Another story ~ 2-9
わっ! わっ! まさかサクライくんがここにいるなんて、思ってなかったのに!
ただでさえ男の人が少し苦手な私の心臓は、彼の姿を捉えた瞬間、どっくんと鳴った。
「あ……」
サクライくんと、目が合ってしまう。昨日、遠目に見て、恐ろしささえ感じたあの目が、私を見ている。
「……」
沈黙。
図書室の窓に、梅雨の長雨がぱらぱらと音を立てる。
「ご、ごめんなさい」
私は沈黙に焦れて、ついそんな言葉が出てしまう。
「勉強の邪魔しちゃったかな……」
な、何言ってるんだろう。すぐに立ち去ればいいじゃない。で、でも、このまますぐ出て行ったら、まるで逃げ出したみたいで失礼だし……
「――別に」
おどおどする私に、サクライくんは頬杖を突いて私を見ている。淡々とそう述べる彼は、私とは対照的に、実に落ち着いていた。
「――ん?」
そしておもむろに、サクライくんは私を見て、首を傾げた。
その目は、私が今持っている、フルートの箱に向けられる。
「ああ、もしかして君か? いつも学校に朝来ると、下手な尺八の音が聴こえてたんだが」
「しゃ――尺八?」
「いつもこのくらいの時間に聴こえなくなるんだ」
「しゃ――尺八じゃないよ。フルートだよっ」
私は若干ムキになって否定した。いくらなんでもフルートを尺八と間違われるなんて……
「冗談だよ」
彼はニコリともせず、参考書に視線を落としたまま言った。
「……」
女性のような風貌の割に、実に口が悪い人だ。おまけに無愛想。どこまでが本気で、どこまでがジョークなのかよくわからない。
でも――なんだろう、昨日遠目に見た時のような、そんなに冷たい印象を受けない。
一人称が、僕、だからだろうか。落ち着いた印象だけれど、どこか子供っぽい面があって。
「ごめんなさい。聴き苦しいものを聞かせちゃって……私、まだ下手で、みんなの邪魔をしたくないから、こうして朝に、一人で練習しているんだけど……」
気がつくと、私はまたペラペラと、自分の身の上を語り始めていた。彼の冗談に出鼻をくじかれ、しどろもどろになってしまった私は、彼の不思議な空気につられて、つい口が軽くなってしまった。
「……」
サクライくんは頬杖を突きながら、目の前の参考書に目を落とし、左手でページをめくった。
「別に。君、高校で楽器を変えたんだろうし」
そして私の顔を見ずに、そう呟いた。
「え?」
「少なくとも以前やっていた楽器は金管や木管じゃない。僕の読みだと、前の楽器はピアノなんだが」
「な――何でわかるの?」
私はあまりに正確に私の事を言い当てられて、面食らう。
「君のフルートの音色は、メロディラインは取れているのに、音が乱れている。間延びしたり、音が掠れたり……つまり、指先はちゃんと動いているのに、音を出す技術がまだ拙いってことだ」
「……」
「指先の技術と演奏技術の上達度が釣り合わない。それはつまり、君が今まで呼吸を使わず、指先で弾く楽器をしていたからだろう。楽器経験がまったくないんじゃ、指は自由に動かない。ある程度指を動かす鍛錬をしていた――つまり、別の楽器をしていたってこと。呼吸を使わずに、指先で弾く楽器で、女の子に一番ポピュラーな楽器はピアノだからな。そう読んだだけ」
「……」
――すごい。ほとんど情報もなく、窓から聴こえていた楽器の音だけで、そこまでわかるなんて。
「指先の上達度の早さを見る限り、前の楽器ではかなりのプレイヤーだったんだろ。なのに楽器を変えるなんて、物好きだな」
「……」
そうして彼は、自嘲を顔に浮かべる。
「失礼。不要な干渉だな。お互い名前も知らないのに」
そう言って、サクライくんは自分の参考書に視線を落とす。
干渉を避けるためか、それ以上はもう何も言わなかった。
サクライくんが座るのは、8人掛けの机の角で、窓に背を向ける形だ。
「……」
