Another story ~ 2-15
「何してるんだよ。こんな時間に」
サクライくんの静かな声は、この夜空に不思議な響きを余韻に残す。
「あ――あの……」
ど、どうしよう――これじゃ思いっきり不審者だ。何とか説明を……
――で、でも、どうやって?
今の私の感情は、思いっきり個人の感傷だ。そんなものを彼に訊かせても、呆れられるか引かれるだけだろう。
「……」
沈黙。
「――何にせよ、感心しないな。こんな時間に女が一人、出歩くものじゃない」
そう言うと、サクライくんは自転車から降りて、門の隣でストッパーをかけた。
「送ってやることも出来ないが、不審者に捕まったり、補導される前に早く帰れ」
そして、自分の自転車のかごに乗っている、スーパーのビニール袋を持って、私の顔を見ずに言った。
「……」
「それか、この時期は4時になればもう外が明るくなる。あと30分くらいだろうから、それまで校内でも回って、時間を潰すんだな」
「……」
サクライくんは、いつもこうだ。優しいのだか、冷たいのだか、よく分からない物言いをする。
それだけ伝えると、もう自分の言うことはないということなのか、私には目もくれず、自分の作った校門に背を預けて座って、持っているビニール袋から、コンビニ弁当を取り出した。
「――え?」
そんなサクライくんを見ていた私は、ふと首を傾げる。
サクライくんの持っているビニール袋には、コンビニのおにぎりやパンが、みっしりと入っていて、とても一人前とは思えない量だった。
「――そんなに、食べるの?」
私は彼に訊いていた。
「悪いがひとつもやれんぞ」
彼は割り箸を割りながら言う。
「いや、そういう意味じゃ……」
「全部賞味期限が切れてるからな」
「え?」
「賞味期限の切れたものを、人に勧めるのは失礼だろう」
「……」
それだけ言って、彼は黙々とコンビニ弁当を食べ始める。
「……」
まるでそれが当たり前のように食べている。彼は毎日のようにアルバイトをしていると、洋食屋さんが言っていたけれど、もしかして毎日こんなものを食べているのだろうか。
「ふあ……」
サクライくんが、ひとつ欠伸を噛み殺した。しょぼしょぼした目で、コンビニ弁当にまた箸を伸ばす。
「……」
私は一度校舎の中に走り、食堂近くにある自動販売機で、冷たい缶コーヒーをひとつ買って、もう一度彼のいる校門に走る。
「あ、あの」
まだコンビニ弁当を、ゆっくり食べている彼に、私は缶コーヒーを差し出す。
「ん? くれるの?」
サクライくんは澄んだ瞳を丸くする。
「う、うん。差し入れ……今日、徹夜みたいだから」
「――サンキュ」
そう言って、彼は私から缶コーヒーを受け取ると、小さく一口飲んだ。
ほう、と、小さく息をつくサクライくんの顔は、その女性的な容姿も手伝ってか、何だかとても幼く思えた。
「あ、あの、私、少しこの絵、見ててもいいかな……」
私はそんな彼を見て、思わずそう口にしていた。コーヒーを飲んだ彼から、少し私への警戒心が消えたような気がしたので、とっさに声が出てしまったという感じ。
「ん? ――別に構わないけど」
「あ、ありがとう」
私は何故かお礼を言ってしまう。
コンビニ弁当を食べ終わると、彼は学校の水飲み場で、金バケツに水をたっぷり汲んできた。絵筆を洗うためのものみたいだ。
片手でバケツを持ちながら、もう片方の手をかけて、バケツをガチャガチャ言わせながら、足場を登っていく。
足場の上には、彼がバイトに行く前に使っていたパレットと、様々な太さの絵筆がそのまま置いてある。絵の右下の方――角を生やした、黒くて恐ろしい、鹿のような、悪魔のような形相の生き物が、少し書きかけになっている。彼はアクリル絵の具を調合すると、無造作にべたりと絵筆で木目に絵の具を塗りたくった。
「……」
彼の隣で、私も足場に登って、絵を初めて至近距離で見る。
こんなに無造作に、いきなり塗っちゃっていいの? とも思ったけれど、こうして近くで見ると、どの箇所も雑に塗られた場所は少しもなく、むしろそうして迷いなく塗られた背景のオレンジ色は、明るい色がさらに際立っているように思えた。
それを感じてから、もう一度彼の絵筆の走りに目を奪われる。
もう、私のことなんて目に入っていないという感じに、彼の絵筆は一心不乱に動いている。少しの乱れもなく、リズムを刻むように軽快に。その姿を見ていると、まるでモーツァルトやベートーベンの独奏曲を聴くような高揚感に包まれる。
「……」
