Another story ~ 2-14
「ああ、俺、あとは教室に運んどくよ。マツオカさんは吹奏楽部の練習があるんだろ?」
校舎に入ると、下駄箱でエンドウくんが台車を止めて、そう言った。
「階段上らなきゃ教室まで運べないから、台車はもう使えないしね。女の子はしんどいだろ」
「え――そんな、悪いよ。一人じゃ何往復もするようでしょ?」
「大丈夫だよ。これでも鍛えてるし、マツオカさんが重いもの持ったら、俺がついていった意味ないじゃないか」
「……」
そう言って、エンドウくんは台車のストッパーをかけて、まず玉葱のダンボールを抱え持った。
「あ、あの。今日は色々、ありがとう」
私はエンドウくんにお礼を言う。この短い時間で、私はエンドウくんに色々助けてもらったから。
「私、エンドウくんだったから、男の人と一緒でも、こうして普通にいられたんだと思う」
「大袈裟だな。別に何もしてないのに」
エンドウくんは私の言葉に、くすっと笑った。それから、よいしょ、という掛け声を出して、ダンボールを持って立ち上がる。
「ま、無理に男と関われ、って言うんじゃないさ。男が苦手なら、それもしゃあないと思うし。これからマツオカさんも、ミスコンに出たら、男の勝手なところ、いっぱい見て、男がますます嫌いになるかもしれないし、それはそれで仕方ないことだと思うよ」
立ち上がりながら、エンドウくんはダンボールの影から、顔をひょこっと出して、私を見て、そして、人懐っこい笑みを見せる。
「でもさ、避けるよりも、仲良くなれた方が、きっと楽しいよね」
「……」
エンドウくんは優しい。
こんなに優しくしてくれるのに……私はまだ、その優しさに応える術を知らない。
エンドウくんだけじゃない。みんな、私の周りにいる人は、みんな、私に……
「――どうして、私にそんなによくしてくれるの?」
私はエンドウくんに訊いた。
「え? うーん……」
いきなりそんなことを言われ、エンドウくんは段ボールを抱えたまま、数秒考えた。
「だってマツオカさん、いつだって一生懸命っていうか、頑張ってるじゃん。そういうの見てると、何か力になりたいって思うじゃん。多分クラスの奴、みんなそうだよ」
「……」
吹奏学部は文化祭では、初日に体育館を借りて、1時間半のコンサートをする。
私もフルートでパートを作ってもらったのだけれど、まだソロパートなんてもらえる腕はない。この時の吹奏学部では、先輩にフルートを吹く人がいたので、私はもっぱらその先輩に合いの手を入れるようについていくだけだった。
私はそのまま音楽室にいき、吹奏楽部の、文化祭前、最後の音合わせに参加していた。
「よし、じゃあ今日の練習はここまで!」
顧問のタカヤマ先生がそう言う頃には、もう夜の8時で、外は真っ暗だった。
「今日はみんな、早く帰って、お風呂に長く浸かって、指をほぐして、たっぷり睡眠を摂って、明日本番を迎えてね」
先生のそんな締めの言葉の後、ずっと練習をしていた人は、3時頃からやっていたので、音楽室には、ふぅ、と溜息がいくつも起こった。
「あー、疲れたぁ」
ミズキが持っていたアルトサックスを、ぐったりと下ろす。
「ミズキ、ソロパートもらって、練習ずっとしてたもんね」
アオイがそんなミズキの横で、愛用のホルンをケースにしまう。
「そう? アオイこそ文化祭に向けて、気合が入っていたじゃない」
ミズキはアオイの顔を覗き込む。
「え?」
「はじめは炒り卵しか作れなかったミズキが、あのトロトロオムライス、シオリの次に作れるようになったじゃない」
「……」
そう、文化祭に入って、私と同じくらい大人しいアオイは、私とほぼ同時に、サクライくん直伝のオムライスをマスターした。クラスの中でも積極的に文化祭の準備に取り組んでいて、他の女子の指導までするほどになっていた。
「どうしたの? もしかして、好きな男でも文化祭に来るとか」
「ひぇ?」
ミズキのその言葉に、突飛な声を上げるアオイ。
「あー、怪しいなぁ」
ミズキは妹をからかうように、アオイの肩に手を回して、アオイのふくふくした頬を、指でつんつんする。
「こら、吐けよぉ。彼氏がいるんじゃないだろうなぁ」
「い、いないよ。私……」
アオイは困ったような表情で、私の方を見る。でも、私もその手の話題じゃ、助け舟は出せないんだけどな……
――そんな二人と私は校舎を出る。クラスでも吹奏楽部でも、基本的に私は二人と一緒にいることが多くなった。
「ミズキは、彼氏が来るの?」
昇降口の下駄箱の靴を取りながら、私はミズキに訊いた。
