Another story ~ 2-16
私の家では、最近小学3年生になった弟のシュンが、小学校の野球チームに入ったことで、家でプロ野球を見たりすることが多くなった。私も夕食の後、見たことがあるので、当時の私は、サッカーよりも野球の方が何となくの知識があった。
とは言っても、そんな高度なことは分からない――でも、すぐに分からない、と投げ出すような人、サクライくんは嫌いそうだし……
ヒントを参考に、まずは自分だけで考えを巡らせてみる。サクライくんは絵の続きを描きながら、それを待っていた。
「えっと――三振が少ない、ってことは……ボールをバットに当てるのが上手い、ってことだよね」
私は自信なく呟いた。
「その通り」
だけどサクライくんは、その回答に、絵を描きながら頷いた。
「じゃあ、その、当てるのが上手い、ってことは、どういうことだ?」
次の質問が飛んでくる。
「……」
――これなら、中学でテニスをやっていた私なら、分かるかもしれない。
「えっと――目がいい?」
「その通り」
サクライくんは言った。
「当てるのが上手い人は、動体視力がいい――それはつまり選球眼がいいってことだ。ということは、普通なら三振が少ない打者っていうのは、四球が多いはずなんだ。イチローのバットコントロールなら、くさい球をカットしてファールにも出来るんだから、尚更だ。だが、イチローは四球が少ない――さて、このデータから導き出される答えは?」
再び次の問い。
「……」
四球を選べる実力のある打者が、どうして四球が少ないか……
――あ、そうか、四球だけじゃなく、イチローは三振も少ない、ってことは……
「イチローは、ツーストライクかスリーボールになる頃には、大体もう打っちゃってるから?」
「ご名答」
サクライくんは、初めて絵を描きながら、私の顔を見た。
「さすがに学年トップだな。野球に詳しくなくても、理論の構成力がある」
「そんな……」
サクライくんに褒められると、ちょっと照れる……
数日前、クラスでオムライスの練習をした時に、私が作れるようになったオムライスを食べた時も、サクライくんは褒めてくれた。『美味いな』の一言だけだったけれど、普段無骨な人が、ほんのわずかでも優しい言葉をくれると嬉しいものだ。
「つまりそういうことだ。イチローは相当な早打ち選手なんだ。野球を知らない人から見れば、イチローはフォームもカッコいいし、落ち着いて綺麗にヒットを打つから、静の印象があるだろうけど、実際のイチローは、ストライクが来たら殆ど何でも振りに来る、悪い言い方をすれば、ダボハゼみたいな動きすぎの選手だ。だから三振か四球かってカウントになる前に、打席が終わっちまう」
「そうなんだ。私もイチローって、もっと腰をすえてじっくり打つ選手かと思っていたな」
確かに、ちょっと意外だった。
「でも、何でそんなに早く打つんだろう……」
私は沸き上がる疑問を呟いた。
「それが200本安打の肝なんだよ」
サクライくんは再び絵筆を走らせる。
「年間200本ヒットを打つのに、一番重要な要素は何だと思う?」
再び質問をされる。
「……」
再び考える私。
「うーん……技術、っていうのは、その前提だよね……てことは、何だろう……」
「簡単なことさ。ヒットを打てるチャンスの回数が如何に多いか、だよ。言い換えれば、打席が一回でも多く回ること」
「あ……そうか」
あまりに単純な話に、私は一瞬がっくりする。
「3回に1度打てれば一流って言われるプロ野球で、年間200本ヒット打つには、そのレベルにいるイチローでも単純計算で600打席いることになる。だから200本年間に打つ選手は、大体が1試合で一番打席が回りやすい一番打者だ。イチローも一番打者だし」
「……」
「だが、これはあまり知られていないんだが、イチローはメジャーに行ってから、怪我で離脱したシーズンを除いては、全てのシーズンで最多打数を記録している」
「え? 全部?」
「そう、全部だ」
サクライくんは私の顔を見ずに頷いた。
「これは偶然の数字じゃない。イチローが一番打者でも、他のチームにも一番打者はいるんだから、イチローだけ打席が特別多く回るわけじゃないからな。なのにそういう打者を押しのけて、毎年最多打数を記録する……その答えが、さっき君が解いた、イチローの早打ちの秘密さ」
「――あ」
私の中で、さっきまでの流れが一本につながる。
「イチローは、四球を捨ててでも、打席を増やすために、早打ちをしている――」
「そういうことだ」
「……」
じっくりボールを見ていれば、四球で歩けたかもしれない。だけど、その分打席――ヒットを打つチャンスが一つ減る。イチローの早打ちは、自分が定めた200本安打っていうノルマ達成のために、意図的に打席を増やすための手段……
「イチローはノースリーからでもバットを振るし、四球は、自分が打てるボールがこなかったら、仕方なくもらう、って感覚でいる。それでイチローの打席は、年間50以上は確実に増える。もしイチローが全部の打席、じっくりボールを見るような打者なら、四球も増えていただろうから、その分打数も減る――10年も連続して200本安打は打てなかっただろうな。毎年最多打数を記録するってことは、それだけイチローが200本安打にこだわっている証拠さ」