彼を見ていると、何をやっても絵になるなぁ、と感心してしまう。オムライスを作るのも、勉強しているのも、文化祭の仕事をしている時も。初心者のサッカーや、授業中に暇つぶしに弾いているピアノやギターでさえ、彼の仕事には、自分はこうしたいんだ、っていう意思を明確に感じる。
だからだろうか、彼の動きや佇まいには、いつだって自信に溢れていて、迷いがなくて……
――私のフルートも、こんな軽快な感じが出たらいいのに。そう思って練習しても、まだ音が泥臭くて、重くて、おしゃれな感じじゃないんだよね……一度音が崩れると、めちゃくちゃに音が乱れてしまうし。
「――すごいね。サクライくんは」
私は思わず呟く。
「――ん?」
彼は絵筆を走らせながら、こちらを見ず、反応だけ示す。
「だって、自分の考えを、いつも形に出来るから」
私は指で、絵の木目をなぞった。
「自分の考え?」
サクライくんはその言葉を反芻する。
「じゃあ君には、この絵に僕のどんな意思を見る?」
彼にそう質問される。
「……」
目の前の絵は、女神を先頭に、多くの人や動物、悪魔などが空に浮かんで入り混じる絵――背景は黄金色に照らされる雲海で、下に行けば行くほど、その光が弱まり、暗い空が広がっている――
「――底知れぬ、深い怒り、かな」
私は小さく呟いた。その回答に自信がなかったからだ。
「……」
だけど、私の隣にいるサクライくんは、その言葉に、ぴくりと反応する。
「――何故、そう見る?」
彼の言葉のアクセントが、少し鋭くなったような気がする。そして彼は、今まで私の方を一度も見なかったのに、私の目を真剣なまなざしで捉えた。
「え――あ、あの、こ、これ、何か、女神様が、人間や、その中に混ざる悪魔や、全ての生き物に罰を与えているような――地面が崩れて、地獄へ全てのものが落ちて、落ちていく生き物達が、空に向かって助けを求めるように手を伸ばしているような、そんな気がして」
彼のわずかな変化を何となく察知した私は、彼のその曇りのない目に気圧され、少し狼狽しながら、そう言った。
「……」
「そ、それに私、あなたがいつも朝早くから絵を描いているの、音楽室から見てて……あ……」
――ど、どうしよう、ずっと見てたこと、つい口が滑って……
――恥ずかしい……
「――それで?」
しかしサクライくんは、そんな私のことなど構わずに、私の言葉に耳を傾けようとする。というか、そういうことを聞いても心を動かす人じゃなかったのかな。
「あ――さ、サクライくんがこの絵を書いている時って、いつも何か、自分はこんなものじゃない、って、声が聞こえるような、そんな気がして――何か、自分への怒りや憤りをぶつけているような……」
「……」
私の要領を得ない言葉に、サクライくんは絵筆を持った手を口元に寄せ、何か考えを巡らせていた。
「――ふふ……」
そして、かすかに酷薄な笑いを浮かべた。
「面白いことを言うんだな」
そしてそんな笑みを浮かべたまま、彼は私を一瞥した。
「自分への怒りや憤り、か……」
「え?」
「確かにそうかもな、って、改めて思っただけ」
「……」
その力ない笑みが、一体どうして彼からこぼれたのか、私にはまだ分からなかった。
彼は、この絵の女神のように、何か裁きを与えたい人がいるのだろうか――神のような絶対的な力を、欲しているのだろうか……
「でも、そんな絵を、君は何故、見たいと言ったんだ?」
私の言葉に興味を持ったのか、普段無口なサクライくんが、初めて私に質問をした。
「文化祭、クラスで君とも少し話したが、虫も殺さぬ女の子の印象の君が、そんな怒りのこもった絵を見たい、と言った君の真意が解せないな」
「……」
虫も殺さぬ女の子、か……
「――きっと、私は、この絵の激しさに、惹かれたんだと思う」
「え?」
――それから私は、彼の前で、みっともない話を一人、話し続けた。
中学時代からのこと。自分では何も成していないのに、周りからちやほやされてしまい、甘やかされてしまう、そんな自分を変えようと、高校では頑張ろうと息巻いていたこと。でも、高校に入っても、何も自分では変えることができなかったこと……
そして、そんな中、この文化祭を通じて、自分の能力でどんどん道を切り開いていくサクライくんに、憧憬の念を持ったことも、正直に話した。
「――随分持ち上げられたな」
それを聞いてサクライくんは、絵筆を走らせながら、自嘲を浮かべていた。
「君は僕にテストで勝ったんだ。そんなに僕に謙ることはないと思うが」
「ううん、私はただ、テストでいい点を取っただけ――実際の私は、机上の空論を振り回すだけの、何も出来ない人間だよ。みんな私を学年トップだなんていうけど、純然たる力って意味では、サクライくんの方がずっと上だと思う……」