「誘ってないわよ。今の彼氏、社会人だし。学校行事に精を出すところなんて、見られたくないし」
「え?」「え?」
私とアオイは同時に声を出す。
「すごいな……そんな年上の人と付き合えるなんて。さすがミズキ」
アオイは感心したように言った。確かにミズキは一見モデルみたいに背が高くて、かっこよくて、美人で――恋愛経験が豊富なのも無理はない。
「出会いなんてその辺にごろごろしてるわよ。男なんて、女の体を上手く使えば、年上だろうと割と簡単だし」
「か、体……」
すごいことを言う。それが大人の女というやつなのか……
でも、確かに年上の彼氏に、学校行事を頑張る姿なんて、子供っぽくて、相手には見せたくないかもしれない。実際、ミズキはあのオムライスを作れるようにはならなかったし……
「でも、いいのかな、私達、帰っちゃって」
今日は文化祭前日――中には泊まりで準備をする団体も多い。うちのクラスも、一部のクラスメイトは泊り込みで、教室の最後の飾り付けをやると言っていた。
「うちはただ、学校に泊まってみたいってだけでしょ。ここ、シャワーもお風呂も古くて汚いし、私は嫌だな」
ミズキは言った。
「……」
自転車置き場に向かって歩いていると、途中で見える校門――あのサクライくんの巨大入場門が見えてくる。ライトアップされて、絵の中の夕焼けの雲海のオレンジ色が、周りを華やかな明るい色に彩っていた。
「しかし、すごい絵ね」
ミズキが校門の前で足を止める。私とアオイも足を止めた。
絵は、夕方に見たときよりも筆が進んでいたけれど、まだ、ほんのわずか、書ききれていない部分がある。
私は上を見上げて、サクライくんの姿を探した。どの足場の上にも、姿は見えない。
そう言えば、今日はバイトにいってから、戻って全部書き上げるって言っていたな――もうバイトに行ったのか。
「あの人、何かよくわかんない人だけど、すごい人であることは確かみたいね」
ずっとサクライくんの評価を低く見積もっていたミズキも、この絵にはほとほと脱帽のようだ。それだけこの絵のインパクトはすさまじく、校内で学年問わず、サクライくんの名を轟かせると同時に、世間に埼玉高校の文化祭を宣伝する、格好の広告塔となっていた。
「うん……すごいよね。サクライくん……」
私の隣にいたアオイは、何だか沈んだ声で頷いた。
「……?」
――何か、アオイの様子がおかしい?
でも、その小さな疑問を口に出す前に、私は自転車置き場で二人と別れた。地元の私は駅を使用しないため、必然的に二人とは向かう方向が違うのだ。
自転車を5分も漕ぐと、夕方行ったあの商店街が見えてくる――
「……」
いつもなら遠回りだから通らないのだけれど、今日の私はその商店街に向けてハンドルを切った。
もう8時を過ぎていれば、飲食店を除いてほとんどシャッターが降りている、人通りも少ない。このあたりは観光地だから、5時を過ぎればもうほとんど人が通らなくなるのだ。
さっき行った洋食屋さんは、今はOPENの札がかかっている。さっきと変わらずデミグラスソースのいい匂い。
その洋食屋さんを通り過ぎて、私は少し進んだところで、自転車を止める。
私の目の前に、コンビニの立て看板が目に入ってくる――
「……」
この商店街にあるコンビニは、あそこだけ――
――ということは、あそこでサクライくんが働いているんだ。今……
「……」
――そう思った瞬間、私は自己嫌悪に陥る。
「――これじゃストーカーだよ……」
私は5秒立ち止まって、自転車でもと来た道を引き返した。
「あ、シオリちゃん、お帰り。ご飯できてるわよ」
家に帰り、リビングに行くと、お母さんが私のためにご飯を作って待っていてくれた。お父さんとシュンはリビングのテレビでプロ野球を見ていて、シズカはキッチンで洗い物をしていた。
私は夕方、サクライくんからサンドイッチをもらったので、正直あまりお腹がすいていなかった。それでも、せっかく残してもらっていたものなので、食べられるものだけ食べる。
「いよいよ明日ね。シオリちゃん、フルートをはじめて初めてのコンサート」
「私も明日、お姉ちゃんの文化祭、行くから。楽しみだなぁ。お姉ちゃんの作るオムライス」
お母さんとシズカは、ご飯を食べる私に微笑みかける。
「とりあえずこれでうちの食卓から卵が消えるな」
シュンはソファーから私にそう言った。この一週間、私が家で練習しては失敗したオムレツを、うちの家族は毎日のように、胃袋に処分してくれたのだ。
「俺も行くけど、正直もう卵はしばらく食いたくねぇ」
「でも、あの失敗した卵、全部シオリちゃんがお小遣いで買ったんだから。奥ゆかしいじゃないの」
