Another story ~ 2-13
サクライくんが絵筆を入れるこの巨大建造物は、文化祭用に作っている入場門だ。
埼玉高校には二つ校門があって、外側の門は、毎年吹奏楽部が絵を施す出展作品のひとつとなっている。そしてもうひとつは、デザインを生徒の一般公募によって決める。
今年の第二の門は、サクライくんのデザインに決まったのだけれど、サクライくんはそれだけでなく、門の枠組みまで全面プロデュースした。わずかな人員を借りて枠組みを作ると、サクライくんは半月の間、一人で門に絵を施している。普通複数の人間が絵筆を入れるのに、一人でこの巨大な門に絵筆を入れるのは、埼玉高校の歴史上、サクライくんしかいないらしく、この門の大きさも、過去最高の規模だそうだ。
「お前の行ってたところで買い物してきたワン」
エンドウくんが、足場の上にいるサクライくんを見上げて言った。
それを訊くと、サクライくんはパレットを足場に置いて、足場を作る鉄パイプを伝って下に下りてくる。
「――何だ、そのワンダーな語尾と格好は」
サクライくんは、エンドウくんの語尾に合わせてそう言った。
Wonder――英語で、不思議な、という意味もある。語尾にかけただけじゃなく、ちゃんと意味も通るように計算して言ったのかな、と、私は思う。
「はは、マツオカさんが、男と二人っきりで緊張すると思って、緊張感のない喋り方をしてるわけ」
「……」
そう言って、サクライくんはエンドウくんの横にいる、私を一瞥する。
「珍しい組み合わせだな。女子に荷物運びさせるなんて、随分うちのクラスの男子は気が効かないんだな」
「あ、ち、違うの。私、地元だから、迷わないように道案内してただけで……」
「――そうか。お疲れ」
サクライくんは言った。凛と響く声で、静かに。
そう言って、サクライくんは巨大な入場門の横――日陰に置いてある自分の鞄から、ペットボトルを取り出して、中に入っている水を口に含んだ。
「……」
相変わらず、愛想がない――
でも、文化祭の準備が始まってから、その愛想のなさの印象は変わった。
彼は優しい。憎まれ口を聞いても、彼は困っている人に対しては、無条件で手を差し伸べている。
最近、それがちょっと分かってきたような気がする。
「あ、あの」
それでも、私はいつもサクライくんの前に来ると、何だか焦ってしまって――
「こ、これ、洋食屋さんのおじさんが、サクライくんに差し入れって」
そう言って、私は彼に、さっき洋食屋でもらった大きな紙箱を差し出した。まだ表面は温かい。
サクライくんはそれを受け取って、箱の蓋を開けると、そこには分厚いハンバーグを食パンで挟んだハンバーグサンドが、みっしりと詰まっていた。箱を開けたと同時に、いい匂いが香った。
「うほ、美味そうだなぁ!」
エンドウくんが箱の中を覗き込んで、歓喜の声を上げる。
「――こんなに食えないっての」
サクライくんは呟く。確かに箱の中のサンドイッチは、食パン一斤分はありそうなボリュームだった。
「多分二人の分も作ってくれたんだろう。よかったら、少し食っていけよ」
そう言って、私とエンドウくんは、サクライくんと一緒に、巨大入場門に背中を預けて座り、そのサンドイッチを3人で食べている。
出来立てのハンバーグと自家製の食パンのサンドイッチは、これ以上ないというほど美味しくて。
「うおっ、これ、美味っ!」
さっきからエンドウくんは、次々に手を伸ばしてサンドイッチを頬張っている。スポーツをしている若い男の子って感じだ。
「……」
それに対してサクライくんは、静かにゆっくりと、もぐもぐ口を動かして、常に一定のペースでサンドイッチを食べていた。口に頬張るようにではなく、何だか、食べ物に敬意を払うような、そんな感じ。
実に対照的な食べ方だったけれど、二人とも、食べ方を見ると、本当に美味しそうに物を食べる人だな、と思う。サクライくんも、心なしかいつもより表情が緩んでいるように思う。
「しっかし――これ、すげぇ絵だな。まだ完成してないみたいだけど」
エンドウくんはサンドイッチを口に含みながら、背中を預けている入場門を見上げる。
もう時計は5時を回っていて、その絵は夕日に照らされて、絵の中のオレンジ色を更に映えたものにしている。