「……」
「イチローは確かにすごい打者だけど、10年連続200本安打は、技術だけじゃ出来ない。技術プラス、イチローがその記録達成の目的に徹しきったから出来た芸当さ」
サクライくんがそうまとめた。
「……」
才能や、技術だけで目的を達成できるほど、甘くはない――あのイチローでさえ、目的のために自分からチャンスを増やそうと頑張っている。
今までそういうことを考えたことはなかった。
それを自分に置き換えてみると――私は今まで、そういう強い意思を持って、何か行動が出来ていただろうか。
「普通一番打者は、どんな形でも塁に出るのが仕事だが、恐らくイチローは、打席に入ったら、もうヒットを打つことしか考えてない。じゃなかったら、イチローの記録した数字は出ない。めちゃくちゃ打ち気に走っていて、それが目的のためだって自信があるから、迷いなくバットが出る。その自信が技術と合わさって、ヒットが出るのさ」
「……」
目的のためだという自信……
「マツオカ」
不意にサクライくんが、私を読んだ。
「君の話を聞いていて、思ったんだが、君の考え方って、いわゆる野球で言う、ツースリーに追い込まれたバッターの心境と、ちょっと似てるんだよな」
「ツースリー……」
「ああ、普通ツーストライクまで追い込まれたら、バッターは次の球、ちょっとくさいコースでも、ストライクゾーンに来たら何でも振らなきゃ、って、自分の狙うコースを広く取る。来た球を何でも打ち返さなきゃ、っていう、今の君の心境に似てないか?」
「――そうかも」
「だが、追い込まれたバッターが、スリーボールまで粘ってツースリーまで来たとする。こうなるとバッターは、どうしたって四球がもらえるかも、って期待するんだ。そうすると並のバッターは、バットを振るって意識が半減して、大いに迷う。待ってピッチャーがボールを投げてくれれば、自分は塁に出られるからな。それをちょっとでも期待したバッターは、まずバットが振れない。ヒットが打てない。いい球が来ても金縛りにあって見逃しちまうんだ」
「……」
サクライくんの言葉が、自分のことを言われているようで、胸が少し痛い。
私もそうだ。高校にはいって、自分のことや周りのこと、色々なことに悩み、迷った。その結果、うじうじと悩んでばかりで、肝心なときに金縛り――何も出来ない状態が続いた。バットが振れなかった。
「――でも、イチローならその場面でも、バットが振れる……」
私はサクライくんの次に言いたいことを推察する。
「その通りだ。イチローは一球一球、何時でも打つ意識を忘れない。だからバットが思い切り振れる。ツースリーどころか、ノースリーでも。バットは思い切りよく振れないと、ボールは前に飛んでくれないからな。ヒットを打つ上で、迷いなくバットを振るってのは、一番重要なんだよ。イチローは多分、そういう迷いに縛られたくないから、はじめから四球を欲しがらないんだろうな」
「――改めて、イチローってすごいバッターだって、分かった気がするわ」
「だろう? もちろんここまで打つ気満々だと、普通それが力みになって、ボール球とかに手を出しやすくなるはずなんだけどな。イチローがそうならないのは、もうイチローは、そうして打つ気満々の精神状態が正常になるように、精神コントロールを完璧にやっているからなんだろうな。イチローは技術も凄いけど、打席の中での精神コントロールが、それに輪をかけて凄いと僕は思う」
「……」
とても面白い話だと思った。迷いを抱える私にとって、そういう一流の人間の取り組む姿勢というのを、こうして詳細に訊けるというのは、実にためになる。
「マツオカも、今の打法を続けるのであれば、まずは迷わずバットを振ることだ。それで、自分からもヒットを打つチャンスを掴みにいくことだな。それが難しいなら、今の打法を変えた方がいい。何でも打つなんて、そうそう出来るものじゃないし、狙い球をもうちょっと限定するのもいいんじゃないか?」
「狙い球……」
私はその言葉を反芻する。
「ああ、少なくとも今の君は、まだ自分の打席でのあり方がまだ出来上がっていない。別に君がイチローみたいに早打ちになる必要もないし、まだ15なんだ。全打席ヒットを打つ必要もないだろう。今は自分の打法を作ることに専念した方がいいと思うが」
「自分の……」
――それは、自分のあり方。今自分が何をしたいか、今後どうしたいか……
「――あの」
私は絵筆を走らせるサクライくんに、おずおずと声をかける。
「ありがとう――話を訊いてくれて。アドバイスまでもらっちゃって」
「――別に、コーヒーの礼だ」
サクライくんは、自分の傍らに置かれている、私がさっき差し入れた缶コーヒーに一瞬目を落とす。
「僕は物乞いじゃない。金は払えないが、せめてその分の対価は払うのが、僕の主義だからな」
「……」
「120円分くらいのアドバイスにはなったか?」
サクライくんは絵筆をパレットに置き、私の方を見た。
