Another story ~ 2-26
サクライくんはエンドウくんの横に着く。これは名前だけは知っている。「だぶるぼらんち」って言うんだよね。
キックオフ後、エンドウくんがセンターサークル付近でボールを受ける。
それからエンドウくんは、左サイドへドリブルをかけていく。
エンドウくんの動きに合わせて、相手のボランチもエンドウくんのマークへと流れる。
エンドウくんはそれを見計らって、踵でボールを後ろへと出した。
「え?」
あのキックは何? ボールの勢いが弱すぎて、あそこには誰も……
その時。
一年生チームの後方から、すごい勢いで走ってきた小柄な人影がそのボールを受けると、相手が左に流れたことで、ほんの一瞬で来た中央のスペースを一気にすり抜け、そのまま一人でゴール前へ突進していった。
さっきまでヒラヤマくんのパスコースを塞ぐことに専念していた上級生のディフェンス陣は、その圧倒的な速さのドリブルにあわてて、後方へと下がってしまった。
しかしそれがいけなかった。ヒラヤマくんのパスコースを塞ぐことで、高く保たれていたディフェンスラインが下がってしまえば、ヒラヤマくんへのパスコースが出来てしまう(もちろん当時の私はそんなこと分かっていなかったけれど)。
サクライくんはそれを見計らって、ヒラヤマくんにボールを流した。
ヒラヤマくんはそれを受けると、上級生のディフェンス人は、サクライくんに気を取られていた分、能力に圧倒的な差があるヒラヤマくんを、ほとんどフリーの状態にしてしまっていた。ヒラヤマくんは右足一閃、強烈なシュートをゴールネットに突き刺した。
ギャラリーが沸く。ヒラヤマくんは右手を上げて、隣にいるサクライくんの下へ駆け寄っていく。
「……」
それから上級生は、サクライくんにもマークを割くようになる。彼をスピードに乗せたら実に止めにくいと悟ってのことなのか、ボランチの選手が一人、ぴったりとマークにつくようになっていた。
サイドの選手が、中盤のサクライくんにボールを出す。サクライくんの背中には、相手がぴったりと突いていて、ボールを受けても前を向かせてもらえない――
だけど。
サクライくんは、ボールを足の裏で勢いを殺したと思うと、次の瞬間には、もうディフェンスの横を抜けて、次の一歩で完全にディフェンスを置き去りにしてしまっていた。
「――え?」
何をやったんだろう、今の――あまりに一瞬のことで,よく分からなかった。何でサクライくんは、あんな一瞬で、ディフェンスをすり抜けられたの?
――今度ボールが回ったら、もう一度注意して見てみよう……
またサクライくんが、ディフェンスを背負ったまま、ボールを受け――
いや、サクライくんはボールを軽く止めると、それと同時に相手を抜き去っている。ボールを受けたと同時に、一瞬で前を向きながら、背中に背負った相手のディフェンスの横をするりとすり抜けていく――
「――あ」
私はそのプレーのからくりが分かった。
ボールを止める技術だ。
しっかりとボールを止め、自分へのパスの勢いを殺しながら、サクライくんは、次のプレーにつなぎやすいボールの止め方をしているんだ。
背負うディフェンスの動きを見ながら、相手のまったく警戒していない方向を見破って、その方向へ動きやすいボールの止め方をする。
そして、一歩目で相手を置き去りにするのは、そのサクライくんの爆発的な加速力だ。一歩目の足の蹴り出しで、一気に加速する。相手の選手は加速で劣るから、一度裏をかかれたら、絶対に対応できない。
――ようやく分かってきた。サクライくんのあの朝の練習の意味が。
彼は自分の今の武器が、スピードとスタミナであることを理解している。それを最大限生かすために、このワンプレーを磨いたんだ。ボールを受けた瞬間に、一気に加速に移れる態勢を作るトラップ技術と、第一歩目で相手を置き去りに出来る爆発的な一歩目の加速力――