この人、私のこと、知らないのかな……さっき「名前を知らない」と言ったし、何か話し方が、クラスメイトだってことを知らないような喋り方だ。
自己紹介、すべきなのかな……クラスメイトなんだし。
「あ、あの」
私は全く余裕がなくなったまま、彼に呼びかけた。彼は顔を上げる。
「わ、私――マツオカ・シオリです。サクライくんと、同じクラスの……」
「マツオカ?」
私の自己紹介を聞いて、彼の目がわずかに動く。
「――そうか、君がマツオカか」
「え?」
「君、中間テストで僕に勝っていたんだってな。どんな娘かと思っていたが、まさか同じクラスとはな」
「ああ……」
何で私の名前に反応したのか、少しびっくりしたけれど――そういうことか。
「なかなかやるね」
彼は私の目を見て、言った。
その目を見てわかる。好意的な言葉だけれど、これは明らかな社交辞令。自分があのテストで負けるのは、少し意外だったけれど、自分の高校生活は問題なく、順調に進んでいると、自己完結している。
先生達が、彼を叩きのめそうと躍起になっていたことも、まったく眼に入っていない。完全に自分と周りの雑音を切り離したような目だ。
私のフルートの音だけで、私のことを推理した、広い視野を持つのに、今の彼の目は、何も見ていない――目の前にいる私のことさえ、まったく眼中にないんだ。
彼はそれだけ言うと、もう特に私と話すことはないということなのか、再び参考書に目を落とし、右手でシャープペンを握り直した。彼は基本左利きだが、字を書く時と、箸を持つのは右らしい。
「あ、あの、私もここ、座っていいかな?」
私は彼の席の対角線上、一番離れた席を指差す。
「ああ」
彼が顔も上げないまま、上の空のような声でそう言うと、私は自分の参考書を鞄から取り出し、席に着いた。
「……」
彼が勉強しているところを見るのは、入学以来、初めてだった。
この時私は、一体彼が何の勉強をしているのか、ということに、俄然興味がわいていた。
さっき、一度も接点のなかった私のフルートの音色だけで、私の事を見破った彼の頭の回転に、驚嘆していたからだ。さすがに慶徳で3年間主席を守るだけの事はあると思った。
そんな人の勉強法というのがどんなものなのか、日本最高峰の中学のひとつ、慶徳仕込みの勉強法――日本一の15歳にまで登り詰めた彼の勉強法を、見てみたくなったのだった。
私は自分の勉強道具を引っ張り出しながら、サクライくんを無意識に観察していた。
「……」
参考書に目を落とす彼の目は、普段教室にいる時とはまるで違う。視線に一点の淀みもなく、ぴぃんと音が聞こえるような程の、張り詰めた集中の中にいるのがわかった。
右手でペンを持ち、左手で手元を見ずに、すごい速さで電卓を打ち続けている。激しい手の動きに反し、電卓の音はほとんどしないシルキータッチ。
「……」
そんな姿を見て、私はこの人を初めて見た時に感じた、あの何とも言えない清潔感を思い出していた。あの時と違い、彼の肌はサッカーの練習の激しさから、痣や擦り傷が無数にあって、瘡蓋が無防備に外に晒されているけれど、それでも彼からほのかに匂い立つ、花の香りのように清新な空気を、変わらずに感じる。
あぁ――この人から、こんな清潔感を感じたのか、少しわかった気がする。
この人は、目がすごく綺麗なんだ。
普段、誰かといる時は、とても冷たい、誰かを寄せ付けないような目をしているから、上手く気付けなかったけれど……
こうして何かひとつのことに集中している彼の目は、どこまでもまっすぐで、実直で、意思に淀みがなくて。見ているこちらも背筋を伸ばしてしまうような、そんな雰囲気に溢れている。
昨日は怖いと思っていた目に、思わず見とれてしまう。
そんなこの人は、一体何を勉強しているのだろう。
ふと私は、サクライくんの手元に置かれている参考書の表紙に目をやる。
「……」
