Another story ~ 2-29
10月に入ると、残暑も徐々に落ち着き、風が少しずつ冷気を帯びてくる。学校の登校に、長袖の服を着てくる生徒が日に日に増えていく。
もうこの時期になると、5時台は日も出ておらず、真っ暗だ。さすがに6時に学校に行って、毎日学校に行くのが辛くなってくる。
でも、私はふかふかの布団の誘惑にも負けずに、今日も朝食を摂って、元気に朝6時の登校の路についていた。
この時期の早朝には、自転車を漕ぐのにそろそろ手袋とコートが必要だ。ふう――埼玉高校に入学した頃は、毎日私服で登校なんて、いいねってみんなから羨ましがられたけれど、あまり服を沢山持っていない私は、毎日の服にも困っている。
でも、運動部の人はもっと大変だろうなぁ。普段の私服に加えて練習着もあるし……
自転車で埼玉高校前の緩やかな長い坂道を下り降り、校門に入る。
「――あれ?」
一つ目の校門をくぐると、二つ目との校門の間には一本道――そして、その一本道の左右には、それぞれグラウンドがあり、私が今走る方から見て右手がサッカー部のグラウンドだ。
私がこの時間、学校に来ると、雨の降っていない日は大体もうサクライくんは、一人グラウンドを走っているのに、今日は姿が見えない。
――寝坊かな……
駐輪場に自転車を置いて、昇降口から音楽室へと上り、フルートを箱から出して組み立て、譜面台を準備。
それからまた窓の外からグラウンドを見ても、サクライくんは姿を現さない。
「……」
私が入学からの半年、ふかふかの布団の誘惑にも負けずに、毎日朝連を続けられた原動力は、間違いなく彼だった。一人だったら、誰も見ていないからと、甘えが出ていたかもしれない。でも彼からは私のフルートの音が聴こえる。彼にはごまかしが効かないから。
私は入学以来、ずっと彼の甘えを許さない姿勢に引っ張られて、ここまで頑張ってこれた。
その彼が、今日が練習に来ない……
1時間経って、私が図書室に場所を移しても、彼はまだグラウンドに姿を現さない。
私が知る中では、初めてのことだ。でも、彼も疲れてるし、こんなこともあるよね。
そう思っていた。
ところが。
図書室での予習を終え、8時30分、朝のHRの時間になっても、彼の机は空席のまま――学校にも姿を現さなかった。
さすがに心配になる――風邪でもひいたのかな、と。
いつも彼と一緒にいるエンドウくん、ヒラヤマくんも、彼のいない机を見て、首を傾げている。
そしてとうとう、サクライくんが不在のまま、担任のスズキ先生が来てしまう。この時点で彼の欠席か遅刻はもう確定だ。
――しかし、私はいつもはのんびりとした、小太りのスズキ先生の面持ちが、今日は酷く沈んでいるように見えることに、少し違和感を感じた。
その気付くか気付かないかという程度の違和感を感じ出した時、教壇に立ったスズキ先生は口を開いた。
「えー、今日は出席の前に、みんなに言っておかなければならないことがある」
普段は機械的に出席を取る先生が、私達を一瞥する。
「昨日の放課後、サクライが上級生3人と喧嘩をして、3日間の停学処分を受けた」
「え?」
クラスの方々で、声が上がる。教室がざわめく。
「静かに」
先生が私達を諌める。
「……」
――どういうこと? サクライくんが喧嘩なんて――いつも物腰柔らかくて、落ち着いているあの人が、本当にそんなことを……
私はその報を聞いて、胸がざわざわした。
それから私はアオイの方を見る。アオイはもう顔から血の気が引いてしまっていた。
「先生、それで、ケースケは?」
真っ先にそれを訊いたのは、ヒラヤマくんだった。
「ああ――サクライの体は、特別大きな怪我はなかった。病院に行って、簡単な治療だけで済んだ」
それを訊いて、私の視線の先にいるアオイが、ふう、と息をつくのが見えた。私も安堵した。
「ただ、問題なのは上級生の方でな……」
しかし、先生はそんな私達の安堵に楔を放った。
「サクライは、その上級生3人を、相当こっぴどくやってしまってな――上級生は3人とも即病院送りで、全治2週間以上の大怪我を負った。一人は骨にヒビが入るまでやられていてな」
「えぇ?」
再び教室がどよめく。
それはそうだ。あの小柄なサクライくんが、複数の上級生と喧嘩をしたと聞けば、誰だって大怪我するのはサクライくんだと何となく思ってしまう。私もそうだった。それが全く逆で、大怪我をしたのは上級生の方だというのだから、話は随分違ってくる。
「あいつ――何やってんだか」