このサクライくんの作った巨大入場門は、もうその手前にある美術部の作ったもう一つの入場門を完全におまけにしてしまうほどに、壮大な出来栄えだった。この絵が完成するにつれて、今年の埼玉高校はすごいらしいと、学校の近所の住人の噂がどんどん広がり、果ては地元のローカルテレビや新聞の地方欄からもネタにされるほどだった。
夕焼けの雲海の中、太陽に向かって手を伸ばしている、女神のような女性を一番上に、そこから教会のキリスト像のような、髭を生やした筋肉質の男性や、鋭い目に、鋭い角を生やした、悪魔のような風貌の獣、みすぼらしい格好をした、奴隷のような人間や、牛や馬、羊といった、様々な動物が、その下にごちゃごちゃになって書かれていた。
それは、先頭の女神がこの世に祝福を与えているようにも見えるし、神の裁きを与えているようにも見える。神々と悪魔が、この世の全てを飲み込んで戦っているようにも見えるし、天地が崩壊し、全ての森羅万象が、地獄に落ちていく時の、もがく有様のようにも見える。
神々しいようにも、禍々しいようにも見える。実に不思議な絵だった。受け取り方ひとつで、表情を変える興味深い絵として、まだ未完成ながら、校内の生徒や、外から見る人の興味を抱かせずにはいられなかった。
「これ、どんなテーマで書いてるわけ?」
エンドウくんはそれを訊いた。
「さあな」
しかしサクライくんは、つっけんどんにそう言った。
「――さあなって、お前……」
「そういうの、想像で補完しながら見た方が、見る方は楽しいだろ」
「――先入観を持たずに見た方が、想像力を働かせて、絵が見れるって?」
「ま、そんなとこ」
「……」
二人の会話を、横で訊きながら、私も想像力を働かせる――
「おーい、サクライくーん」
しかし、私の思考を遮るように、彼を呼ぶ声がした。
校舎の方から、恐らく先輩だろう男子生徒2人、女子生徒1人がこちらへやってくる。サクライくんは持っていたサンドイッチの残りを一気に口に押し込み、立ち上がる。
「君の作った音響装置のテストについて、大道具係が……」
「模擬店で電気を優先的に使いたいという団体が、一団体に割り振られた以上の電気を使いたいと……」
「来賓を招くのに、他に準備することは……」
先輩達は、矢継ぎ早に用件を言う。
「ああ、あの音響装置は――」
それにサクライくんは実に手際よく、要領よく仕事を指示していく。
「もう少ししたら僕も顔出しますから、それまで今言った方法を試してみてください」
どうやら仕事の問題がひとまず解決したようだ。先輩達は彼にお礼を言って、校舎の方へ戻っていく。
「忙しそうだな、ケースケ」
彼の背中に、エンドウくんが声をかけた。サクライくんは振り返る。
成績優秀者は文化祭実行委員に混ざって、仕事に駆り出される。私も二つの仕事を受け持っているけれど、サクライくんもその例外ではない。
その中でも、サクライくんの仕事ぶりは、校内で話題になっていた。類稀なるリーダーシップを持っていて、行動力もある。困っている人を、何も言わなくても気付いてくれて、サポートしてくれる。一年生なのに、もう今年の文化祭の実行委員の中枢的存在になっていて、先輩からも頼りにされている。一騎当千の働きをすると言われていた。
その合間にクラスの出し物にも、時間を見つけては参加してくれて、私達女子にオムレツの作り方を指導もしてくれて、その合間にこの巨大な絵を描いていた。この1週間、彼は授業をサボってこの絵を描き続けていた。
「疲れてるんじゃないのか?」
エンドウくんが訊いた。
確かにここ数日、サクライくんの姿はほとんどクラスで見ることはなくなっていたけれど、こうして見ると、無表情な彼の顔にも、疲労の色が濃くなっているように見える。
「――別に」
サクライくんは体をほぐすように背筋を伸ばした。
「そうか? お前、連日色んな部署で働き詰めだって、噂になってるぜ。鉄人ケースケも、さすがに疲れてるだろ」
「……」
サクライくんは何も言わずに、しゃがまずに全屈して、紙箱からハンバーグサンドを一切れ手に取った。
「――さて、腹も膨れたし、そろそろ再開するかな」
私達に背を向けたままそう言う。もう話すことはないという意思表示。
「……」
私の隣にいるエンドウくんが、呆れたような顔で溜め息をついた。
「ケースケ、お前も今日泊まりか?」
エンドウくんが聞いた。
「いや、バイトがあるから一度帰る。それを終えたら戻って、朝までにこの絵を仕上げる」
「こんな日までバイトかよ……」
「……」