そこに置かれていたのは、公認会計士の参考書だった。
「……」
「どうした?」
ふと、私はサクライくんに声をかけられる。
「ふえっ?」
私は彼の所作をまじまじ観察してしまって、気もそぞろだった時に声をかけられ、変な声が出てしまった。
「電卓が五月蝿いか? だったら配慮するが」
彼の目は、まだ澄んだ光を湛えたまま、私の目を捉える。
「あ、ううん。そんなことはないけど……」
私は思わず目を背け、慌ててかぶりを振る。
ど、どうしよう、私、不自然に見てたかな? サクライくんのこと……
「――そう」
そう言って、彼は再び参考書に目を落とす。
「……」
あぁ――何やってるの、私。さっきから一人で焦って、彼のこと、勝手に色々先入観だけで見てしまって。
「さ、サクライくんは、公認会計士になりたいの?」
私は再び湧き上がる焦りをごまかそうと、世間話をする体を装った。彼が私に無理に干渉をしなかったのに、こうして私がずけずけ聞くのは実に失礼だと承知していたけれど、焦りで思わず声が出てしまった。ちょっと自己嫌悪する。
「……」
しかしサクライくんは、その失礼にも顔色を変えず、電卓から手を離す。
「別になりたくはないよ」
サクライくんは座ったまま体を伸ばし、首を回しながら言う。
「え?」
私は首を傾げる。まさかそんな返答をされるとは思っていなかった。
「国家公務員一種試験か、公認会計士試験に在学中に合格すると、学費免除になる大学が多いからな。たまたまこの図書館に参考書があったんで、試しにどんなもんか、やってみようと思って」
「……」
「まぁ、大学受験と並行してやる、片手間の暇潰しだ」
「……」
その二つが、文系の国家試験で、司法試験と並ぶ最難関試験だということを、まるで懸念材料に入れていないような言い方だ。
だが、その言葉には、自信が満ち溢れている。
この人は、ちゃんと法則性がある数式や、暗記程度のことであれば、自分に解けないものはないと思っている。
改めて思い返せば、彼の行動は、その全てから、彼の絶対の自信を感じた。授業に出なくても、テストでいい点を取れる自信。サッカー部のマラソンをした時だって、絶対の自信を持っていたから、ああしてひたむきに走っていた。
この人は、とんでもない自信家だと思った。
だけどそれが、少しもナルシスト振りや、嫌味な感じを私に与えない。
それはきっと、彼のそのまっすぐな目の奥に見える、少し沈んだ光のせいだろう。
その、まだ15歳の高校生には似つかわないその沈んだ光は、彼が今まで歩いてきた道が、如何に過酷だったかを物語っている。決して妄信や、根拠のない自信ではない。ちゃんと苛酷な環境を乗り切って培った、自分でしっかりと鍛え上げた自信であるということを、その目が物語っていたから。
教室で寝ているばかりの彼は、周りを欺いているだけ――これが本当の、彼の姿なのだ。
当時の私は、その、苛酷な環境、というのを、慶徳中学のことだと思っていた。日本最高峰の秀才達にもまれながらも首席を維持した経験が、彼の今の自信を構築しているのだと、思い違いをしていたのだけれど……
「……」
――違う。
私はこの人の比較の対象になるには、あまりに役不足だ。私とこの人は、周りが言うほど実力が拮抗してなんかいない。
それは成績だけじゃない。考え方も、生き方も、五感の鋭さも、全部、違いすぎる。
私自身、彼と私が比較されているという話を訊いて、彼と私は、どこか少しは似通った存在のような気になっていた。そんな部分を探そうと、つい彼のことを目で追ってしまっていたけれど……
私と彼が、まったく遠くかけ離れた存在であることが、この時、はっきりとわかった。
彼は今まで、相当の苦労を重ねてきたのだろう。それに耐えて、耐え抜いて、それが今の彼をしっかり構築している。
