中、昼寝をかます奴が続出した。
秋――僕の好きな、キンモクセイの香りが消えはじめ、静かな冬がやってくる。緑が徐々に茶色に変わって、萎れていく姿。青々しい香りの消えた季節の空気には、生命の香りがしない。まじりっ気なしの冬の空気の正体は『澄んでいる』という形容がぴったりだ。
そんな冬の、肌を刺す木枯らしの吹きつける中で始まったサッカーの県予選、僕達は順調に勝ち進み、決勝戦まで上り詰めた。これで勝てば、全国大会の切符を手に出来る。決勝の相手は、全国大会の常連、武栄高校だった。少し風が出てきて、まさに、ここに風雲急を告げていた。
あの決意から、ここまで僕は、6試合に出場し、4ゴール5アシストという結果を残してきている。ユータも絶好調で、8ゴールと爆発している。武栄高校は、準決勝をPK戦を制して辛くも勝利しているので、勢いは僕達の方にあったと言っていい。
味方ピッチ中央で円陣を組み、中央にいたユータが号令をかけ、僕達は、おお、と叫ぶ。スタンドでは既に両校の応援合戦が始まっている。マツオカ・シオリもいるだろう吹奏楽部の金管音が、大きなスタジアムの銀傘にこだまして、ピッチ内を巨大なオーディオルームに変えていた。
決勝戦ということで、県知事の挨拶とか、いつにも増して長く、無駄なセレモニーを受け流しながら、キックオフとなった。
相手チームからのキックオフだった。武栄高校の、シマウマのような白黒のストライプのユニフォームは、セリエAの強豪チーム、ユベントスを彷彿とさせた。まずは僕達の出方を窺っているのだろう。さすが百戦錬磨。ゆっくりと中盤でボールを回しながら、僕達の隙を探している。
しかし違うな、様子見は王者の貫禄っぽく見えるが、余裕ぶると怪我をする。
じりじりとラインが侵入してくる。僕は相手フォワードの一人についた。僕とコンビのジュンイチも、相手ツートップの片割れをきっちりマークした。
ユータが少し戻って、ボールをキープしている相手の中盤選手にプレスをかけに走った。味方のサイドの選手がユータのヘルプに駆けつけたので、相手選手は二人に挟まれる前に、前にいた選手に前へパスを出した。
だけど、僕は二人で囲もうとする前に、そこにパスを出すことを読みきっていた。
僕はマークの選手を振り切ってダッシュし、パスを受ける態勢の選手の前をすり抜ける。右インサイドキックで軽くトラップした後、加速力を殺さずに一気に強行突破した。センターサークルを超え、バイタルエリアへ侵入。埼玉高校ギャラリーの、せり上がるような右肩上がりの歓声が響く。僕の背中を押す。僕は風を切る。誰もついてこれない。
しかし、さすが決勝に来ているチームだけあって、ディフェンダーの戻りも早い。ユータは相手のプレスをすり抜けるようにして、どんどん前に上がっていく。反撃開始のジャンが、僕の頭の中で鳴り響いた。
さっきまで、ユータにプレスをかけられていた選手が僕の前に立ちふさがる。僕も一度止まり、軽く足先でボールを撫でるように転がした。体を左に素早く倒すフリをして、右に体を向けて、一気に抜き去った。次の瞬間には、初歩的なフェイントに引っかかったことを後悔させる暇もないくらい、相手選手を引き離し、更に加速して、ゴールに突き進んでいた。ほとんどの生徒が応援に来ている味方スタンドからは、大歓声が上がった。
スリーバックの陣形を布く相手ディフェンダーは、がっちりとペナルティーエリアを固めている。僕から見て左側で、ユータが相手のマークを振り切ろうとして、手を上げて押し合っているのが見えた。僕はこのまま突っ込むのも下策と思い、ドリブルのスピードを緩めた。
そこでディフェンダーは一瞬気を抜いたのか、僕を意識しすぎたのか、ユータのマークがおろそかになった。ユータはマークを振り切って、僕の方へ体を向け、走ってくる。僕はユータにパスを出した。ショートパスを出すのと同時に、僕は前へ走り出していた。ユータも狙いを察したのだろう。ノートラップで僕にワンツーパスを出した。
ユータにパスを出したことで、相手ディフェンダーは県内屈指のフォワードであるユータを警戒した。ワンツーパスを出された僕は、がら空きの状態でペナルティーエリアに進入し、思い切り右足を振り抜いた。
ボールは無回転のまま、磁力に引き寄せられるように、ゴールへ突き進み、キーパーの手をはじいて、そのままゴールネットへ突き刺さった。主審のホイッスルが、高くなった冬空に響いた。
開始直後に貴重な先制点。相手の虚を突いた奇襲作戦が功を奏した。狙い通りだ。
埼玉高校のスタンドから、吹奏楽部のファンファーレをかき消すような歓声が上がる。
ユータが僕に抱きついてきた。僕は、自分の顔が引きつりながら、いつかユータとバスケットボールをして、勝った時と同じ、あの怒気のような感情が、胸の中を駆け巡るのを感じていた。
後半に僕は、最後のスルーパスをユータに回して、ユータもゴールを決めた。あとは高校ルールの80分を必死に守って、2‐0で僕達は優勝した。
その日はイイジマのおごりで、ベンチ入り選手は全員、川越市内の回転寿司をご馳走になった。校長やら他の先生も集まり、祝辞を述べながら、場は無礼講となった。