「力、ねぇ……」
その単語に、彼はまた酷薄な自嘲を浮かべた。
この時の私は、本当に彼に対して無神経だったんだ。彼がその力のなさ故に、この時ももがいていたことを知らずに、そんなことを軽々に口にして。
だけど――そんな時でも彼は私に対して、辛そうな素振りや八つ当たりをする気配さえ、まるで見せなかった。
それどころか――
「話をずっと拝聴していたが――マツオカ、君は一体、自分をどう評価している? 自分をどの程度に定めれば、満足する?」
「え……」
彼は変わらず、一定のリズムで、絵筆を走らせる。
「僕は中学まで、野球をやっていた。僕は人生ってのは、野球の打席に少し似ていると思っている。つまり、人生も10割打者なんてのはありえない。3割4割、その程度人生の局面でしっかり打ち返せれば上々じゃないのか。それに、ホームランでいいのか、ヒットでいいのか、チームプレーに徹するのか、そういう打席の考え方もある。それなのにマツオカ、君の話を訊いていると、君は何だか、10割打者を本気で狙っているような言い分に聞こえるんだが」
「……」
サクライくんの言葉で、私は的確に急所を抉られる。
そうだ――まさにそのとおり。私は本当に、野球で言う10割打者を狙っていた、地に足のついていない考え方をしていた。
「実際の野球でも、何でも打ち返さなくちゃ、と思って、ストライクゾーンを広げてしまって、闇雲にボールに手を出して、フォームを崩す奴がいる――君も今、何とか自分を変えたいと息巻いて、肩の力が入って、打席でバットを闇雲に振って空振りしたり、いい球が来ても、見送っちゃったりしているんじゃないのか?」
「あ――そんな感じかも……」
私は思わず納得する。
人生は、野球の打席のようなもの――か。確かに、そう考えると、私、本当に馬鹿なことをしていたのかもしれない。自分にはまだ弱点が沢山あるって知っていながら、何でもかんでも打ち返さなくっちゃって、肩に力が入ってしまって……
サクライくんと私が比較されているから、って話を聞いて、私は彼を勝手に意識して、私も彼みたいにならなきゃって、自分のペースを乱して……
「……」
沈黙。
「――マツオカ」
自分の今までの愚行を省みている際に、サクライくんに声をかけられる。
「イチローって、分かるか?」
サクライくんは絵を書きながら、私にそう訊いて来る。
「――野球の?」
「そう、野球の」
サクライくんが頷いた。
「女の子でも、イチローが世界的なバッターだってのは知っているだろ? 正確に言えば、メジャーリーグのタイ記録である10シーズン連続200本安打を記録している。2004年には、262本もヒットを打って、1シーズンの最多安打記録を作っているんだ。だが、年間200安打なんて、イチローにとってはもはやノルマみたいに思われているが、簡単な記録じゃない。イチローだって、年によっては本当にギリギリ達成っていう時もあるんだ」
「……」
「そこで、僕からひとつ、マツオカにクイズを出そう」
「え?」
「イチローは、何故毎年200本もヒットを打てたんだと思う?」
「……」
私は、いきなり振られたその質問を、もう一度頭で整理する。
イチローが、何故すごいか、という抽象的な質問じゃない。何故それだけヒットを打てたか――単純に数字の問題だ。この数字を達成できた要素を挙げろということであれば、きっと具体的な回答が可能なはず。
「――イチローが、すごい野球が上手いから、ってこと、じゃないよね」
私はクイズを台無しにする、あまりに簡潔な回答を披露した。
「それは前提条件」
サクライくんは言った。
「確かにイチローの技術ってのが一番の要素だけど、10年連続で年間200本もヒットを打つのにもうひとつ重要なことがあるんだよ。これは野球を知らなくても、単純な数字の問題で、分かることだから、考えてみな」
「……」
どうしてこんなことを訊くのだろうか。
でも、きっとサクライくんのことだから、何か意味のあることに違いない。
「――ヒントは?」
しかし私は野球にはあまり詳しくないため、ヒントを所望する。
「ヒントか――」
そう言われ、サクライくんは、何をヒントに出すか、しばらく考える。
「イチローってバッターは、ヒットが多い分、三振と四球が他の選手と比べてかなり少ないんだ。それがヒント」
「え? それだけ?」
「そう、それだけ。もうこの時点で答えを言ったのも同然くらいの大ヒントだ」
「……」