エンドウくんにいたっては、それを訊いて笑みまでこぼしている。いつも予想の斜め上を行く彼の行動にご満悦のようだ。
「まあ、喧嘩の理由は、上級生がサクライの生意気さ加減に腹を立てたということで、サクライをシメてやろうと呼び出してのものだったらしいから、上級生の方に非があったと認められて、上級生の方も1週間の停学処分を下した」
「ちょっと待ってくださいよ」
エンドウくんが立ち上がる。
「それじゃケースケは正当防衛で、悪くないじゃないですか。あいつまで停学処分を受ける必要はないでしょう」
確かにその通りだった。
「とは言っても、実際サクライは上級生にかなりの重傷を負わせた。それにサクライの運動神経なら、逃げようと思えば十分逃げられただろうと判断されてな」
スズキ先生はそう説明する。
「……」
そんなのはこじつけだ。先生達はみんな彼を嫌っているのだし、彼に自分達の手で罰を与えられると思って、わざわざ無意味に彼に停学処分を下したのだろう。本当は退学にしたかったのだろうけれど、そうするには、彼に非がなさ過ぎて、そこまでは踏み込めなかった。この停学はいわば、教師達の彼への報復だと、私はすぐに察した。
「とにかくだ、みんなにも心に留めておいてほしい。サクライはあの通りクソ生意気な奴だ。その上少しイカレた精神の持ち主だ。みんなもやりたい放題のあいつを気に入らないと思うこともあるかもしれないが、決してあいつに喧嘩を売るような真似だけはするな。今回だって下手をすれば上級生はもっとすごい怪我をしていたかもしれないし、次奴に喧嘩を売った奴は、一生に関わる怪我をするかもしれない。いいか、絶対にあいつに刺激を与えるような行動は慎むように。あいつは自分を傷つけようとする奴は、躊躇なく攻撃するからな」
そんな厳重注意をされた。
まるで、全てサクライくんが悪いような言い方だ。きっとサクライくんが大怪我をしたら、先生はここまでは言わなかっただろう。
でも――
上級生と喧嘩して、相手に大怪我を負わせた彼は、その時一体どんな気持ちだったのだろう……
確かに彼には不良っぽいところはあるけれど、暴力で物事を解決する人間には見えなかったのに……
それから3日間は、何事もなく過ぎた。
いつも彼と一緒にいるエンドウくんとヒラヤマくんは、その3日間、つまらなさそうに、窓の外ばかりを見て、アンニュイな空気を醸し出していた。
「元気ないね」
女子の一人が二人に聞いた。
「ああ、あいつって娯楽がないと、高校生活は退屈だな」
二人はそんなことを言っていた。
「……」
もうサクライくんは、あの二人の生活の一部にさえなりえているんだなぁ、と感心する。
「でも、サクライくん、あの体なのに、喧嘩も強いんだ」
「ホント、あんな女の子みたいな顔して」
クラスでは、彼が上級生を一人で叩きのめしたことで、彼を怖がるどころか、そのギャップに感嘆の声を上げるクラスメイトが多かった。
その中で、アオイは一人、彼の停学が明ける日を、指折り数えて待つ乙女のような表情になっていて、何ともいじらしかった。
でも、私も――
私もこの3日間は、どうも朝、フルートの練習をしていても、上の空で、指が上手く動いてくれないし、来ないことは分かっているのに、音楽室からサッカー部のグラウンドを何度も見下ろしていた。
――なんと言うのか。彼がいないと、朝学校に来ることに、張り合いがないと言うか、胸にぽっかりとした穴が開いたような気分というのか……
停学になった彼は、家で今、何をしているんだろう。怪我自体はたいしたことはないとはいえ、それでも傷を負ったんだろうし、家でゆっくり体を休めているのだろうか……
そして、3日後に彼が登校してきた。
私達はその姿に言葉を失った。
彼の顔には、いまだにガーゼが何箇所も貼られていて、痣も出来、彼の女の子よりも綺麗な顔立ちは、酷い腫れがまだ引いていなかった。頭には包帯が巻かれている。そして彼の両の拳には、相手を殴りすぎたためか、バンテージが巻かれている。
教室の引き戸を開けて、彼がその姿で入ってきた時、教室はしんと静まり返った。
「……」
私も、彼のその姿を見て、絶句した。
彼のその傷ついた姿もそうだけれど――
それ以上に、そんな彼の纏う空気の凄絶さに。
普段学校では、感情のスイッチを切っているかのように、静かな空気を纏っていた彼が、まるで刺すような殺気を全身から垂れ流していた。
そして、その彼の目が……