それに比べて私は、ただ家族や先生に言われたことを、惰性的にやり続けていただけ――その中で、私の中に息づいているものなんて、ほんの微々たるものでしかない。
そして、今も彼は、しっかりと前を向いて、すごい速さで前を進んでいる。ただ佇んでいるだけの私や、周りで騒ぎ立てる先生やクラスメイトなど、目もくれず――
そんな違いを目の当たりにして、私は何だか呆然としてしまう。
自分のしてきたこと、自分が高校に来て、何かを変えたいと思っている意志が、彼の前では如何に薄弱なものかを思い知らされて。
だとしたら、私はこれから、どうしたら――
――がたん、という音がして、私は我に返る。
サクライくんが椅子から立ち上がって、椅子を机の中に押し込んだ音だった。
私はふと時計を見ると、もう8時15分を回っていた。朝のホームルームが教室で始まる時間だ。
「あ、あ……」
私はどうやら30分近く、そうして呆けていたらしい。慌てて荷物をまとめている間に、サクライくんは一人黙って教室を出て行ってしまった。勿論、クラスメイトとはいえ、私を待つ義理などないのだから、それはいいのだけれど……
あぁ――何をやってたんだろ、私……一人空回りとはこのことだ。サクライくんからしたら、思いきり変な女だったじゃない。挙動不審で……
そんな自己嫌悪を重ねながら、私はホームルーム開始10分前に、教室に入った。
教室に入ると、サクライくんの机の周りに、人だかりができていた。みんな教科書や参考書を持っている。
しかし、それが一気に散り散りになり、彼の周りには、すぐに誰もいなくなると、彼はまた、教室ではお決まりのポーズで昼寝に入った。
「あ、おはよう、シオリ」
タカハシ・ミズキが私の机の方にやってくる。
「どうしたの? 人だかりができてたけど」
「ああ、みんなサクライくんに勉強を教えてもらおうと思って、声をかけに行ったのよ。まさかテストで彼があんないい点取るとは思わなかったし、みんな彼の実力が気になってるからね」
「――その割には、すぐにみんないなくなっちゃったけど」
私は首を傾げる。
「ねえ」
そんな私を見て、ミズキはさっきサクライくんの側に行った女子に声をかける。
「サクライくんに、勉強教えてもらえなかったの?」
ミズキが訊いた。
「うん、有料なら教えるけど、タダじゃ教えない、って」
その女子は言った。
「そうそう、僕はタダ働きは大嫌いなんだ、って。でも、勉強をクラスメイトにお金払って教わるほど、みんなお金持ってないし」
気がつくと、私の周りには、どんどん女子が集まってくる。
「やっぱり勉強は、マツオカさんが教えてよ」
「うん、やっぱりそっちの方がよさそうだと思って、サクライくんに訊くの、みんなやめたの」
「……」
「ま、そう悪く言わないでやってくれよ」
私達の背後でそんな声がした。
見るとヒラヤマくんとエンドウくんが、私達の後ろに立っていた。
「あいつも悪気はないし、悪い奴じゃないんだ。失礼だったとは思うが、あんま怒らんでやってくれ」
「でも、確かに感じ悪いわね。頭いいのか何だか知らないけど、クラスメイトからお金を取らなきゃ動いてくれないなんて」
そんな二人に、ミズキは辛辣に言った。
「はは、その点にゃ返す言葉もねぇ」
エンドウくんが苦笑した。
「でも、二人は随分サクライくんの肩持つのね」
女子のひとりが言った。
「二人はいつもサクライくんと一緒にいるけど、サクライくんってどんな人なの?」
別の女子が、二人にそう質問した。
「ああ、もうじき文化祭だろ? そうすりゃ、あいつもみんなと関わる機会もあるだろうしさ、それで見極めてみたら?」
エンドウくんはそう言った。
「実際付き合ってみれば、あいつ、割といい奴だからさ」
エンドウくんの言うとおり、私達は6月にある文化祭で、サクライくんのことを深く知ることとなり、私はそれを知ることで、今後の高校生活のあり方を決断する事になるのだった。