Another story ~ 2-4
「ねえねえ! 何あの子! メチャクチャ可愛いんだけど!」
「ヒラヤマくんとエンドウくんみたいなタイプに加えて、ジャニーズ系も来たね!」
「うーん……私はないな。ちょっと背が低すぎ……」
その日クラスの女子達は、新しく加わったクラスメイト、サクライ・ケースケくんの噂で持ちきりだった。
顔の造りだけで言えば、ヒラヤマくんに負けず劣らず整っているサクライくんだったが、その身長が災いして、評価は賛否両論だった。1年後には165センチ、2年後の彼は、172センチまで身長が伸びるが、入学当時は158センチ、体重は42キロと、私と大して変わらない体格しかなかったため、見た目は完全に女の子だった。
「男の娘好きとか、ショタコンとか、マニアには受けそうだけど……」
そのため、彼は最初、女子達には割と酷いことを言われていた。
――2年後、時代の寵児となる彼の秘密が世間に暴露された時、両親はどちらも、特にお父さんはプロレスラーのような巨漢だったのに、彼がここまで体が小さかったのは、成長期に満足な栄養が摂れなかったための成長障害があったのではないかという可能性を示唆した医師がいたが、それ程に彼の体は華奢だった。
「ねえ、マツオカさんは、サクライくん、どう?」
私にも話を振られる。入試トップだということがばれてから、私はクラスの女子の間では、割と発言力があるみたいだ。
「うーん――綺麗な人、だね」
私は少し言葉を考えて、そう言ったら、あまりに大真面目に言ったからか、周りの女子に大笑いされた。
「……」
多分、私が思ったとおりの意味では、きっと周りに伝わっていなかったと思う。
彼を見て、最初に思ったのは、みんなと同じ、彼の性別がどちらかということだったけれど……
それがわかってから、改めて印象に残ったのは、漠然とした言い方をすれば、彼の周りに流れる清潔感だった。
と言っても、何故私がそう思ったのかは、この時、自分でもよくわからなかった。彼の髪の毛は、長さこそ揃えられているものの、整髪の跡は皆無だったし、色も生まれた時から一度も手を加えていないだろう黒髪。眉も全く手が入ってなかったし、服装も、意識して小奇麗こざっぱりにコーディネートされているわけではない。
だけど、彼からは何とも言えない清潔感が、全身から漂っていた。静謐で、厳かな印象さえ与えるけれど、それが演出めいた仰々しさもなく、菫のような小さな花の香りのように、ほのかに薫るのだ。
中学時代、男子を畏怖の対象とさえ見ていた私は、失礼だが同世代の男子を、粗野で下品なことを好むと思っていた(実際セクハラまがいのことを、中学では何度も言われたりもした)。だけど、彼のその佇まいは、今まで私が考えていた男子の印象とは、少し違った。男子を見て、花の美しさを連想したことも、初めてのことだった。
だけどその時の私は、そのことをあまり深く気に留めていなかった。
その印象よりも、やはり彼のあまりに女性的な風貌が、強く頭に焼き付いていたからだ。私が抱いた印象も、彼をちゃんと男性と認識してのものだったのか、当時の私には、まだ区別がつかなかった。
感情が拙く、幼かったのだ。
――そんな本人は、周りなどどこ吹く風で、机に突っ伏して、動かなかった。顔は腕に隠れて見えない。どうやら眠っているようだった。
授業が始まる。
さすがに埼玉高校に入ってきた人間は、元の頭がいい上に、入学前から高校の勉強範囲をある程度予習していたのだろう。先生もそう思っているからこそ、細かい説明を省いて、どんどん授業を先に進める。
中学とは全然違う。中学では偏差値70の人も、偏差値30の人と同じ内容を勉強する。だけど高校は、周りのレベルの差がほぼ拮抗している。それを強く感じた。
私も入学前に、高校範囲の予習は多少していた。中学の先生に、埼玉高校のレベルに慣れる時間を作るために、ある程度の予習はしておけと勧められていたからだ。
