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Comprehend

 ユータの家の風呂は、石造りのゆったりした浴槽で、風呂が好きな僕は、この家に来ると、この風呂に入るのが、一番の楽しみだった。

 体を洗い終わり、僕は大きな浴槽に体を下ろした。僕の小さな体では、この浴槽で足が伸ばせる。昔銭湯に行った時に、広い風呂ではしゃいだ感覚を思い出す。

 高い天井を見上げる。湯煙で曇った先――そこには西洋風の、炎のような形を模った電灯が一つ、こうこうと輝いているだけ。僕は目を閉じた――

 静かだ。

 家族に神経を尖らせることもなく、自分の心配をすることもない。そして、色んな思案に耽ることもない。僕にとって、とても不思議で穏やかな感覚だった。

 家族がいない世界は、こうして確かに存在する。だけど、僕はそのことを知らない方がよかったのかも知れない。あの二人とつるんで、いつしか二人の家に泊まったりして、僕は知ってしまった。知ってしまったからこそ、今の現状に怒りが込み上げる。

 知らなければ、あれを当然の世界として、受け入れられたかもしれないのに……

 脱衣所のドアが開く音がした。優しそうな女性の声がする。

「ケースケくん、バスタオル置いておくわね」

「あ、はい。ありがとうございます」

 扉越しに母親に向けた僕の声は、風呂場に反響した。

 バスタオルを置く音がした。僕は、手桶で浴槽のお湯をすくい、顔を洗う。

「ケースケくん」

 扉越しに声がした。その声はいつもよりも神妙な響きだった。

「ケースケくんみたいな子が、うちの息子の友達だなんて、嬉しいわ」

「いえ……別に」

僕はのぼせたのも手伝って、急に体が火照りだす。

「あの子って軽いでしょ? だからずっと、あの学校に行くのは、私達反対したのよ。あんな真面目な学校じゃ、あの子は絶対馴染めないに決まってる。半端者になって終わるのがオチだって。でも、ケースケくんがいるから、こうしてギリギリだけど進級も出来てるし、サッカーも張り合いがあって楽しいみたい。ケースケくんには、本当に感謝してるわ」

「……」

 ユータの母が、最後のフレーズで思い出し笑いをするような声が聞こえていた。

これは、『親心』というやつなのか。親心という感情を、僕は知らないし、受けたこともないけれど。心配してくれる人がいるってことは、幸せだろうか、それとも重荷なのか。

「あの子、中学までは友達って呼べる子がいなかったのよ。あの子軽いから、どうしても回りの理解を得られなくてね。だからケースケくんとジュンくんが初めてなのよ。こんなに男の子同士で、あの子が楽しそうにしてるのは。高校に入って、よくユータが言うのよ。ケースケはすごい奴だ、って。あれで結構、ケースケくんから刺激受けてるみたい。ユータが友達のことを話すことなんて、今までほとんどなかったから」

「……」

 僕はユータの過去を知らない。過去にあまり興味がない。

だけど、あいつにも結構繊細なところがあるんだな。確かに、男は寄り付かないタイプかもしれない。クラスでもユータのことを誤解している奴が結構いる。真面目な女子は、浮気っぽいイメージからか、ユータのことを敬遠するし、男はもてるユータを僻んでいる。

 だけど、確かにユータは入学当時よりも変わった。前は自分から進んで人と関わる人間ではなかった。黙っていても女の子が寄ってくるから、それを相手にしているだけで、好きな奴意外と進んで関わることはなく、時には寄り付きがたい空気を出している時もあった。そんな奴が、今ではチームで部長をやれるくらいの人望は手にするようになった。ジュンイチに比べると、若干ぼけーっとしていて、おおらか過ぎる部分はあるけど、それでも昔の冷たい感じは随分消えている。

「ごめんね、お風呂中に変なこと言って」

「……」

 脱衣所のドアが開く音がした。

「ゆっくりしていってね、服は、洗濯しておこうか?」

「いえ、家に持って帰って、自分で洗います」

「そう、別に遠慮してくれなくてもいいのに。じゃあ背中流してあげようか?」

「――いいです……恥ずかしいので」

「あら、ケースケくんの体は、誰に見せても恥ずかしくないわよ。まあ、ゆっくりしていってね」

 明るい声を残して、ドアの閉まる音がした。また、浴室に、静寂が流れた。

「……」

 ここでは、僕は『肯定』されている。

 家では『否定』され続け、いつも殺気めいて、周りに憎悪をぶつけている、この僕が……

 『理解』――僕とジュンイチは、それをユータに与えた、初めての人間だったのか。

 何となく気持ちはわかる気がする。僕も異端視され、省かれるタイプの人間だったから。ユータの過去を詳しく訊いたことはないけど、確かに男友達は出来にくいタイプだ。難しい奴であることはわかる。

