Another story ~ 2-8
「わぁ、やっぱトップはシオリかぁ。さすが」
「でも、2位が1点差でサクライくんか――3位とすごい差がついてるし。シオリに唯一ついていってるじゃない」
「頭よかったんだ。あの人」
この頃になると、クラスメイト達とも打ち解けはじめ、みんなが私を名前で呼ぶようになっていた。
私達は掲示板に貼り出されている成績発表を見に行ってから、教室に戻った。
「あぁーあ! 赤点……きっついなぁ……しかも4つも……」
「幸先のいい高校デビューだな」
サクライくんは教室のベランダに出て、ハサミ一本でヒラヤマくんの髪を切っていた。器用なもので、サクライくんは美容師顔負けのハサミ裁きで、ヒラヤマくんのボサボサ頭を整えていく。
この頃のサクライくんは、サッカー部の練習で、毎日のようにヒラヤマくん達から身体を吹っ飛ばされていて、体中に痣や擦り傷を作っていた。女子の間では、彼の白い肌につく傷が痛々しいと、ヒラヤマくん達に漏らす娘もいた。
「しかし器用なもんだ。それで千円じゃおつりがくるぜ」
それを見ていたエンドウくんが言う。
「金を払えばお前も切ってやるよ」
「マジ? 散髪代はオフクロから3千円出るからな。2千円浮くぜ」
「今から2千円浮いても、赤点取ったら、小遣いダウンは決定的だな」
「何で俺が赤点取ったの知ってるんだよ!」
「お前、直前まで帰納法も漸化式もできなかったんだ。わかるさ」
「――落とした教科までお見通しかよ」
まるでテストの成績など、気にもかけないようなその素振り。
彼は入学して2ヶ月、二人以外の人とろくに接点を持たない。クラスメイトと会話もせず、そもそもクラスメイトや先生の名前さえ覚えているかもわからない。
でも、3人が揃っている姿は、本当に目を引く。特別絶え間なく話をしているわけでもないけれど、本当に居心地が良さそうだ。女にはわからない、男の世界という感じで、日に日にそんな3人を眺める女子達は増えていった。
「やっぱあの3人っていいなぁ。確かに3人ともイケメンだけど、何か絵になるのよね」
「3バカだと思ってたけど、サクライくんは頭いいのかぁ」
「ただの怠け者じゃなかったのか。こりゃサクライくんの見方を変えなくちゃいけないなぁ」
「……」
「シオリちゃん、埼玉高校でも学年トップかぁ」
家に帰り、夕食の席で、お母さんはご機嫌な素振りで私に言った。そのお祝いで、今夜のうちの食卓は、ちょっぴり豪華に彩られた。
「……」
それに対し、お父さんは複雑そうな面立ちだった。
「俺の娘なのに、何でこんなにできるんだ……シオリが東大に入ったりするのが現実味を帯びてきて、怖くなってきた……」
「父さん。飛躍しすぎだって」
まだ小学三年生のシュンがお父さんをなだめる。
「でも、私中学に入って、改めてお姉ちゃんのすごさがわかったわ」
シズカが口を開く。
「テストで2位と大差をつけて、ダントツトップが当たり前。私も今回トップ10には入ったけど、先生からは、お姉ちゃんはもっとすごかったって、そればかり……もう、嫌になっちゃう」
そう言って、ふくれ面を私に見せる。
「で? 高校でも2位と大差をつけたの?」
シュンが聞いた。
「ううん。たった1点差。ギリギリ……」
「へえぇ。やっぱり埼玉高校には、シオリちゃんも苦戦する人がいるのね」
お母さんは声を上げる。
「……」
私は食後のケーキを食べながら、自分の今の感情を整理しようとした。
「ごちそうさま」
私は早めにケーキを食べ終わると、部屋に戻り、二段ベッドの上のベッドに、どさりと倒れ込んだ。
「……」
眼前にすぐ迫る、白の天井を見て、私は考えていた。
テストでトップを取って、私は今日一日、教室や廊下ですれ違う先生達から例外なく、お褒めの言葉をもらった。サクライくんをテストで倒したことで、先生達も大いに溜飲を下げたようだ。逆に他の級友は「授業に出ていないような奴に負けて、お前達、恥ずかしくないのか!」と、先生達に沢山叱咤激励されていたけれど。
でも――
――点数の問題じゃない。