でも、正直授業のスピードは早いけど、思ったほどじゃない。私立ならもっとすごいのだろうけど、県立ならやっぱりこれくらいのようだ。これなら中学の時と同じくらいの勉強法で、何とかなりそうな気がする……
――先生も今年の新入生のレベルを探りながら授業をしている。講義をしながら、注意深く教室の様子を窺っている。
「……」
だけど、先生の視線がさっきから、それとは別の感情を以って、ある一点をうろうろしていることは、既にクラスにいる全員が気付いていた。
その一点とは、勿論、授業開始時の一礼の時でさえ、机に突っ伏したまま微動だにせず、今もその時の体勢のままでいる、サクライくんの机だ。
いまだにサクライくんの机には、教科書一冊、シャープペン一本出ていない。見た限り、授業を受ける意思は皆無だった。
埼玉高校には、先生と衝突したことのない優等生ばかりが通っている。だからクラスメイトは、そんな彼の様子に、いつ先生が怒りだすか、気が気ではなかった。正直私もその一人だった。
まあ、一人だけこの時、楽しんでいる人はいたのだけれど――
「――ちっ」
1間目の古典の先生は、何も言わなかったけれど、2限の英語の先生は、授業を10分して、全く態度を変えない彼を見て舌打ちした。
先生は、彼の机につかつかと詰め寄る。私を含めて、クラスメイトに緊張が走る。
「おいお前!」
先生は怒鳴りながら、彼のジャケットの袖の後ろを掴んで、引き上げるようにして、彼の上半身を力ずくで起こさせた。
「ん……?」
重力によってだらりとしていた彼の体は、目が覚めたことでゆっくりと上がる。2時間振りに露になった彼の顔は、予期せぬところで目覚めさせられ、空ろな目をしていた。2時間と言えば、レム睡眠が終わってノンレム睡眠に切り替わった頃だから、きっと目覚めが悪いのだろう。
「初授業から堂々と昼寝とは、いい度胸だな」
教師の怒気を孕んだ声。
「……」
しかし彼はそんな怒気など感じていないように、寝起きの目をしょぼしょぼさせていた。何だかその仕草は、私に何故か猫を連想させた。
「――別に高校は、義務教育じゃないでしょう」
そして彼は、気だるそうな声で言った。
「今の僕は、授業が受けられる権利があるだけで、受けなきゃいけない義務はない――自分の持つ権利を、自己の裁量で行使しているだけですが……」
「ふざけるなよ」
先生がもう一度彼を怒鳴った。
「他の奴等の勉強の邪魔だ。やる気のある奴が迷惑するだろうが」
「――鼾、掻いてました?」
彼は訊いた。実際は鼾どころか、寝息ひとつ、寝返りを打つ際の衣擦れひとつ聞こえなかった。
「そういう問題じゃねぇ。やる気ない奴が教室にいるだけで邪魔なんだよ」
「……」
その先生の言葉を受けて、彼は眠そうな目で、先生の目を見た。
「たかがクラスメイト一人が寝てる程度で集中が乱れる程度の奴は、今勉強しようがしまいが、すぐ潰れますよ。僕が寝てようが寝てまいが、結果は同じです」
「……」
その言葉に、先生は押し黙ってしまう。
くくく、という、声を殺した笑い声が、私の耳にかすかに届く――エンドウくんのものだった。
自己の正当化であることは間違いないけれど、筋は通っている。一山いくらの偏差値の高校ならまだしも、東大合格者数県立日本一のをこの埼玉高校なら、教室で一人寝ている人間がいる程度で「集中できない」と言っている人間は、東大や早慶、旧帝大の厳しい試験に太刀打ちできるわけがない。仮に合格したとしても、勉強で目覚しい成果を残すのは無理だ。
センター試験など、1000人近い人間がひとつの部屋で試験を受ける会場も珍しくない。その1000人が一斉に鳴らす鉛筆の音や、紙の揺れる音でも迷惑と言っているのと、教室でクラスメイトが寝ているから、集中できないと言っているのは、レベルが一緒だ。彼の理論は、上位大学を目指す生徒の多い埼玉高校では正論となる。
「……」
その毅然とした論破に、完全に先生は面目を潰されてしまった。
「……」
その彼の最後の論破が、私達クラスメイトの心に、重く残留した――