「……」
その絵を見て、私ははっとする。
彼の目――徹夜で疲れているだろうに、目の奥で、種火が灯っている。まるで、この地球が出来上がってすぐ――遠い昔、この星が激しく燃えていた時代の名残を残すような、遠い、だけど激しい炎が。
この文化祭の間――彼の行動の隙間に感じていた、その激しさの正体を、この迷いや淀みのない、激しい目の光に見る。
「――あの、迷惑ついでに、もうひとつ訊いていいかな?」
私は無礼を承知で、サクライくんにもう一度問いただしていた。
「サクライくんは――イチローを目指してるの?」
私はそう訊いた。彼の目を見て、彼も思い返せば、バットを迷いなく振ることを常に心がけているような、まっすぐな行動をいつだってとっていたと思えたから。
「おいおい、世界最高峰のバッターと、ただの中学上がりのガキが、同列に語られちゃイチローに失礼だぜ」
だけどサクライくんは、それを否定した。
「だが、僕にとっての理想がイチローだってのは間違いない。僕も相手任せで塁に出してもらうより、自分の力で道を切り開きたいからな。今はそれに近づけるように、とにかく自分なりに打数を増やして経験地を上げながら、常にバットを振る意識を自分に植え付けようと訓練してるってだけさ」
「……」
打数を増やす――それもその人の打席の考え方のひとつ、か。
この人も、まだまだ自分の打法を構築している最中なんだ。自分のあり方を構築したいと思っていた私と同じ――ただ、その貪欲さが、私とは比べ物にならないだけ。
――そうしているうちに、サクライくんがさっきまで筆を入れていた、黒い角を生やした悪魔が完成していた。サクライくんは最後の一塗りを入れると、絵筆を水の張ったバケツに突っ込んで、ふう、と息をついて、立ち上がった。
「日が出てきたな」
そう言って、私の横で、東の空を見た。私もその声に、顔を上げる。
地上5メートルほどの高さの足場から見る東の空――民家の屋根の間から、少しオレンジがかった朝日が頭だけ少し顔を出し、東の空の低い部分だけを、淡く輝かせていた。その傍らには、金星が輝いていて、まるで真珠のようにはっきりと見えた。
「……」
こんな高いところから見る朝日はまた格別のものがあって、初日の出とはまた違う感動があった。
同時に、今までうじうじと悩んでいた自分の懊悩に、隙間からこの朝日のような、淡い光を少し当ててもらえたように私は思い、そこで思い切り、胸に息を吸い込むと、ふっと心が少し軽く、自由になれたような気がした。
「――さあ、眠くなる長話は終わりだ」
私が朝日を眺めている間に、サクライくんはまた足場にしゃがみこんで、パレットで新しい色を調合し始めた。
「長い話を訊いて、おねむにもなっただろうし、もう不審者も出ないだろう。早く帰ってもう一眠りするんだな」
そう私につっけんどんに言った。
「……」
もう缶コーヒー120円分の説教は終わったということなのだろう。私も早く帰って、家族が起き出す前にベッドに戻っていないと、心配をかけてしまう。
足場から、学校の正門の脇に立っている時計を見ると、午前4時を回ったところだ。やはり夏至の近い時期の日の出は早い。
「――あの、ありがとう。サクライくん」
「……」
「本当に、ありがとう……」
私はちゃんと気持ちを伝えたくて、二度もお礼を言ってしまう。
「気をつけて帰れ」
サクライくんは、それでもつっけんどんに、私を見ないまま、それだけ言うだけだった。
「――うん。絵、頑張ってね」
私もそれだけ言って、足場を下り、校門の脇に止めてあった自分の自転車に乗り、家路へと漕ぎ始めた。
「――ふふ」
――自転車を漕ぎながら、私はちょっぴり眠かったけれど、それ以上にこの短い時間の余韻に浸っていた。
――ちょっと眠いけれど、家に帰っても、何だか眠れそうにない。サクライくんがさっき教えてくれた、自分の打法の構築――自分が何を思い、何を望むか、さっきの話を忘れないうちに、しっかり考えてみたいと思ったからだ。
そう思うと、私は早朝4時の、誰もいない道を自転車で、全速力で疾走していた。
この回は野球に興味ない人、イチローをよく知らない人には分かりづらい話ですいません。イチローの打撃考察も、作者の独断と偏見なのですいません。一応データ的には間違ってないはずなんですけど。
ちなみに作者は以前イチローの話で、盗塁についての心得を聞いた時に、感銘を受けたことがあります。盗塁をするにあたって、イチローはリードをあまり取らないっていうのが成功の秘訣なんだとか。リードを長く取れば、次の塁の距離が縮まって一見有利だけど、けん制で戻る方にも神経を集中しなきゃいけない。そうするとどうしてもスタートが遅れやすくなるから、確実に戻れる距離のリードで、スタートを素早く切れる方が,無理にリードを取るより盗塁が成功するって考えを語ってて。
イチローっていう人は、本当にひとつのことに徹しきっているんだなぁ、と感心したことがあります。盗塁も、塁に戻ることを考えていたら、成功しないっていうのは、イチローのすべての行動に通づるものがあると思ったのですよ。