実際サクライくんはこの試合、その技術だけで何回もディフェンスの裏をすり抜けてドリブル突破に持ち込むシーンを見せた。そのドリブルで幾度となくチャンスを演出した。2年後、彼が世界的プレーヤーになったのも、このボールを止める技術に長けていたこともある程度影響している。
後半、1年生チームはサクライくんが入ってから、ぐっとチームの運動量が増えた。
上級生がボールを持つと、サクライくんはその俊足と運動量で、中盤のどこにいても、先輩達に張り付いた。彼自身の軽量と、ディフェンスの経験不足のせいもあって、自分ひとりでは、まだなかなかボールは取れなかったけれど、彼は相手の足を止めるだけは、最低限確実にやってのけていたから、彼の稼いだ時間でエンドウくん達はしっかりと陣形を立て直すことが出来ていた。
そして攻撃になると、サクライくんは相手に少しでもスペースがあれば、必ずそこに走りこんだ。エンドウくんもそれを見逃さずにパスを出し、何度も上級生の喉元を抉りにかかった。
「わぁ……」
2年後、サクライくんのドリブルは、「春風ドリブル」と称され、舞を踊るような華麗さがサッカーファンを魅了したが、当時の彼のプレースタイルは、まだまだ大味で荒削りだった。2年後にはパス、ドリブル、シュート、全ての面で高い技術を持つオールラウンダーに成長する彼だけど、当時まだフリーキッカーでもない彼は、パスやシュートは基礎を一通り学んだ程度の精度しかなく、パスで相手を崩す技術は皆無と言ってよかった。ドリブルもタッチが荒く、加速してしまうと手がつけられなかったけれど、前をふさがれると、フェイントもかけられないから、抜くことも出来ず、よく止められることもあった。
けれど当時の彼の、嵐のような激しいドリブルは、それだけでチームを勢いづけた。私は春風ドリブルも好きだけど、当時の彼の、嵐のような激しいドリブルも好きだ。スピードに乗ると、がむしゃらに走る分、見ていて心が高揚する。
まだ荒削りだったけれど、サクライくんが走りこみ、エンドウくんがそこにパスを出す。そしてサクライくんからヒラヤマくんにボールが通る……そのワンプレーが、常に私をワクワクさせた。この3人が連動すると、必ず何かが起こるような期待は、この頃から2年後も変わらずにあった。
サクライくんが入ったことで、1年生チームは中盤にもう一本心棒が通って、チームの流れもさらによくなった。彼のドリブルを警戒したことで、上級生はヒラヤマくんのパスコースを塞ぐだけに専念することは難しくなり、ヒラヤマくんのチャンスは大幅に増えた。守備でもサクライくんがその俊足とスタミナで、広範囲をカバーしてくれるために、相手チームの攻撃のスピードが落ちて、エンドウくんがとても守りやすくなり、ボール支配率はさらに増した。
それがすぐに結果に現れる。1年生チームは後半40分だけで、ヒラヤマくんが5得点を挙げて、上級生チームを完封――圧勝で試合を決めてしまった。
「……」
前半のサッカーも悪くはなかった。でも、後半のサッカーは、それとは比べ物にならないくらい美しかった。
私も彼ら3人の、息のぴったり合ったプレーに、心が躍った。私はこの試合の観戦を機に、本格的にサッカーにのめりこんでいくことになる。
そして――
「あ……」
「そうよマツオカさん。今までよりもずっと音がよくなったじゃない」
私のフルートの音色は、あの試合の直後から、急によくなったと、先生に絶賛された。
私は、さっきの試合を見ていて、ヒントを得たのだ。
私のような初心者が、譜面どおり完璧に吹こうと気を張っては、緊張で音は出ないし、何よりも周りの楽器の音も聴こえない。
今までの私は、ずっと自分の演奏を如何にやりきるかに頭がいっぱいで、周りの楽器の音を聴こうということに、頭が回らなかった。小さな頃から独奏専門だった私は、今までずっと、全てソロパートのつもりで全小節吹いてしまっていたんだ。だから私の音だけは、ひとつの楽団の音の中に溶け込めず、おかしな演奏にしてしまっていたんだ。