アルバイトというと、あの商店街にあるコンビニだろうか。
そう考えていると、エンドウくんが最後のサンドイッチを手にとって、立ち上がる。
「じゃあマツオカさん、俺達も教室に戻ろうか」
そう言われた。
「あ――うん」
私は思考を中断し、立ち上がる。
その頃にはサクライくんは、もう梯子を上って、狭い足場に立ち、門の前で絵の具の調合を始めていた。
「ケースケ、頑張れよ!」
それを見上げてエンドウくんは声をかける。サクライくんは絵筆を持つ右手を上げ、2、3度回す仕草を見せた。
私とエンドウくんは、門の前に置きっ放しだった台車を引いて、教室へと向かう。
「……」
成績優秀者ということで、私も文化祭実行委員の末席に加えられてはいたが、本当に私の仕事はその末端を担っているに過ぎない。はっきり言って、私の仕事はただの労働力の貸与に過ぎない。誰かの指示のとおりに動くだけ。
そのせいか、同じクラスのサクライくんが、いまや実行委員の中で一番頼りにされている存在になっているのは、この半月余り、嫌でも目に付いていて。
私も彼も、文化祭実行委員に駆り出された経緯は同じで、スタートラインは一緒だったはずなのに――この半月、私は会社の同期がどんどん出世していくのを、ただ見ているだけの平社員のような惨めな気分を、彼を通じて味合わされていた。
でも、私はこの文化祭を通じて、次第にサクライくんに憧憬の念さえ抱くようになっていた。
彼は勉強ができるだけじゃない。自分が勉強して得た知識を、行動で形にすることが出来る。はじまりがゼロの状態からでも、自分の力と行動ひとつで、自分の居場所を作り、周りの信頼も得る。そんな彼の行動の結果を、ずっと見ていたから。
そんな強さが、私も欲しかった。サクライくんがこの文化祭で働いているのをいつも遠目で見ながら、あれは多分、私が理想としているもの――私のなりたい理想の自分のイメージに、すごく近いように思えた。
生真面目で、大人しく、引っ込み思案でステレオタイプ――そんな型にはまりがちな私にとって、彼の生き方は、いつも激しさを含んでいて……
すごく、彼が羨ましかった。
すごく、彼に憧れた。
その度に、自分の今の、何も出来ていない状態が、惨めさとなって私に返って来る――
「――やれやれ、あいつ、洋食屋のおばさんが言ったとおり、働くのが好きってのは本当らしいな」
歩きながら、私の横にいるエンドウくんが言った。
「え?」
「あいつ、サッカー部の仕事をしたくないから、ああして別の仕事を沢山受け持ってるんだよ。あいつ、部内じゃ唯一素人だから、文化祭、部に参加してたら、先輩のためにジュース買いに行かされたり、得点盤めくったり、そんなつまんない仕事を任せられるに決まってるからな。それよりかは、あんな疲れるまで働いてる方がましってことみたいだ」
「……」
「暇なのより、忙しい方が好きってのは、本当みたいだ。その忙しさに、青春のせの字も含まれてないってのは、15の身空で悲しい限りだがな」
「……」
忙しいのが好き、か――
というより、彼はきっと、自分の力を無益なことに使うことが嫌いなんだろう。慶徳でもうこの高校で教える範囲の勉強は終わっている。だから、彼にとって、もうこの高校の授業は無益。だからサボる――
彼にとって、時間は貴重なものだということも、最近ようやく少し分かりかけてきた。
――そういえば。
「ねえ、エンドウくんから見て、サクライくんって、サッカー上手いの?」
私は校舎に向かいながら、エンドウくんに訊いていた。
「え?」
「あ――べ、別に深い意味はないの。私、朝、サクライくんがいつも一人でグラウンドで練習しているの見てたから。あれだけ練習してて、今の腕前はどうなのかな、って。私、サッカーは詳しくないから、素朴な疑問で……」
私は男子のことを、こうして訊いたことがないから、途中で少ししどろもどろになってしまう……
「ふふ」
それを訊くと、エンドウくんは私を見て、にっこり笑った。
「それが気になるなら、マツオカさん、サッカーを勉強してみたらどう?」
「え?」
「ケースケはともかく、俺とユータは、ケースケの成長次第で、マジで全国狙ってるから。そしたら吹奏楽部のマツオカさんも、応援に来るだろ? その時サッカーを知ってたら、きっと知らないで来るよりも楽しいよ」
「……」
私はこの言葉をきっかけに、文化祭の後にサッカーを勉強し、次第に興味を持つようになる。