彼の目に常に灯っていた、静かにチロチロと燃える炎が完全に消えており、ブラックホールのような漆黒の目には、どこまでも虚無が広がっていた。そんな目は鋭さばかりが増していて、上級生を容赦なく叩きのめして、病院送りにしたことが本当なのだと物語っていた。
「……」
知らない人が、そこにいるようだった。
私が憧れた、彼の纏う美しい空気は微塵もない……彼の周りの空気は、この時完全に澱みきっていた。まるで夢遊病者のような足取りで、体を引きずるように席についた。
「は――はははははは……」
その異常さに気付いているだろうけれど、あまりに教室の空気が重かったので、エンドウくんとヒラヤマくんが、彼に近付いていった。
「はは、ケースケ。久し振りだなぁ。随分男前振りが上がったじゃねぇか」
「上級生を3人ものしたんだって? どうやったか、話を聞かせてくれよ」
何ともにこやかな、普段通りのノリで二人は声をかける。
けれど――
「――話しかけるな」
普段よりも、ずっと静かで、だけれど力強い彼の声が教室に響いた。
「……」
その声だけで、彼が今、正常な精神状態ではないということがわかった。まるで極限状態から帰ってきたばかりのように、彼の声は疲労に満ち溢れていて、体の傷以上に、彼の心身が酷く傷ついているのが分かった。
それから4日間――サクライくんは学校に来ると、前までと同じように、自分の机に鞄を置いて、HRの出席にだけ参加すると、すぐに教室を出て行き、誰にも口を開くことはなかった。
朝の僅かな時間だけ見かける彼の眼には、普段の光が戻らず、足取りも重く、疲労だけが彼の周りを支配していて、誰の声にも反応しなかった。
そんな、別人のようになってしまった彼に対して、私は何もできない。何も声をかけることが出来ない。
そして、その日の朝――
突然、私達の教室に3人の男子生徒がやってきた。
3人とも顔はサクライくんよりもずっと酷く腫れており、一人は腕を吊っていて、青痣だらけの体をしていた。
3人はためらいなく教室にずかずか入り込み、まだ包帯の取れないサクライくんの座る席を囲んだ。
教室ではみんな、その様子に背筋を凍らせていた。私もそうだ。誰も先生を呼ぼうにも、体が動かなかった。その時のサクライくんの発する嫌な空気が、全員の足を竦ませた。これからこの教室が、地獄絵図と化すような気がして……
「けっ、運のいい野郎だ。俺らに罪を擦り付けて、早々出てきやがって」
「だがな、今度はこうはいかねぇぞ」
「痛い目に合いたくなかったら、二度と粋がるんじゃねぇぞ」
3人は口々に彼にそう言った。
「……」
それを聞いたサクライくんはゆっくり立ち上がり、一人の目を見て言った。
「なんだ。まだ俺とやる気なのか」
久し振りに聞く彼の声。暗く沈んだ声。その中に、明らかに怒りの色を滲ませた、震えるような声。
それに『俺』って……?
「お前達は3人がかりで、俺に負けたんだ。あの一敗で、俺との力の差がわからないようじゃ、何度やっても結果は同じだ」
「なんだと!」
一人が彼の胸倉を掴む。しかし彼は相手の手首を掴んで逆方向にひねり上げる。その手は高く掲げられる。
「痛い痛い痛い!」
腕を締め上げられる先輩は声を上げる。
このやろう、と、あとの2人が言うと同時に、彼はその手を離した。3人は一歩下がり、僕と3メートルの距離を空けて正対する。
「ひとつ言っておいてやる。俺はこの学校の停学や退学なんて、なんとも思っていない。俺にとって高校は、大学受験資格さえ取れれば何でもよくて、ここを辞めても大検を受けて大学に行けばいいだけの話だからな。その意味がわかるか? お前等を今以上に痛めつけることにも、俺は何の感情も抱かないってことだ」
そう言って、彼は一歩前に進む。3人は後ずさる。
「俺を恐がっているな。そんな程度の覚悟で、俺に喧嘩を売るんじゃねぇ!」
怒鳴るなり、自分の机を蹴り飛ばす。クラスメイトの女子の悲鳴。派手な音が残響する。
「失せろ」
「――」
3人はすごすごと教室を出て行った。
「……」
教室の空気が凍りついた。彼は自分の蹴り飛ばした机を引き上げようと、机に手をかけた。
そんな彼の姿を、私はずっと見つめながら。
思った。もう彼は、この学校を辞める気なのだと。
そして――最初から彼は、そうして大検を受けて、今すぐにでも大学に行きたいんだと。高校生活など、自分にとっては無意味どころか、自分の時間を無駄に浪費させる、憎むべき時間で――