その程度で音を上げる奴は、所詮その程度……
――厳しくて、残酷で、人を人とも見ていないような意見。
それを言ったのは、私達と同じ歳の男の子なんだ。
「ちょ、ちょっと待て!」
再び先生が口を開く。
「お前、そんなことを言うなら、自分はこの授業を聞かなくても、内容が理解できる自信があるんだな?」
「……」
「教科書24ページ、問7の文を訳してみろ!」
先生がそう言ったので、私はすぐにそのページを開いてみる。
「……」
――相当難しい英文だ。私もわからない単語もいくつかある。どう見てもこれは初授業で解かせる問題じゃない。完全に先生が彼をやりくるめたくて出した無茶振りだった。
「――すまん、ちょっと教科書見せてくれ」
サクライくんは、隣に座る男子にそう言った。
「教科書、全部家に置いてきてるんで」
彼はそう言った。それに先生はまた怒ったが、本人は何食わぬ顔で、隣の男子から教科書を一度借りて、それを手に取った。
「何々……自動販売機は、使う。電力を沢山。しかし、あるのだろうか、必要が、日本で、電力、これだけのを、使うのは、常に」
片言のような英訳だった。
「はぁ? 何だそりゃ?」
それを聞いて、先生は鼻で笑った。
「出来もしないくせに、偉そうな口を聞くな!」
先生はもう一度サクライくんを怒鳴りつけた。
だけど。
「サンキュ」
そう言って彼は教科書を隣に返すと、またさっきと同じ体勢で机に突っ伏し、夢の世界に旅立ってしまった。
「あぁ、全く肝が冷えたわ」
「サクライくん、可愛い顔して結構やるわね」
「そう? でも口の割に、英訳、ひどかったじゃない」
「うん、口だけ男なのかな。顔はいいけど、ちょっとがっかり……」
――昼休み、私はクラスの女子と机を並べてお弁当を食べながら、今日の授業のことを話していた。といっても、やっぱりみんな授業より、サクライくんと先生達のバトルの方が気になっていたようだけど。
サクライくんは、あの片言の英訳のせいで、クラスメイトの評価を更に落としていた。大きなことを言って、実力はたいしたことがない奴という評価は、噂に乗ってどんどんクラスに広がって言った。
「……」
みんな、気付いていないの?
あの難しい英文を、彼は片言でもノータイムで訳した。あれだけ訳せば、意味は「自動販売機は電力を沢山消費する。しかし日本はこれだけの電力を自動販売機に使う必要があるのだろうか」という意味にはすぐ辿り着ける。
あれは大学受験用の英文の読み方だ。
大学受験を考えると、英文を完全な日本語に訳す必要性というのは、実はほとんどない。これは上位大学ほどその傾向が顕著になる。慶応や上智といった私立大学は、90分程度の試験時間で、1000単語以上の英文を4つ5つ、普通に読ませる。そうなるともはや英文を読み返す時間さえない。ましてやそれらを全て完璧に訳していたら、それだけで試験が終わってしまう。英文を完璧に訳せ、なんてことを癖にしてしまうと、大学受験の英語はかえって点に結びつかなくなるものだ。
彼はそれをわかっているから、英文を単語、熟語レベルに細切れにして、日本語と同じように一つ一つ訳していった。それなら英文を全部読んでからでなくても訳せる。ノータイムで英文の意味を読み取る最も効率のいい方法だ。これなら英文を読み返さなくても、ちゃんと意味は取れる。
それを、中学から上がったばかりの彼が、鮮やかにやってのけた。相当実戦で鍛えていなかったら、できない。私もまだああいう訳し方は出来ない。
――確かに彼は、あの先生のやる英語の授業を受ける必要はない。
厳しいことを言うだけのことはあると、私は驚嘆していた。もしかしたら彼はもう、上位大学の英語の試験問題をクリアできるだけの力があるのかもしれない。
クラスメイトは、まだそれに気が付いていなかったけれど……
もしかしたら、私の方が彼を過大評価しているの? とも思えてくる。
この時の私は、彼の本当の実力を、まだ理解できていなかった。