元々授業では「ここ、テストに出るぞ」というところを教えてくれる。それを知っているだけでも、私の方が有利だったのだ。それに対して、サクライくんはテストの範囲さえ分かっていなかったのだ。数学や英語ならともかく、暗記科目では絶対的に不利だったはずだ。
問題は、サクライくんが今まで悪評ばかりだった外野を、自分の力ひとつで、一瞬で黙らせてしまったことだ。
昨日まで、彼は学校で軽蔑の対象だったのに、それを自分ひとりの力で、軽蔑の視線を驚嘆のそれに変えてしまった。
私はそこに、サクライくんと私の力の差を感じた。
同じくらいの成績でも、サクライくんの力には、私にはない激しさ、力強さがある。テストでは1点だけ勝ったけれど、私には、サクライくんのように、劣勢を一気に押し返す程の力はない。それは自分が一番よくわかっていた。
結局私は、毎日勉強していても、現状維持にしかその力を用いることはできないんだ。
高校に入ったら、私も、中学の時は見えなかった、本当の自分を知りたいと思っていたのに、高校に入って2ヶ月、結局私はあまり変わっていない。私は自分で、劇的に自分や環境を変える力に乏しいのだと、改めて思い知っただけだ。
「……」
思いを巡らせていると、部屋の扉が開く音がして、妹のシズカが入ってきた。
「珍しい。お姉ちゃんが夕食食べてすぐ、ごろごろしてるなんて」
そう言われて私は体を起こし、ベッドの上から下を窺ったけれど、シズカの姿は見えない。多分下のベッドに腰を下ろしているのだろう。
「テストでこんなに差を詰められたことなかったから、焦ってるの? 今日のお姉ちゃん、元気ないじゃない」
私の足元から、シズカの声。
「ううん、そんなんじゃないよ」
私は否定しながら、少し反省した。せっかく学年トップを祝ってくれたのに、そんな家族を尻目に上の空だった自分に。
「で? お姉ちゃんに1点差の人って、男? 女?」
急にシズカの声が弾みはじめる。
「え? 男子だけど……」
「やっぱり! で? その人ってどんな人? 暗そうなガリ勉? それともカッコいい?」
「……」
私はそう聞かれ、サクライくんの姿形を思い浮かべてみる。
あまり教室にいないから、ディティールまでは思い出せなかったけれど――
エンドウくん達と並ぶと、親子くらいの身長差で、体も華奢で、顔立ちも幼い。女の子だと言われても疑わないような、甘くて儚げな印象さえ醸す。
でも――何だろう。彼の周りを覆う空気は。そんな外観とは真逆の、冷たさと激しさが共存した、氷雨のように冷たく張り詰めた空気で。
誰も彼に近づくことは出来ない。
あの人は――
「どうかな――よく分からない」
私はお茶を濁すように答えた。
「えぇ? 分からないって……お姉ちゃんって本当にそういうところ、お堅いなぁ」
「……」
シズカにせっつかれながら、私は今日の彼の仕草を思い出していた。
あれだけみんなから馬鹿にされていた事を、彼も知っていただろうに、あのテストの結果で、それを誰かに誇るでもなく、当然とでもいうような顔で――
それを見て、私ははっきりとわかった。
先生達や、彼と比較される私が勝手に気にしすぎていただけで、彼は最初から私や先生達のことなんて見ていなかったんだ。
今までの事だって、先生に喧嘩を売る気なんて、本当になかったんだ。全て自分のため――そのためだけに行動していただけ。
でも、それは、凄く残酷なことだ。
エンドウくん、ヒラヤマくんと一緒にいる彼は、絵になると、クラスのみんなは言った。
でも――私には、そうして3人が一緒にいる姿は、まるで二つの絵画を繋ぎ合わせたような、まるで別の世界のものをくっつけただけのような、そんな人工的な感じに見える。
彼は、いつも一緒にいるあの二人のことすら、路傍の石程度にしか見ていない。一緒にいるのに、本当は一緒にいない。
二人の前では、それなりに話に付き合ってあげているけれど、一度だって彼はにこりともしない。声も仕草もただただ静かで、まるで動物を観察する科学者のような、静かな目であの二人を見ていた。
私はそんな彼の目が、正直恐ろしかった。
あの人は怖い人――あんな目をする人と、出来れば関わりたくない、とさえ思った。
次の日、私は目覚ましより早く、雨の音で目が覚めた。