お母さんが言った。
夕食を食べ終わり、自分の使った食器を洗い、お風呂に入って、私はパジャマに着替える。時計は10時を少し過ぎた頃。
明日から2日間、忙しくなりそうなので、早く寝たいところだけれど、夕食を食べたばかりだから、すぐには眠れそうにない。
だから何となく、勉強をする。
「……」
だけど――やっぱり、集中できない。
私、今、どうかしているな、と思う。
タカヤマ先生が言っていた、「今後あなたと彼はずっと比較され続けるだろう」という言葉を、私は意識しすぎているのだろうか。
何だか自分があの人に比べて、酷く甘やかされているような気がした……
エンドウくんは私のことを、いつも一生懸命、なんて、言ってくれたけれど……
全然、私は何も頑張れてないんだよ……
この文化祭の間、自分はほとんど何もしていないのに、周りは私に世話を焼いてくれる。
私がこうしている間に、あの人は今働いていて、それが終われば休む間もなく学校に行って、一睡もせずにあの絵を描くのだ。
私がこうして休んでいる間に、何だかあの人に差をつけられているような、そんな気がして……
そう思うと、私は一体、何をやっているんだろう、と思う。
だからかもしれない。あの人が、私にはないものを持っているように見えるのは。
そんな思いが何なのか確かめたくて、つい私は、帰り道に通らなくてもいい、夕方に立ち寄った商店街に足を向けてしまい、洋食屋のマスターから聞いた、あの人が毎日のように働いているというコンビニをのぞいてしまいそうになった。自分がストーカーみたいで、情けなくなって、途中で引き返してしまったけれど……
あの人は、頑張っている。私にはなくて、あの人にはある「頑張る」というものが何なのか、彼に会えば分かるような気がして……
「はぁ。もうやめ! 寝よう……」
モヤモヤして、何も手につかないので、私は観念して、ベッドに潜り込んだ。
だけど――
午前3時、私は1人、夜の街を自転車で走っている。
梅雨が近付いていて、夜はじっとりと湿った空気を帯びていて、空は曇天。月も見えない、真っ暗な夜だ。
結局私はあれからも眠れず、布団の中で何度も寝返りを打っていたのだけれど、観念してこうして起きてしまった。
そして自転車で、埼玉高校に向かっていた。人どころか、車にさえすれ違わない。それくらい静かな夜。
自転車の先、あの門の絵が見えてくると、私は直前で自転車を止めた。
そして、自転車を降りて、その巨大な門を見上げてしまう。
「……」
無性に今夜は、この絵をしばらく見て、考えてみたくなった。
この半月、私は彼が早朝からこの絵を描いているのを、音楽室でフルートの練習をしながら、ずっと見ていた。
彼がこの絵を書く姿からは、いつだって「まだこんなものじゃない」という叫び声が、ずっと聞こえているような――そんな気分にさせられた。
それ以来、彼の姿を見ると、いつも「まだこんなものじゃない」という声が聞こえるような気がするようになった。サッカーの練習をしていた時だって、ずっとその声が私の中で聞こえていたんだということも分かった。がむしゃらで、実直で、自分の力を真に高めようとする強い意思を含んだ、そんな凛とした声が、私の頭に響くようになっていた。
そんな叫びをぶつけるようにして、この絵はどんどん出来上がっていって。
そうして出来上がった絵は、あの物静かなサクライくんが書いたとは思えない程、躍動と迫力に満ち溢れていた。誰の目にも強烈な印象を残し、心を動かす。
「……」
この絵と、この絵を描く彼を見て、私はいつも思う。
私も、この絵を書く彼のように、ただ迷いなく前を向いて――今までの、ただの優等生で、平坦な印象しか与えない自分を変えたかった。
この絵のように、いつだって躍動して、充実した日々を送りたかった。
そのはずなのに……
私はまだ、一歩も前に足を出していない。
頑張ろう、と、自分に言い聞かせても、頑張れてない――
私だって、サクライくんのように、まっすぐな生き方をしたかった。
大人しく人の言うことを聞くだけじゃない。自分の意思で、自分の人生を動かしてみたかったのに……
「――マツオカ?」
後ろから突然呼ばれ、私はびっくりして振り返る。
後ろを見ると、絵の具の飛んだ黒いトレーナーと、夕方見た時も穿いていたチノパン姿のサクライくんが、自転車にまたがって、不思議そうな顔をしていた。
「……」
声をかけられた時、心臓がすごい音で鳴った。
まさかこの人と鉢合わせるとは思ってなかった――
って、この人がここにいることは分かっていたのに。
私、本当どうかしてるな……