そんな中で僕は一人黙々と寿司を食べていた。僕の前にはおもちゃみたいな柄の、安い皿ばかりが積みあがっている。奢りでも日頃の癖で、安い皿しか頼めない、僕の貧乏性を表している。皿山の大部分を占める、一番安い空色の皿に乗るネギトロを取った。
皆は店の中を走り回ったり、クラッカーを飛ばしたり、何度もジュースで乾杯をしたり、大声で笑ったりしている。
ネギトロの海苔巻きを口に放り込む。味気ない寿司をお茶で流し込んだ。
僕には食べ物の好き嫌いがない。人と飯を食べるのが苦手な僕が頼るのは、ただ何でも口に詰めることしかなかった。
きっと居心地が悪いのは、皆と一緒に食事をすることに、慣れていないからだろう。
僕はいつも、誰かの虫に火をつけないように、身構えていた。体はいつも緊張していて、口を開くのも気を遣った。
でも、いくら気をつけても、些細なことで火がついてしまう。僕はそこから逃げ出したいような気持ちに駆られるが、逃げられない。黙っていても、止めに入っても、僕はその度責められ、叩かれた。
殴られ、責められ続けた少年時代――僕はいつも、八つ当たりの的だった。
そんな幼年時代を送ったせいか、体の大きくなった今でも、家族は僕の恐怖の象徴だった。小さい頃には、家族を止める力もなかった。だからいつも、周りの怒りの濁流に巻き込まれていた。その時に味わった恐怖は今でも、僕の心から離れることなく、心の奥底に巣食っていた。
僕にとって親はもう親ではない。パトロンに過ぎない。しかし、親としての親に見捨てられるのは構わないが僕のやっていることは、結局、パトロンに見捨てられない程度の反発に過ぎない。グレたりしてもいいが、それが根本的な解決にはならないことくらい判断する頭はある。そんな小賢しい頭を持つせいで、僕の生き方はどんどんと複雑化していく。
そういうちっぽけで、ヤワな覚悟での反発――それが僕についている、足枷なんだ。相手も世間体を守るため、僕も大学を出て自立するため、そんな関係が拮抗して、僕達は泥仕合を続けているだけなんだ。
大学に行きたい。大学に行って、企業に就職したり、司法試験を目指したりする――そういう生き方以外は、僕には考えられなかった。頭脳を資本に生きる方が向いていることは自分でわかっているし、それで金を稼げるつもりだ。そんな生き方をするためには、僕は大学に行って、そういう生き方コースを選んだ、ということを世間に証明しなければいけない。だから僕は大学に行くんだ。
翻せば、僕は高校を出るまでは、パトロンである親に絶対に過剰に逆らえないし、意見もできない。この胸に巣食う恐怖からも、絶対に逃れられない。
幼年時代から、その弱みを親に突かれ続けた。僕は金を持っていないことが辛かった。自力で金を稼いで生活していない僕は、詭弁を並べても、まだ社会を知らない、と断定される。いくら真剣に叫んでも、世の中を甘く見ているガキの戯言にしか訊いてもらえない。
子供が主張しても、言葉は届かない。それを僕は嫌というほど思い知らされた。
周りにいる、散々色んなことに文句を垂れながら、それでも笑っていられる皆がうらやましかった。家族や教師を平然と批判して、何食わぬ顔をしていられる彼らが。何で僕だけが、こんな言葉も否定されるようになってしまったんだ、と、どうしても考えてしまう。
何で正しいことが、僕の言葉だけ届かないんだろう。
何で同級生達は、あんなに普通に、学校へ通えているんだろう・・・・・・
僕は僕の言葉に耳を傾けてもらえるくらいの評価が欲しい。正しいことを主張している自負はある。主張が通れば、僕の周りはスムーズに流れるはずだから。
僕は自分のバイト代で、自分の必要なものを全て買っているし、塾にも行かず、私立の付属高校への進級を蹴って、学費の安い県立高校へ進学した。全国の切符を掴むまで砕身したサッカーだって、親に負担を一切かけていないどころか、自分の力で勝ち取った奨学金まで、親に寄付している。
でも結局、子供一人で完全に自活することなど、出来るはずもない。頑張ったって、見返りは気休め程度のものしかない。未成年には、いつだって親の同意が付きまとう。身を切るような努力をしたって、いつも馬鹿を見ているのは僕だけだ。
ちょっとくらいわがままを言ってもいいじゃないか。これだけ我慢しているんだから。
今までの我慢を解き、最近の僕は、自分の力だけを頼りに突き進んだ。
自己主張がしたくなった。どいつもこいつも自分の都合ばかり吐いているのに、僕だけがそれを出来ない、なんてことはありえないだろう。だったら僕が主導権を握ってやろう。
僕の心の叫びが、行動に呼応して、僕の自己主張は功を奏したようだ。今日の試合だって、僕に誰も文句は言わないだろう。
やはり僕は間違っていなかった。やっと行けるのかもしれない。自分の求めた花道へ。
今日の自分の結果に満足しながら、寿司をほおばっているところに、イイジマが隣に腰を下ろした。既に祝杯で、前後不覚になっていた。彼が酒を飲むところは見たことがなかったが、どうやら悪い酒を飲む男ではないようだ。
僕は、イカを口に運びながら、横目でイイジマを見た。イイジマは僕の前に積みあがった皿の山を見て、僕の肩を叩いた。
「サクライ! 今日のヒーローが、そんな湿気た安い皿ばかり食うな! 何でも注文しろ」