そんな時間に出会ったエンドウくんやヒラヤマくん。そして私も――彼の中ではいつ何時、明日忘れろと言われれば、即忘れてしまう程度の人間でしかないことを、はっきりと思い知った。
私達にとって、かけがえのない時間をくれた彼にとって、私達など、いてもいなくてもどちらでもいい――どうでもいい存在だったのだ。
「……」
私の目から、一筋の涙が伝った。
彼のその言葉――そして、今のその、がらんどうのような目が、あまりに悲しくて。
そんな彼を、心から、引き止めなくちゃ、と思った。これで会えなくなるのは嫌だと、強く思った。
でも、私の足は動かない……
その時だった。
「ケースケ……」
不意にエンドウくんが彼に近付き、後ろから彼の肩に手を乗せた。
そして、サクライくんが振り向きかけた次の瞬間、エンドウくんは思い切り、彼の頬に右拳を叩き込んだ。サクライくんの軽量の体は、その一撃に机や椅子を巻き込みながら吹っ飛んだ。
「きゃっ」
そのすさまじい一撃に、教室で小さな悲鳴が上がった。
体にのしかかる机や椅子をどけながら、彼が上半身だけ起き上がった時――
「――おい」
彼はその動きを止め、怪訝な表情をエンドウくんに向けた。
エンドウくんが、泣いていたからだ。
溢れる涙をぬぐいもせずに、口を真一文字につぐんで。
やがてジュンイチは拳をおろし、僕の目と正対する。
「ケースケ。そんな悲しいこと、言うなよ……」
消えるような、哀願するような、震えたような声だった。
「確かに、お前みたいな天才にとっては、俺みたいな凡人といたって退屈だろう。この学校にだって、何の価値もないのかもしれない……だけど……俺はお前の、そんなひねくれてるけど一直線なところが好きなんだ。功利主義者みたいな顔して、困った奴をほっとけないような、不器用なお人好し加減が好きなんだ。俺やユータのおふざけに、涼しい顔してぶっ飛んだボケをかますお前の独特の間が好きなんだ。冷静にパスを出すくせに、うちのチームが弱いから、押し込まれているポジションのカバーに、いつも走っていく、お前の素人丸出しのサッカーが好きなんだ。お前がいる、この高校生活が好きなんだ」
「……」
「俺はこの学校に入って、お前と出会えて、いつもユータとお前と3人でつるんでバカやって、すげぇ楽しかったよ。俺は、お前やユータのこと、親友だと思ってる。だから頼むから、そんな時間を無駄だなんて言わないでくれよ」
「……」
その彼の言葉を聞いて、彼はずっと怪訝な表情を浮かべていた。
けれど、彼の目からは、先ほどまでの誰も寄せ付けないような刺々しさが消えて、その目に普段の優しさを少し取り戻していった。
彼がその拳を受けて、エンドウくんの涙を見て――どんな心境の変化があったかは分からない。
だけど……
彼は立ち上がると、自分の吐いているジーパンのすそを手で軽く払い、腕で口元を拭って、そのままエンドウくんの横を通り過ぎた。
そして、教室の引き戸を開けて、足を止めて、一言だけ言い残した。
「――悪かったな、ジュンイチ」
先ほどとは打って変わって、やわらかな響きの声だけを残して、彼はそのまま教室を出て行った。
その日、彼はもう二度と教室には戻らなかったけれど、次の日からは、ちゃんと朝のサッカーの自主練習にも復帰し、教室にも顔を出すようになった。あの刺々しいオーラも随分和らいでいた。
そして、この時から彼は、エンドウくんとヒラヤマくんを苗字でなく、名前で呼ぶようになった。
彼があの時、どんな心境の変化を起こしたのかは、私には分からない。きっとそれは、男の人同士の世界の話で、きっと女には理解できないところなのだろう。
でも――今までは、別の絵画をつなぎ合わせたように、別の世界に立っていたような3人の姿が、この時から少しずつ、ひとつの絵として溶け合っているように見え始めたのが、すごく印象的で……
私と彼の一緒にいる姿は、周りの人の目には、まだこうは映らないだろうなということを思い知らされたのが、少し、悲しかった。
はじめて男の人をうらやましいと思った。こういう時、私も男なら、言葉じゃなく、別の何かで通じ合える何かをもてるのに、女である私は、彼と言葉を交わすことしか出来ないから。
でも――この事件をきっかけに、彼のたたずまいに、少しずつ疲労の陰りが見え始めたことは言うまでもない。
停学によって、今まで張り詰めていた糸が切れてしまったのか、それとも別の何かが原因かは分からないけれど。
これ以降の彼は、1年以上もの間、迷走を続けるのだった。