それに気づいた私は、少しミスをしてもいいから、周りの楽器の音をしっかり聴いて、周りの仲間がどんな演奏をしたいのかに気を配ることにした。そうすることで、私のフルートの音色も、楽団の音の中に溶け合うことができたのだった。
「……」
――すごい、こんなに変わるんだ。
今までは、気づかなかった。この吹奏楽部の演奏にも、表情があって。こうしてみんなで作り上げる演奏は、もちろん譜面も大事だけれど、それ以上に、その楽団の表情や輪郭のようなものがあって、それを如何に際立たせるかが重要だということにも気付いた。ようやく私は、効してみんなで演奏する音楽の醍醐味に辿り着くことが出来た。
それを気付かせてくれたのは――少ない武器の中で、自分のできることを最大限やっていたサクライくんのプレーと、走りこむサクライくん、パスを出すエンドウくん、フィニッシュを決めるヒラヤマくんの、3人の美しい連動したプレーだ。自分が初心者でも、私もあの3人のように、この楽団の中に溶け込みたい。その方法は必ずあるはずと思って、自分だけ上手く吹こうという考えを捨てて、それに徹しきって一度吹いてみたら、私の世界も変わった。
「……」
――やっぱり、サクライくんはすごい。
この時から私は、自分が困った時に、サクライくんならこういう時、どんな行動をとるか、ということをまず考えてみる癖がついたんだと思う。自分を客観視することにもなるし、何よりそうすると、自分でも思ってもみないような新しい発見に出会えたり、結果がついてくることが多かったからだ。
その度に私は、サクライくんからもっと教えを請いたいと、希うようになっていた。
――練習が終わって、私がミズキ、アオイと下駄箱に降りてきた時、再び私達は、練習から引き上げるサッカー部の面々と鉢合わせた。
私達の姿を見つけるなり、エンドウくんたちがこちらに向かってくる。今日はサクライくんもいる。
「見てくれよ。俺、背番号貰っちゃったぜ」
そう言ってエンドウくんは、自分の手に持っていた、ハンカチ大の布切れを差し上げた。そこには19と書かれている。大会のベンチ入りの証だ。
「ま、当然だな」
ヒラヤマくんも私達に、背番号11を見せる。この番号はスタメンの数字だ。1年生にしてヒラヤマくんはスタメンに抜擢されたということ。
「あ、あの――サクライくんは?」
アオイがさっきまで黙っていたサクライくんに問いかけた。
「……」
サクライくんはしばらく黙っていたけれど、自分の短パンのポケットから、持っている布切れを取り出し、開いて見せた。
そこには、20と書かれていた。これは高校サッカーでは、ベンチ入り最後の選手に与えられる番号だ。
「ははは、ま、番号はドンジリだけど、なんにせよ、1年から俺たち3人ベンチ入りしたぜ」
エンドウくんが両隣にいるヒラヤマくんとサクライくんの肩を掴んだ。
「――やめろ、暑苦しい」
サクライくんは憮然として、エンドウくんの手をすり抜けた。
「……」
相変わらず涼しい顔――嬉しくないのかな?
「あ、あの、おめでとう……」
私の横のアオイが、サクライくんを見て、祝辞を述べた。
「……」
それを訊いてサクライくんは、しばらく押し黙っていたけれど、やがて一言、サンキュ、と、小さく言った。
――それから2週間後の吹奏楽部のパート選考会。私は見事フルートの第一走者に選ばれ、なんとソロパートまで与えられることとなった。
家族に報告したら、すごく喜んでくれたけれど。
このことを、サクライくんにも伝えたかった。私をここまで導いてくれたのは、サクライくんから貰ったヒントのおかげだったから。お礼も言いたかった。
でも――その機会が来るのは、まだずっと先……
もう学校は夏休みだ。前みたいに二人きりで会って話が出来る機会があるのは、しばらくないのだ。
「……」
私は生まれて初めて、今年の夏休みがすごく長く感じそうだな、と予感した。