 そういう奴は一人になってしまい、予定調和というか、自分を繕いがちになってしまうものだ。きっと、僕達の前に見せるユータが、素のユータなんだろう。ユータが他の奴と、僕達と接する時は、明らかに違う表情や仕草がある。

 いいな。僕もそんなものが欲しかった。そして僕は、それをいまだ手に入れられないでいる。あいつらの前でさえ、どこか繕いがちで、いつでも本当の気持ちも曖昧なままで、佇んでいるだけだ。

 体をいっぱいに伸ばす。浴槽に体が滑り、僕はずるずると、顔を湯の中に沈めていった。

 ぶくぶくぶく……ぶくぶくぶく……

 ――「君が、僕の何を知っているんだ?」

 ああ――あの時、マツオカは、泣いていたんだ。

 なんてことをしてしまったんだろう。彼女には、何の罪もないのに。僕自身でさえ、自分のことなんて、よくわかってなんかいないのに。

 僕にない、平穏を持っている彼女。彼女なんかに、僕の気持ちがわかってたまるか。何で彼女は幸せで、僕はこんな惨めに生きなくちゃいけないんだ。

 幸せな姿を見せ付けられたような気がして、彼女に見下されたような屈辱を覚えた。

 そう思っていたけれど――

少なくとも、わかろうとしてくれたんじゃないか。こんな僕のことを。

 僕は、彼女に、なんて謝れば……僕を『肯定』してくれようとした、彼女に・・・・・・

 ――風呂から出て、先ほどの部屋に行くと、酒に酔ったユータとジュンイチが、泥のようないびきをかいて、床に臥して眠っていた。

 こいつらだって――そうなんだろう。

 こんな自分を、『肯定』してくれた――そんなこと、生まれて初めてだったから、とても嬉しかったんだ。長く一緒にいて、その時の気持ちをつい忘れがちになってしまうけど。

 呆れることも多いけれど、僕はこの二人に何度も癒され、何度も感謝している。

 僕に初めて出来た『友達』――対人関係が苦手な僕を気遣って、こいつらが、他のみんなに、僕のことでフォローしてくれているのも知っている。

 きっとこの二人が側にいなかったら、僕は高校でいまだに一人ぼっちだっただろう。またいじめを受けたかもしれない。学校で、時間の重さが今以上に僕にのしかかってくる。家にも帰りたいわけでもないのに、時間が早く経つことだけを望んでいるような毎日を送っていたと思う。一寸の居場所も見出せずに、僕は自分で築いた地下室の奥底で、膝を抱え、更に卑屈になっていたかもしれない。

 この二人が、僕を地下室から連れ出して、日の光を浴びせてくれる――二人のお陰で僕は、人間としてあるべき姿を、なんとか首の皮一枚とどめているんだ。

 でも――僕はそれだけじゃ抑えられないところまで来てしまっている。望んでいるものは、こんなものじゃない。欲しいものは、最悪を免れただけの生き方じゃないんだ。

 こんな生き方じゃない。もっと自分の生きる道は、自分の力で切り開けるはず。

 僕は二人を背負って、引きずるように寝床に運んだ。気がつくと、もう1時を過ぎていた。自分の鞄から、歯ブラシと、歯磨き粉を取り出す。洗面所を借りて、綺麗に歯を磨く。歯医者に教わった通りに、一磨きで一本ずつ、時間のある夜は、丁寧に。でも今日は、アルコールの臭いが消えなかったから、いつもの倍、歯磨き粉を使った。

 鏡を見ると、歯ブラシを咥えた僕の顔は、酷くやつれていた。目にはどろんとした死相が出ている。ぶすっとした顔には、何のそっけもなく、輪郭からはがらんどうみたいに空虚な雰囲気だけが滲み出ていた。

 笑顔を作ってみる。ぎこちなく、醜く歪んだ顔は、石膏像のように冷え切っていて、深いシワが刻まれただけだった。

 こんな顔を、皆に見られているのか・・・・・・僕の17年は、一体何を生み出したのだろう。

 これが僕の姿か? ここまで身も心も痛めつけてきた、努力の結果が、これか?

 変えなければ、変わらなければ。このままじゃいけない。勝ち取らなきゃいけないんだ。

 ずっとこのままでいるつもりはない。見てろ、やってやるさ。


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