外はあまり激しくはないけれど、粒の大きい雨がしとしとと降っていた。
梅雨特有の長雨――あぁ、中間テストが終わって、もう6月なんだ。学校は私服だから衣替えもないし、あまり実感なかったけれど――
まだ時計は5時55分。
私は入学以来、今でも週何回かは、早朝に学校に行って、フルートの練習をしている。7時半を過ぎると一般生徒が登校してくる。まだ今の音色を誰かに聴かせる自信がなくて、7時半からは図書室に行って、授業の予習をやるのが習慣になっていた。
私は昨日のうちに、お母さんが用意してくれたサンドイッチを軽く食べて、傘を差して学校へ登校する。
外に出てわかる、じめっとして、生暖かい空気。あぁ、嫌な季節だなぁと思う。
私の家は、埼玉高校から歩いて15分。普段は自転車で登校するのだけれど、今日は雨だから、歩いて学校に行くことにする。埼玉高校に入学してから、歩いて登校するのは初めてだった。中学はテニスをしていたけれど、今は運動をしていないから、毎日歩いて登校しようかなとも考える。でも15分のウォーキングじゃ脂肪は燃えないよね……とも思う。
学校の門をくぐると、次の門の間には、左手にはハンドボールとテニスグラウンド、そして右手にはサッカーグラウンドがある。
私は雨の中、足を止めて、水浸しになっている赤土のサッカーグラウンドをしばらく見つめる。
「……」
さすがにこの雨だと、サッカーはしていないか――昨日のあんな目を見た翌日だったから、私はほっとする。
この学校は基本的、朝練を義務化してはいないけれど、私がいつも朝練習をしていると、いつもこのサッカーグラウンドを走っている人がいる。
それがサクライくんだった。
サッカー部で彼は、唯一の初心者らしい。サッカー部の監督にして、体育教師のイイジマ先生の顔を立てて、体育の授業はちゃんと出ているサクライくんは、やはりレギュラーを狙っているのだろうか。
最近はグラウンドを走った後、20メートル程の短距離ダッシュを沢山行なっている。どうやら彼は今、足を磨いているらしい。
普段はあんなに冷たい目をした人が、どうしてあんなにストイックなまでに自分を高め続けるのだろう、と私が思うほど、サクライくんの練習量は、早朝からかなりハードだった。
何故そこまで頑張るのか、その理由はわからないけれど――
フルート初心者の私は、そんなサクライくんの頑張りに引っ張られて、この早朝練習を今でも続けられたのだと思う。ジャンルは違うけれど、タカヤマ先生から彼の話を聞いて以来、何となくだけど、彼より先に脱落したくないと思えた。変な意地が私の中で生まれて、気がついたら私はもう2ヶ月も、毎日フルートの朝練習をするようになっていた。
音楽室に入ると、ビニールに包んでおいたフルートのケースから、3つに分解されたフルートを取り出し、それを組み立てた。
私は、それなりに上達が早いらしい。部活でもタカヤマ先生が、フルートが上達したと誉めてくれるようになって、徐々にこの吹奏楽部で、私の居場所ができ、部内で友達もできはじめ、部活や学校、このフルートという楽器も楽しいと思えるようになってきた。
相変わらず、私はこの繊細なフォルムの楽器で、時に調子外れの音を出してしまうけれど――
「――ふぅ。今日はこれくらいかな……」
私は息をつく。時計が7時を回ったのを確認して、フルートをまた箱にしまう。
これから私は、図書室で勉強だ。家でも勉強はするけれど、朝にこうして楽器を練習してから勉強すると、頭がすっきりして、効率がいいのだ。私の部屋は妹と共同だし、早朝の学校は一人になれて、勉強に集中できる。
そうしていつものように、図書室の扉を開くと――
「――あ」
私は思わず声が出てしまう。
私の視線の先。背の高い本棚に両端を囲まれ、その間に並ぶ8個の、8人掛けの机のひとつに、一人の男の子が座っていた。
シャープペンを片手に、開いていた参考書に目を落としていたけれど、私の声に、その顔を上げる。
「……」
女性的で、甘い雰囲気。優しそうだけど、その奥には感情の起伏がほとんどない、まるで朝凪のように静かな瞳。
そこにいたのは、サクライくんだった。
これが私とサクライくんの、ファーストコンタクトだった。